いもむし男−第1章


《プロローグ》

その日、翔吾は東京で画廊から画廊へと走り回って疲れ果て、最終列車の車中で泥のような眠りに落ちた。よほど疲れていたのだろう、体の芯からタマシイを引き抜かれるという夢を見て、さらにグッタリ疲れて目を覚ますとちょうど電車は塩山駅のホームに入ったところだった。
ここで降り損なうと後は無い。彼は慌てて座席を離れ、寝起きのもつれる足をひきずりながら出口に辿り着いた。寝起きというのは足がもつれるものだ。足だけではない。指先の感覚も鈍くなっている。手摺りを掴む右手にも力が入らない。

そう思いながら手摺りに絡む自分の手を見た翔吾は、そこに見慣れないものを見た。
何だろう、この黄色いクロワッサンみたいなものは?

その時、電車が止まり、目の前のドアが「シュッ」と思い切りの良い殺虫剤みたいな音を立てて開いた。翔吾はドアが開いたので反射的に降り、本能的に改札へ向かった。改札へ行くには階段を昇らなければならないが、疲れているのと寝起きのせいで足が上手く持ち上がらない。翔吾と同じ電車から降りた客は同じぐらいくたびれた態の中年男と若い女性の二人連れだけだったが、彼がもたついている間に3人は脇を追い越して行った。中年男は自分のくたびれた靴を見つめながら階段を昇り、女性達は小さな声で電車の中からの会話の続きに夢中だった。

が、翔吾を追い越して行った女性の内の一人が、ふと何かを思い出したように立ち止まり、隣の友達の肩越しに振り向く。彼女の目はまっすぐ翔吾に向けられたが、一瞬の驚きの色を残してすぐにまた前方に戻された。何か、見てはいけないものを見てしまったような顔で。

その女性はさりげなく友達を促して足早に自動改札を抜けて行った。翔吾がやっと改札まで昇った時には、もう誰もそこには居なかった。売店はすでに閉まり、改札口脇の駅員室にも人気は無い。壁に貼られたJR東日本のポスターの中で、鮮やかな紅葉の景色をバックに美しい女優が微笑んでいるだけだ。しかし彼女はもう何日もそこで微笑んでいるので、いくぶん投げやりな笑顔になりつつあった。

翔吾は自動改札の前で息を切らし、それにしても今日はどうしてこんなに体が重いのだろうと思いながら首を二三度左右に振った。それから上着のポケットに手を入れて切符を探した。切符は右のポケットに入っていた。いつもの通りだ。電車に乗ったら、切符は右のポケットに入れることに決めている。そう決めておけば切符を失くして慌てることもないのだ。大丈夫、いつも通り、間違いは無い。何も変わったことは無いハズだ。

だが翔吾は、切符を掴んだ自分の手を凝視したまま、きっちり3分間、その場を動くことが出来なかった。

それは自分の手だと確信を持って宣言するにはかなり覚悟のいる様相をしていた。まるで散歩の途中で道端に死んでいる人を見つけて、「死んでいるのは自分だ」と宣言するのと同じぐらいの覚悟が必要だった。皮膚は艶のある黄色味を帯び、手の甲は大きく肉厚に盛り上がって、ちょうどクロワッサンを二つに切ったように半弧を描いて湾曲していた。爪は細長く内側に曲がり、先端は鋭く尖っている。指は一応5本ずつ揃っていたが、薬指と小指は今にも合体しそうに根元の方がくっ付いていた。




《亜輝子》

デスクの時計は1時13分を示していた。亜輝子はパソコンの画面から顔を上げて小さく舌打ちをし、傍らに広げた図面をボールペンの尻でピシピシ叩いた。終電が駅に着くのは0時26分である。駅から家までは歩いて8分。仮にのんびり星を眺めながら、ついでに社交ダンスのステップでも踏みながら歩いたとしても20分とかかるまい。たった8分の道中を、どうやったら1時間もかけて帰ることが出来るのか亜輝子には不思議でならなかった。

しかし翔吾に関して言えば、これはさほど珍しいことでもない。今年の春には途中の歩道で躓いて足首を捻挫し、あまりの痛さにしばらく立ち往生していたことがあった。電柱にしがみついて痛みを堪えていたが、ちょうど後ろから女子高生が歩いて来たので酔っ払いに間違われるんじゃないかと気が気じゃなかった、などと言っていた。この場合問題となるのは、歩道の段差で足首を捻挫した男と酔っ払いの決定的な違いは何かということだが、そんなことを話した翌月には、今度は電柱にぶつかって30分気絶していた。しかも亜輝子が助けに行くと、倒れた翔吾の周りには不安そうな顔の子猫が5匹も居たのだ。

「あなた、ねぇ、そこで何してるの?」と呆れ果てて彼女が言うと、驚いた子猫達はてんでに3メートルばかり飛び退いた。

「ああ・・・電柱に、ぶつかっちゃってさ。」翔吾はそう言いながら体を起こし、掌で額をさすった(幸いコブは出来ていなかった)。

「だから、どうしてあなたは電柱なんかにぶつかるのよ?それとも、電柱があなたにぶつかって来たの?」

「いや、僕が電柱にぶつかったんだ。電柱は僕目指してぶつかって来たりしない。もし電柱が僕にぶつかって来るんだったら、いちいち避けて歩くのがたいへんだし、電線も絡まってしまうから東京電力の下請け会社の仕事が増える。」

「だから、そうじゃなくて・・・」

「うん、わかってるよ。子猫が着いて来たからさ、どこまで着いて来るんだろうって、後ろを振り向きながら歩いてたんだ。それだけさ。」翔吾がそう言って口笛を吹くと、飛び退いた子猫達は母猫に呼ばれでもしたかのように嬉しそうに寄って来た。

あの時の翔吾の顔ったら・・・亜輝子の頬が自然に緩む。さっきまで気絶していたくせに、子猫になつかれてあんな素敵な笑顔になって・・・しかし、家の前まで着いて来た子猫を彼女は断固として追い払った(猫好きと猫の世話が出来る人間は別ものだ)。

まったく、もう・・・亜輝子は図面を閉じ、椅子に座ったまま伸びをした。今日は土曜日だからいいけれど、いいかげん私も寝たいんだけどな・・・。

時計は1時25分になった。と、玄関扉の開く音がした。

「ただいま。」



ようやく家に辿り着いた翔吾は、もつれ方がだんだんひどくなる足を引きずりながら、ほとんど這うようにして洗面所へ向かった。途中でダイニングの椅子にぶつかり、キャビネットの上の果物籠を落として四方八方に梨を転がし、何組かのスリッパを蹴散らした。構うことは無い、とにかく一刻も早く鏡を見なければならないのだ。亜輝子に見られるその前に。

幸い、亜輝子の書斎は2階だった。それに彼女は冷静沈着型なので、少々の物音では驚いて飛んで来たりはしない。隣が火事になっても延焼の恐れは無いと判断すれば平気で寝ていられるタイプだ。地震があっても机の下に隠れるのは翔吾の方で、彼女は「この揺れでは我が家は倒壊しない」と言って平然と食事を続けていられるのだ。知り合ってから14年経つけれど、彼女が驚き慌てるのを翔吾はまだ一度も見たことが無かった。

「おかえりなさい」という声が2階から響いてきた時、翔吾は洗面所に到着した。肩で息をしながら壁のスイッチを押し、同時に鏡を睨みつける。シーリングライトが灯り、洗面所の無機的な空間と鏡の中の男を白々と浮かび上がらせた。

そこに映ったのは、ひどく疲れ蒼ざめてはいたけれど、いつもの見慣れた自分の顔だった。どこかにアザが出来ているとか、腫れて変形しているといった変化は特に無い。翔吾はホッとして、乱れた前髪を手でかき上げた。ああ、良かった、さっき手が変に見えたのは気のせいだったんだ。その証拠に、ほら、今、鏡に映っている手はなんとも無いじゃないか。

「え?」

翔吾は鏡から目を逸らし、自分の両手をもう一度見た。黄色味がかった、クロワッサンのようになった手を。それはさっき駅で見た状態のままだった。膨らんで湾曲した、およそ人間の手とは思えないような色と形。その手を鏡の前にかざして見る。鏡の中には、いつも通りの自分の手が映っている。これはいったいどういうことなんだ?

その時、鏡の中に亜輝子の姿が映った。

「ねぇ、どうかしたの?」

彼女は洗面所の入り口に立ち、軽く腕組みをしていた。眠気のせいか疲れのためか、表情は硬く、無理に笑顔を作ろうとしているのがわかる。翔吾は鏡の方を向いたまま、深く息を吸い込んで呼吸を整えようと努めた。が、心臓の鼓動は激しくなる一方で、今にも胸から飛び出てそこら中を跳ね回るんじゃないかと思うほどだった。

「亜輝子・・・」カラカラに乾いた咽の奥から搾り出した声は、アルタミラ洞窟に描かれた1万5千年前の野牛の呻き声のように遙かな時空の隔たりを感じさせた。「亜輝子、そのまま、そこを動かないで。そこから、鏡に映った僕の顔が見えるだろ?」

「見えてるわよ。」と彼女は出掛かったあくびをかみ殺しながら答えた。

「映ってるのは、僕の顔かい?その、いつも通りの。」

「いつも通りのあなたの顔よ。かなりくたびれてるみたいだけど。くたびれていてもイイ男よ。だから早く寝た方がいいわ。」

翔吾は少しだけ手を体の陰から出して言った。「この手は、どう?見える?」

亜輝子は溜息をついて頭を傾けた。少し機嫌が悪くなって来たようだ。無理も無い。ちょっと間を置いて、勢い良く鼻から息を吸い込んだ。「手?見えるわよ。だから、それがどうしたって言うの?あなたの手でしょう?指は5本、全部で10本、とても器用な、小まめな手・・・」しかし、翔吾が少しずつ手を上げて行き、鏡の中の像ではなく、実際の手が彼女の視野に入った時、言葉は途切れた。

どうしたのだろう、この腫れ上がった手は?いやそれよりも、なぜ鏡の中の手と実際に見る手が違って見えるのか?どちらが本物の手なのだろう?鏡の中の像がいつも通りでも、実際の手が尋常じゃないことになっているなんて・・・いや、ということは、もしかしたら鏡の中の顔がいつも通りでも・・・?

「僕も、それに気付いて困っているんだ」と、彼女の心を読むかのように翔吾がつぶやいた。

「でも・・・確かめないと」と亜輝子が言った。「なんとも無いかもしれないし」

「うん・・・いつまでも君に背中を向けてはいられないしね」

「振り向いていいわよ」

「本当に?」

「大丈夫」

「じゃあ、振り向くよ、せーの、」

そして翔吾は振り向いた。彼の顔を見た瞬間の亜輝子の顔は、翔吾にとって一生忘れられないほどの強烈な印象を与えるものだった。



《変身》

亜輝子は、目と口と鼻の穴を極限まで全開放した顔のまま後ずさりし、廊下の壁に大きな音を立てて背中をぶち当てた。彼女の驚愕反応が芝居や冗談でないことは、かすかに髪の毛が逆立っていることからもわかる(きっと体中に鳥肌が立っているのだろう)。

「そんなに・・・ヒドイ?」翔吾は自分の顔に驚いている亜輝子の顔に驚き、それから改めて自分の顔の状態を想像して恐ろしくなった。もう一度鏡を覗いたが、そこには困惑する疲れ切った自分が映っているだけだ。掌で顔を触ってみても、妙な感触が顔のせいなのか変形した手のせいなのかわからなかった。

「ごめん・・・ごめんね」と、背後から亜輝子の声がした。彼女は外れかかった顎を戻そうとするように顔をゴシゴシとこすった。

「大丈夫、ちょっと、驚いただけだから・・・」

翔吾は鏡の方を向いたまま、そこに映る亜輝子に言った。「ちょっと、という風には見えなかったけどね。そんなにヒドイ顔になってるの?」

「うん、ヒドイというか、何て言ったらいいのかな・・・上手く形容できないんだけど・・・」

「ねぇ、はっきり言ってくれないかな。僕には見えないし、どう見えるのか知りたいし。1時間殴られっぱなしのボクサーみたいになってるとか、たった今ミキサー車に轢かれたばかりのヒキガエルみたいだとか、二日酔いのアナコンダの顔みたいだとか、何か言いようがあるじゃないか。この顔を何かに喩えるとしたら、一言で言うと何なんだい?」

翔吾に詰め寄られ、亜輝子は眉間に皺を寄せ顎を引いてゴクリと唾液を飲み込み、小さな声で呟いた。

「・・・イモムシ」

「へ?」と、翔吾が訊き返す。

彼女はもう一度、今度は自信と確信を持った口調で言った。「イモムシよ。あなた、イモムシそっくりになってるわ」

「イモムシ?」翔吾の脳裏をさまざまな昆虫の幼虫がうじゃうじゃと這い回った。「イモムシって、あの、イモムシ?」

「あのイモムシ以外のイモムシって、私には良くわからないけれど、たぶんあなたが考えているイモムシと私が言ってるイモムシは同じイモムシだと思うわ」

「つまり、毛虫じゃない方の奴のことだね?」

「そう、毛虫じゃない方の奴」

「それなら良かった」と翔吾は溜息をついた。「毛虫になるのだけはどう考えても承服し難いからな」

「翔吾さん・・・」

「怒るなよ。だって仕方ないじゃないか。僕にはいつもの顔しか見えないのに、君は僕をイモムシみたいだと言う。君がそう言うんなら、きっと僕はイモムシになっちまったんだろうよ。君がウーパールーパーみたいだと言えば僕はウーパールーパーとして生きるしかないし、もし君がゴキブリみたいだと言えば今日から僕はゴキブリ亭主ってわけさ」

そう言いながら翔吾がこちらを向いたので、亜輝子は思わず目を逸らした。その様子は疲れた彼をさらに落ち込ませた。翔吾は半ば自棄になり、傍にあった脱衣籠をひっくり返して中からTシャツを拾い上げると、それを被って顔を覆った。白いTシャツには赤い文字で『This is a Joke』と書いてあった。

「いい考えがあるわ」顔を上げながら亜輝子は言った。「今日は、もう、寝ましょう」

「そうだね」と、Tシャツの上から頭を掻きながら翔吾は同意した。「明日、目が覚めれば顔が元に戻ってるかもしれないし。今ここでいくら考えてもどうしたらいいのかわからないし」

「そうよ、これはきっと悪い夢なのよ。今からちゃんとぐっすり寝て、明日目が覚めれば、あなたはいつものあなたに戻っているハズよ」亜輝子はそう言って精一杯の笑顔を見せた。

その後、二人はそれぞれの寝室に別れて灯りを消した。亜輝子の寝相がすこぶる悪く、いつも翔吾がベッドから突き落とされる羽目になるため寝室を分けたのだが、こんな時は別寝室が有難い。とりあえずは相手のことを考えずに眠ることが出来る。もし運悪く眠れなかったとしても、一人になって考えることが出来る。だが、何を考えればいいのだろう?




《承服出来ない事態》

一端ベッドに横になったものの、翔吾はやはり眠ることが出来なかった。疲れ果てた体は睡眠を要求していたが、その一方で盛んに細胞分裂を行っているようだった。いや、これは矛盾したことではない。成長ホルモンは睡眠中に分泌され、細胞が活性化するのだから。新しい細胞が生まれ、古い細胞が死んで行く。新しい自分が生まれ、古い自分と入れ替わって行く・・・

(暑い・・・)

翔吾は布団を跳ね除けて起き上がり、ベッドサイドの灯りを点けて掌を見た。彼の手は、黄色いクロワッサンのままだった。しかしさらに神経を集中すると、体の他の部分で「何かの新しい気配」があるのを確かに感じた。どこだろう?足だろうか?

彼の両足は電車を降りる時からもつれていた。筋肉がこわばり、2本の足が別々に動くことを断固として拒否するかのように抵抗していた。だが目に見える変化はまだ無かったのだ。つい先ほど、パジャマに着替えた時までは。

翔吾はベッドに半身を起こしたまま手を閉じたり開いたりしてしばらく考えていた。足が熱を持っている。それは今や疑いようの無い事実だった。両足に変化が起こっている。おそらくこの両手のように、黄色い膨れた皮膚になるのだろう、と彼は心の中で自分に言い聞かせた。覚悟が必要なのだ。そして冷静になって考えること。何を考えるのか?自分の身に何が起ころうとしているのかを考えるのだ。

だが冷静に考えていられるほど事態は生易しくなかった。そうこうする内に、熱を帯びた部分が全身に広がって来たのだ。皮膚の下に小さな活火山がびっしり埋め込まれて、絶え間なく火の粉を噴いているかのようだった。やがてそれは、洪水のような汗となって一斉に噴出した。

「うわーっ」

翔吾は思わず声を上げ、立ち上がろうとしてベッドから転がり落ちた。そして床を転がりながら無意識の内にパジャマを脱ぎ捨て、下着も脱いでしまった。サイドチェアに掛けてあったバスタオルを取ろうとしたが、体は反対方向へ転がって行った。爪先が勝手にじたばたと暴れ、書棚を蹴飛ばして本の雨を降らせた。幸い、分厚く重い画集は降って来なかったが、美術雑誌が十数冊、彼の頭を直撃した。

「いたたたたっ」

本は硬くて痛い。とりわけ「無防備な頭」にとっては。(無防備?)翔吾は頭を抱えながら、突然そのことに気が付く。

髪の毛が、無かった。1本も。

彼は呆然として、ベッドサイドの灯りの下に自分の髪の名残を探した。が、それはどこにも散らばっていなかった。髪は抜けたのではなく、別次元に消えたか、さもなくば吸収されて他のものに変化したのだ。(他のもの?他のものって、何だ?)しかしそんなことが自分にわかるわけがない。とにかく本を片付けなければ。どうやら汗も一段落したみたいだし・・・

翔吾は体の上の雑誌をどかし、もう一度立ち上がろうとする。その時になって、ようやく事態の全容を把握した。把握せざるを得なかった。それが、決して承服出来ない事態であったとしても。



翔吾が己の運命と対峙している頃、亜輝子はデスクに向かったまま、椅子の背もたれに仰け反り大口を開けた格好で眠っていた。一端ベッドに入ったが、やはり眠れないので書斎に戻り、インターネットで「イモムシになる奇病」を検索していたのだ。

勿論そんなものが見つかるとは思っていない。が、何かせずにはいられなかった。明日になって公明正大なお天道様が昇れば全ては解決する、と思いたかったが、そんな期待が期待通りに実現したためしはなかったからだ。そんな時はそもそもお天道様を公明正大だと思うことが間違っているのか、お天道様に期待するだけで解決の努力をしない自分が間違っているのか、あるいはその両方なのかについてしばらく考えねばならなかった。亜輝子が34歳の現在得ている結論は、お天道様は公明正大だが自分も多少は努力をしなければならないのだ、ということだった(また数年後にはこの結論は覆されるかもしれないが)。

キーボードを打ちながら、(それにしても便利な時代になったものだ)と彼女は思った。インターネットで検索すれば多かれ少なかれ何らかの答えが出る。およそ人間が思い付く限りのことに関して、誰かがどこかで言及しているのだ。この膨大な知識と雑学とウンチクと含蓄と思い付きと思い込みの言葉の坩堝が世界中を瞬時に飛び交い、必要とあればいつでも誰でも閲覧することが出来、その上リアクションを書き込むことによってコミュニケーションも図れるというのは驚異だ、とつねづね彼女は思っていた。そしていつもその後こう思うのだった、「それなのに、どうして未だに国境なんてものがあるのかしら?」と。

いずれにしても「イモムシになる奇病」は実在しないようだった。検索して出て来たのは日野日出志の怪奇漫画に関するものがほとんどだったが、日野日出志を読んだことの無い亜輝子にはそれがどんなものなのか想像もつかなかった。他には小説の中の変身譚からの抜粋と思われる記述がいくつか並んでいるだけだ。それらの物語の結末は、大方の予想通りの悲劇だった。

亜輝子は首を振って深呼吸をし、気を取り直して今度は「イモムシ」で検索した。翔吾の顔はどのイモムシに一番似ているのか、それがわかれば彼がこの先どんな蝶になるのか、または蛾になるのかの予想が付くかもしれない。どちらにしてもとても大きな、美しく力強い羽を持つイキモノになるだろう。そしたら私は彼の背中に乗せてもらって一緒に空を飛ぶのだ。そして山を越え、海を渡ってどこまでもどこまでどこまでも飛んで行く。そうだ、それがいい・・・

亜輝子の希望的夢想が彼女の前頭葉をゆっくり覆い、つかの間の牧歌的な眠りの国へと連れて行った。




《目撃者》

同じ頃、甲州市勝沼町の築150年になる民家の2階で、同じように眠れぬ夜を過ごす者が居た。佐原文子、24歳。甲府の宝飾会社『Le'z』に勤め、ブドウ農家を営む両親と同居している独身女性である。彼女はこの日、同じく勝沼に住む幼馴染みの女友達と渋谷でビジュアル系のロックコンサートを楽しみ、竹下通りのお気に入りのとんかつ屋「ぶひ丸亭」でヒレカツ大盛り定食を食べてビールを2杯飲み、互いのボーイフレンドをネタに大いに盛り上がりながらウィンドショッピングをし、新宿23時発の「特急かいじ123号」に乗って0時26分に塩山駅に降り立ったのだった。

「だからさぁ、健二って、どうかと思うじゃんね」と口を尖らせる友達を、「まぁ、そう、言っちょし」と文子はたしなめた。親しい友との会話には、わざと甲州弁を使うのだ。その方が互いにリラックス出来て本音を言い合える。コミュニケーションはどんな場合でも開いた心で行うものだ、というのが彼女のモットーだった。

文子が友達と一緒にホームを階段へ向かっていると、前を歩くグレーのスーツの中年男性が目に入った。とても疲れた足取りで、今にもグズグズとホームにめり込んでしまうのではないかと思われた。(土曜の夜にこんなにお疲れなんて)と彼女は少し気の毒になり、友達と話す声のボリュームを下げた。中年男性はそんな彼女の配慮には全く気付かず、自分の靴だけを見つめながら階段を昇って行った。

階段の手前にはもう一人の男が居たが、階段を昇ることになぜかひどく手間取っているようだった。文子は(きっと酔っ払いね)と、友達の顔越しに軽く一瞥して脇を通り抜けた。さっきの中年男性はもう自動改札を抜けている。駅員は用でも足しているのか誰も姿を見せない。さぁ私達も早く家に帰らなくっちゃ。もうお父さんは寝ているからタクシーに乗るしかないけれど・・・

が、突然、文子の足は磁場に囚われでもしたかのようにピタリと動かなくなった。そして有無をも言わさぬ力が、彼女の頭を掴み、強引に振り向かせようとする。

(イヤ、止めて、私は見たくないっ)文子は抵抗した。彼女を立ち止まらせ、振り向かせようとしているのは彼女自身の好奇心だ。抵抗しているのは彼女の恐怖心だった。どちらが勝つかはわかっていた。酔いも少しは残っていたし。

そして彼女は振り向き、その男の顔をしっかり見た。

それはほんの数秒のことだった。

友達は彼女が立ち止まったことにすら気付かずに改札を抜け、二人は同じタクシーに乗り、家の前で「オヤスミ」を言って別れた。

「オヤスミ」。

だが、文子は眠れなかった。目を閉じても開いても、その男の奇妙な顔が浮かび上がって消えない。あの人はどうしたのだろう?病気?それとも事故に遭った後遺症?いや、そんな感じじゃなかった。もっと、尋常じゃない、何かこう、人間を超越したもののように見えた。人間じゃなかったのかもしれない。人間じゃないとしたら何かしら?宇宙人?まさかね。

しかしそこまで考えて、文子は今年の2月に野外スポーツ広場で開催された「星空の会」のことを思い出した。山梨は星がとても良く見える。夜空の美しさに惹かれ、それを目的に都心から移住する人も多いぐらいなのだ。「星空の会」は、そういった移住者と地元の親子連れを対象に星の名前や星座の見方をレクチャーする研究会である。会場には特大の天体望遠鏡が設置され、星の専門家による専門知識が初心者向けに優しく楽しく解説される。参加は無料、参加者にはホットワインが提供されるとあって、その日も広場には大勢の市民が集まり皆一様に空を見上げていた。

文子も白い息を吐きながら星空を見上げ、望遠鏡を覗く順番を待っていた。天体観測に興味は無かったが、たまたま土曜日のデートが直前にキャンセルになったので、腹いせと時間つぶしのために参加したのだ。誰かが言ったように、星空を眺めていると確かに心が安らぐようだった。身勝手なボーイフレンドのことも許せる気分になって来る。たまにはぼんやり星を眺めて何万光年先の見たことも無い世界に想いを馳せるのも悪くないな、と考えていた時、横に立っていた初老の男性が同じように星空を見上げながらボソリと言った。

「現在、山梨に居る宇宙人は46人になりました」

「え?」と、文子は男の方に目をやったが、暗闇なので相手の顔は良く見えなかった。

「全国でおよそ300人ぐらいですから、都道府県別に見ると46人というのはかなり多い方です」と、初老の男は続けた。

文子はもう一度星空を見上げて訊いた。「そんなに居るなんて知りませんでした。宇宙人に会ったことがあるんですね?」

「今までに3人の宇宙人に会いました。その内の二人は牧丘に、もう一人は石和に住んでいます」と、しごく真面目な、落ち着き払った口調で男は答えた。

その男がどこの誰だったのか文子は知らない。望遠鏡を覗く順番が来て、金星をじっくり見て、もう一度周りを見回した時には男はどこかへ消えていた。

(牧丘に住んでいるなら塩山駅で降りても不思議は無いな)と文子は思い、宇宙人が「特急かいじ123号」に乗って山梨に帰って来る様子を想像した。宇宙人が終電に乗るまで東京で何をしていたのかはわからない。きっと彼にも色々用事があるのだろう。永田町で全日本宇宙人の会に出席し、その後、歌舞伎町で地球人研究のためにキャバレーに入ったものの酒を飲みすぎて店の女の子の服にゲロを吐き、怖いお兄さんに弁償しやがれこのエイリアン野郎と迫られてなかなか帰れなくなった、とか。

そして今度は声に出し、「まさかね」と布団の中で呟いた。




《10月18日・日曜日》

次の日、亜輝子が目覚めたのは11時35分だった。デスクでパソコンに向かっていたのは覚えているが、寝ていたのは寝室のベッドの中だった。眠ったまま書斎を出て寝室まで移動したとは考えにくいから、おそらく翔吾が運んでくれたのだろう。耳を澄ますと階下のキッチンから料理をしているらしい物音が聞こえて来た。何やら良い匂いも漂って来る。彼女は食欲をそそる匂いに惹かれてベッドを離れた。カーテンを引くと、窓から秋の透明な陽射しがまっすぐ差し込んだ。今日は10月18日、日曜日だ。

階段をゆっくり下りながら、亜輝子は鼻をひくつかせて料理の役者を思い浮かべる。オリーブオイルとベーコンと玉ネギ、それからブラックペパーとバジルの香り(トマトも少し)。それと玉子を焼く匂いがする。翔吾の作るスクランブルエッグが彼女は大好きなのだ。ふっくらとして半生具合がちょうど良いから。

二人が結婚してからずっと、食事の支度は翔吾の仕事だ。いや、料理だけではない。亜輝子が外で(朝から時には夜中まで)働いているので、食材の買出し、洗濯、掃除から繕い物に至るまで家事は全て、一日中家に居る翔吾が受け持っていた。特に料理や洗濯が得意というわけではなかったけれど、彼はいつもそれを芸術的に美しく仕上げた。彼の手に掛かると、ただの洗濯物が海風にたなびくヨットの帆のように清々しく見え、情けない靴下の穴までがカラフルなパッチワークに変身した。

「何にせよ、大事なのは美意識だ」と、彼は言った。

しかし翔吾のアトリエはしばしば、描き掛けの絵と出しっ放しの画材や本やデッサン帳で足の踏み場も無い状態になった。亜輝子が呆れていると、彼は悪戯を見つけられた少年みたいに困った顔になり、「美意識は、必ずしも片付いている状態に優位を与えるわけじゃないんだ」などと言うのだった。

「まったく、もう」と呟きながら、彼女は立ち止まって小さく思い出し笑いをする。

「まぁそれでも、翔吾のあのアパートよりは遙かにマシだけど・・・あれは本当に凄かったなぁ。」

彼女は当時の様子を脳裏に描き、ほんの少し眉を寄せ、それから再び階段を降りようとした。が、彼女の両足は意思とは逆に後ずさりを始めていた。

「楽観的でないと建築士は務まらないのよ」と、いつか翔吾に言ったのは彼女の方だ。「おまけにちょっと自虐趣味もあるかもしれないわね」

楽観的で自虐趣味なのが自分だ、と今でも彼女はそう思っている。80パーセントは確実に。しかし残りの20パーセントは悲観的で攻撃的かもしれない。それが自分という人間のバランスなのだ。

その20パーセントが階下のキッチンで待つものとの対峙を躊躇わせ、彼女を留まらせようと、いや、逃げ出させようとしていた。そう、昨夜以前の過去へと。




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