いもむし男−第10章


《天井の墓穴-1》

しかし、助け船は意外な方向からやって来た。

「あんさん、どないしたんや?」関西訛りの、太い男の声がした。槍杉は顔を上げ、「あ、岡鬼さん、未野さんが私のせいでオカシクなっちゃって・・・」と悲痛な声を出した。

「忌野さん?」と首を傾げながら、岡鬼藪郎(おかきやぶろう)も翔吾の傍らにしゃがみ込む。

「いいえ、イマダノさんです。例の、裸婦デッサンの」と槍杉が言うと、岡鬼は「へー、このヒクヒク痙攣しとるんが、未野さんかいな。どないな奴やねん、はよ顔見せんかいって、ワシ、村神の婆さんにせっついたんやけど、何や知らん婆さん隠しとってな。まだ逢うたこと無かったんやが・・・どれ」と太い腕をぬっと伸ばし、翔吾のサングラスを外した。

翔吾の目に、どう見ても焼き過ぎたとしか思えないアンパンみたいな岡鬼の顔が見えた。アンパンにちょうど黒ゴマのような髭も付いている。顔から下を見ると、トレーラーのタイヤを5本か6本積み重ねたみたいな胴体からサッカー選手の太腿みたいな腕が出ている巨漢だ。推定年齢42歳、ドレッドヘアを無造作に束ね、両耳に動物の歯のようなピアスが計7個、太い指にも腕にも地獄土産のようなアクセサリーがびっしり絡み、その重さだけでダンベル体操が出来そうだった。かろうじて喪服を着ていたが、およそ葬儀向きのいでたちとは言えない。

(・・・また、新手のバケモノが出たのかと思った)

翔吾は起き上がろうとしたが、体が麻痺して身動き出来なかった。声も出ない。これは困った。どこかの神経が切れたのだろうか?止まらない痙攣に呼吸もままならなくなりながら、かろうじて動く目玉を駆使して合図を送った。(ちょっと、お願いします、俺をぶん殴ってくれませんか?・・・)

しかし、彼の顔の観察に忙しい岡鬼は合図に気付かない。「はぁー、こりゃ意外やなぁ。あのデッサンをこのオニイサンが描いたんかいな。ワシが想像しとったんと全然イメージ違うわ」

「岡鬼さん、未野先生が、いや、未野さんが、何か苦しそうなんですけど、大丈夫なんでしょうか?」と、槍杉が訊く。

岡鬼は顔を上げ、「そやな、ま、後10分もほっぽっといたら、死ぬやろな」と事も無げに答えた。

「ええーっ!」と槍杉が裏返った声を上げ、即座に携帯電話を取り出した。「救急車呼ばなくっちゃっ!」

「アホか」と岡鬼が携帯を取り上げる。「救急車なんか間に合うかい。今日は土曜やろ?早くても着くのに30分は掛かるわ。幸いここは斎場やし、火葬場も付いとる。慌てんでも準備は揃っとるわ。後は坊主呼んで来るだけや」

「そんなー、私、人殺しになっちゃいますよっ」槍杉は今にも泣き出しそうだ。「何とかしてくださいよ、私には結婚したての妻と生まれたての娘も居るんですからっ」

「へぇー」と岡鬼は顎鬚を掌で一撫でする。「あんさんとこも、出来ちゃった婚なんか?」

「とこも、って、岡鬼さんとこもそうなんですか?」槍杉はにわかに頬を赤らめ、刈り上げた頭をポリポリ掻いた。

「ワシんとこ?ワシなんか、ガキ出来るたんびに結婚しとったら女房が二桁になるで」

(・・・何言ってんだ、こいつら。そんなことはどーでもいいから、早く・・・早く、俺をぶん殴ってくれよー・・・)

次第に朦朧とする意識の中で天井を見つめた翔吾は、そこにポッカリ開いた墓穴を発見する。間違いない、キッチンの墓穴だ。墓穴が移動式とは知らなかった。と、ふと気付くと自分の体が宙に浮き、墓穴に向かって吸い寄せられている。いや、体は床に横たわったままだ。浮いているのは意識だけ・・・あるいは体を離れた『タマシイ』か?

天井の墓穴の縁まで辿り着いた時、彼は必死に意識を集中し、かろうじて天井に着地した。

「いやー、危なかったですなー」という、聞き覚えのある声に振り向くと、彼と同じく天井に逆さまに座った美濃田がニヤニヤしていた。翔吾は驚いて下を見る。斎場のホールには、倒れた自分を囲んで次第に人だかりが出来ていた。

「あ・あんた、ミノタウロス、こんなところまで来て、他の人に見られたら・・・」

「あー、心配要りませんよ、未野さん。他の人には見えません」美濃田は毛むくじゃらな手を振った。「私も、あなたも、墓穴も」



美濃田は天井に逆さまに座ったまま、鞄を開いて書類を出した。「ほらね、早く契約しないと、こういう目に遭うんですよ。あなたはご自分が危ない状態だという自覚が無さ過ぎます。いいんですか?奥様に3億円残さないで死んでも?」

「・・・う・・・」翔吾は天井を掴む指先に力を込めた。彼の『タマシイ』は墓穴にジリジリと吸い寄せられているのだ。

「あなたが感じている以上に、あなたの体は疲弊しているのです。それ以上に神経が参りつつあります。だからこういうことになるのです。疲労プラス身近な方の死というショック、もっとも危険な組み合わせですな」美濃田は書類とボールペンを翔吾の前に置く。「あなたのタマシイはストレスから逃れ、体を離れて楽になりたがっているのです。早く契約しないと、そのまま墓穴へ入って、暗黒の宇宙を永遠に漂うことになりますよ。ご自分で無理を重ねて過労死するのも自殺の内です。わかっていながら体を酷使することを緩慢な自殺と言うんです」

「しかし・・・」翔吾の足が墓穴の縁から落ち掛かる。「今、契約しても、ここで墓穴に落ちたら保険金は下りないんだろっ?」

「そんなこと気にしてる場合ですかっ?そこは私が何とかしますから、早くっ、サインをっ」

翔吾はボールペンに右手を伸ばそうとした。が、その途端にズルリと下半身が墓穴に落ち、そのまま上半身も吸い込まれそうになる。彼はもやもやと頼りない墓穴の縁に、もはや指先だけでしがみついていた。美濃田が縁から身を乗り出して書類とボールペンを差し出す。

「未野さんっ!落ちる前にサインをっ!」

「バカッ、今、手を放せるかっ!」翔吾は顔を上げて床のほうを見た。自分の体が他人のモノのように遠く感じられる。

(嫌だっ!俺はまだ死にたくないっ!絵が描き掛けなんだーっ!)

彼の必死の叫び声が聞こえたのか、ようやく槍杉が合図に気付いた。「岡鬼さんっ、未野さんが、自分をぶん殴れって言ってるみたいなんですけどっ」

岡鬼はアンパン顔をぬーっと近付け、「ホンマやな。そりゃ、こないな時はショック療法が一番やからな。ワシかてそれぐらいわかっとるわい」と言って時計を見た。「後、1分ぐらいが限界や。槍杉さん、ひとつ、バシッと、思い切りようどついたってや」

槍杉は目を丸くして首をぶんぶんと振った。「ええっ?何で私がぶん殴るんですか?『一ツ橋』の出だからですか?やだなぁ、岡鬼さんがやってくださいよっ」

「何言うてんねん、ワシがどついたら、助かるもんも死ぬで。あんさんがやりぃな」

「ダメです、勘弁してくださいっ。未野さん、怖いんですっ。後が恐ろしいですっ」

「何が怖いねん、こんなカワイイオニイサンやないか。見てみぃ、この睫毛の長い、綺麗なうるうるの目ぇを」

「そ・そりゃ、こうしてお顔を見れば確かにカワイイですけど、サングラス掛けてると別人みたいにおっかないんです、ホントウっす」

「しゃあないなぁ・・・」岡鬼は腕まくりをした。「せやけど、どついて顔がへこんだら惜しいなぁ・・・この人、絵を描くより自分がモデルやった方がええんちゃうか思うぐらい、ビューティフルやのに・・・」

(あーっ、もうっ、俺の顔のことなんかっ!)翔吾は心の中で頭を掻き毟った。(くだらねぇことウダウダぬかしてねぇで、さっさとぶん殴りやがれってんだこの黒焦げアンパン野郎っ!)

「じゃ、行くで、未野さん、覚悟しいや」岡鬼は太腿みたいな腕を上げた。

(とっくに覚悟は出来てるって、それより早くっ早くっ!・・・ああっ、落ちるーっ!!)

そして遂に翔吾の指は、穴の縁から外れてしまった。



《天井の墓穴-2》

一瞬、黒々とした空漠が全身を包む。が、次の瞬間、彼は竜巻に巻き上げられ、超大型台風みたいな轟音と百万匹のオオムカデに全身を這われるみたいな凄まじい悪寒と共に『タマシイ』は体に戻った。

「ぎゃーっ!」と悲鳴を上げ、翔吾は岡鬼の巨体を押しのけ上体を起こした。

押しのけられた岡鬼は、「あー、治った治った、良かった、間に合うたわ」と言いながら分厚いタラコ唇を人差し指で軽く押さえる。

翔吾はゼイハアと肩で激しく息をしながら岡鬼のタラコ唇を見た。たった今、自分の口にタコの吸盤みたいに押し付けられたタラコ唇とざらざらした舌の生暖かいねっとりした感触、それと苦いような酸っぱいような唾液の味が蘇る。

(・・・こいつ、俺に、ディープキスしやがったんだっ)

思わず「ゲーッ」と吐きそうになってハンカチで口を押さえた。

「あんさん、ゲーッは無いやろ?助けたったのに」岡鬼は口をへの字に曲げた。「ええやないか、どつくより。顔へこんだら、カノジョ悲しむで」

「そ・・・それはそうだけど・・・」胸がムカムカするのは、どう考えても『タマシイ』が戻ったショックだけではない。「助けてもらって感謝してます・・・けど、何も舌まで入れなくても・・・」

「衝撃が大きい方が、効くんやないかと思てな」岡鬼はアンパン顔を窪ませ、腹を震わせてへっへっへっと笑う。

「・・・効き過ぎだ」翔吾は胸を押さえながら立ち上がった。気持ち悪さにクラクラする。「あなた、昼飯にラーメン食ったでしょう?」

「良ぉわかるやんか?」岡鬼はよろめく翔吾を素早く支えた。反対側に恐る恐る槍杉が付き添う。

「・・・とんこつベースの味噌ラーメン、生ネギとモヤシがたっぷり入った奴、その上に山盛りのニンニク、ですか?」

「ビンゴー」と、岡鬼は楽しそうにウィンクする。

岡鬼はロビーの端にあるソファに翔吾を座らせ、自分もその横に座った。岡鬼が腰掛けると、ソファは大きく沈み、反動で翔吾と槍杉が跳ね上がりそうになった。彼等が落ち着くと、事の成り行きを見物していた参列者は散って行った。

「助けてもらってあれこれ言うのはなんですけど」翔吾は呼吸を整えながら眉間を押さえる。なんだか頭もズキズキして来た。「次からは、やっぱりぶん殴ってくれませんか?」

「なんでやねん?」岡鬼は不満そうに口を尖らせた。「ワシを誰や思とんねん?『美』と芸術をこよなく愛する男、岡鬼藪郎やで。この世のヘゲラモゲロから『美』を守るために日夜カラダを張っとんのや。そのワシが、あんさんみたいなビューティフルなオニイサンをどつけますかいな。あんまり無理言うと道理の口から目玉飛び出まっせ」

(道理の口から目玉?この世のヘゲラモゲロ?・・・って、いったい何だ?)

「・・・なんだかわからないけどわかりました」翔吾は両手で顔を覆う。もう泣きたいような気分だ。「じゃ、せめてニンニク入りラーメンを食った後のディープキスだけは止めてください」

「ま、覚えときまひょ」岡鬼は腕組みをして頷く。それからおもむろに内ポケットに太い腕を入れ、ガラガラヘビ皮の名刺入れから名刺を取り出し翔吾に渡した。「ワシんことも覚えといてや。村神の婆さんからあんさんの絵を引き継ぐ段取りになっとるんやからな。ごっつぅカッコエエポスターのデザインも進んどる。出来次第、あんさんとこへ送るから、楽しみに待っとってや」

「はあ・・・ありがとうございます。宜しくお願いいたします」翔吾はド派手な名刺をしばし見つめ、自分の内ポケットにしまった。

「・・・で、気分はどうや?家、帰れるか?」と言いながら岡鬼は立ち上がり、続いてソファから離れた翔吾の様子を観察した。

「大丈夫です」翔吾はサングラスを掛けて相手を見上げる。「ご心配お掛けしてすみませんでした」

しかし、岡鬼は大きな手を伸ばして彼のサングラスを素早く取り上げ、改めて彼の掌へ返して言った。「夜中にこんなもん掛けて歩いとったら穴に落ちるで。つい先週もマンホールの蓋がずれとってな、運悪く落ちたオッサンが死によったんや。あんさんも気ぃつけんと」

「確かに・・・」翔吾はサングラスをポケットにしまいながら、独り言のように呟いた。

「俺はまだ、穴に落ちるわけにはいかない」



「そやろ?」彼が素直に従ったので岡鬼は満足げに頷いた。「あんさんはスタートラインに立ったばかりなんやから、色々慎重にならなアカンで。さっきみたいな発作が頻繁に起こるようやったらな、一度医者に診てもろた方がええ。親父さんも心配しとったで。箸が転んでもびびるような子やったからなぁ言うて・・・」

「親父?」翔吾は耳を疑った。「なんで、ここでいきなり親父が出るんですか?ずうずうしい」

「ずうずうしいて・・・」岡鬼は太い指で太い首の後ろをポリポリと掻く。「そやけど、あんさん、未野明雄画伯の息子やろ?珍し苗字やからすぐわかったわ。親父さん、今、京都で個展やっとるんや。ワシの仲間のギャラリーやから、ちょっと覗きに行ってな。そん時たまたま画伯に会うたんで、これこれこうで、今度息子さんの個展すんねんで言うたら、なんやあいつ生きとったんかいなって、えらい驚いとったわ。あんさん、15の時に家を出てから一度も帰っとらんそうやないか。親父さん、寂しそうやったで。たまには連絡してやりや、余計なお世話やけど」

「で・・・」翔吾は横を向いて軽く咳払いをした。「親父は、どんな絵を出してました?」

「絵ぇか?ま、こう言っちゃなんやけど、いわゆる、フツーの風景画やったな。山の絵が多かったわ。会社の応接間にも病院のロビーにも合いそうな・・・それと、裸婦画を何点か出しとったが、あんさんのデッサンと違うて色気は無かったな」岡鬼は太い指でアンパン顔のダンゴ鼻を擦る。

「なんだ・・・20年前とちっとも変わらないんだな」親父は女ったらしの癖に描く絵はちっとも色っぽく無いところが昔から不思議だった、と翔吾は思った。「それで、親父の傍には誰か居ました?若い女性とか」

「ああ、そういえば」岡鬼は探るような目付きになる。「30になったかならんかぐらいのベッピンがおったな。ワシの好みのタイプとちゃうけど・・・あんさんの妹っちゅう感じやなかったなぁ。新しい嫁さんかもしれんが・・・あんさんは、おっ母さん似やろ?」

「俺?・・・さぁ?どちらかといえばそうかな?」

岡鬼は大きな体を屈めて翔吾の耳元に囁いた。「おっ母さん、今、独りなんやったら、ワシに紹介してんか?」

翔吾は上体を仰け反らして相手をしげしげ見つめ、「あいにく、今、独りかどうかは知りません」と答えた。

「なんや、おっ母さんにも逢うとらへんのかいな」岡鬼はがっかりして肩を落とす。「薄情な奴っちゃな」

翔吾は一端足元に視線を落とし、もう一度相手を見上げ、「じゃ、今日はそろそろ失礼します。ポスター、楽しみにしてます」と頭を下げた。それからずっと黙って傍に立っていた槍杉に、「さっきは笑ったりして悪かったね。記事をありがとう。感想は、また今度、言うから」と伝えた。槍杉は慌ててファイルから『21世紀アート』を取り出し、翔吾に手渡す。

「あの、先生、いや、未野さん、お体、大事になさってくださいね。私、未野さんの、ファンなんですから」槍杉は改めて正面から翔吾を見つめ、顔を赤くしてモゴモゴ呟いた。「・・・あんな、凄エロいデッサン描いたのが、こんなコワカワイイというかカワコワイイ方だなんて、私、もう、びっくりしちゃって・・・このギャップはネタになるな、なんて、それで、実は勝手にお写真撮らせていただきました」

「写真?いつの間に?喪服なのに?」

「あ、大丈夫ですよ」槍杉はヘラヘラ笑いながら顔の前で手を振った。「今はCGで、オリンピックだって作れちゃう時代ですからね。喪服脱がして、アロハシャツ着せるなんてわけないです」

「なんで、喪服からいきなりアロハシャツになるんだ?」翔吾は顔をしかめた。「せめて普通のコットンシャツにしてくれよ。出来れば緑色の細かいチェック柄の奴」

彼が出す注文を、槍杉は真剣な表情で手帳にメモした。



《夢》

斎場を後にし、新宿駅に着くと折りよく『かいじ』がやって来た。翔吾はいつものように窓際の席に落ち着き、槍杉からもらった『21世紀アート』を開こうとしたが、思い直してサングラスを掛け、目を閉じた。

(さすがに疲れたな)

考えてみれば無理も無い。ほんの1時間前、自分の『タマシイ』は墓穴に落ちるところだったのだ。今になって、春子が名指しで「葬儀には来るな」と伝えたわけがわかった。彼女には彼の脆さが見えていたのだ。

「本当に、危ないところでしたな」

ふいに隣から聞き覚えのある声がした。サングラスをずらして見ると、ミノタウロスが立っていた。

「あんたか・・・」翔吾は溜息をついた。「ちゃんと乗車券と特急券を買ったんだろうな?」

「あー、そんなもん、私らはフリーパスですよ。乗車券なんてものは、寿命のある者が買うもんです」と言いながら、美濃田は狭い座席に無理矢理大きな尻を押し込んだ。

「ふーん」翔吾は窓の向こうに流れ行く夜景に目をやった。「じゃあ、あんたは寿命が無いんだ?いいなぁ」

「ちっとも良くはないですよ。寿命が無いってことは、終わりが無いってことですから」美濃田はそう言って毛むくじゃらな手を広げる。「寿命があれば、ここからここまで、という区切りの中で精一杯生きればいい。限りある一生の間にあれをしよう、これをしようという計画が立てられます。だいたいは計画通りには行かないものですが、それでも時間的な目安が立てられる。生きることには苦しい局面がツキモノですが、それもいつかは終わると思えば乗り越えることも出来ますし、苦しいのも人生の内だ、苦しんでいる自分も儚い存在だ、と思えば愛しく受け止められます。寿命が無い私らは、未来永劫、ただ同じことを繰り返すだけです。誰も、お前はもう楽になっていいよ、と解放してくれないのです。辛いもんですよ」

「ふーん」翔吾は美濃田の方を向き、サングラスを外した。「あんたも、結構、たいへんなんだ」

「まぁ、色々あります」美濃田は鞄から書類を取り出した。「こうやって、サインをいただくまでストーカーみたいに付きまとわなきゃならないこともあります。私だって、好きでやってるんじゃありませんからね。上からの指令で動いているだけの、将棋の駒みたいなもんに過ぎません。営業成績が悪いと、減給になったり、拷問されたりする、弱い立場の存在です」

「拷問?」

「ええ、拷問です。手足の爪を剥がされたり、体中の皮を剥かれたり、ロースとバラ肉に分けられてマーケットで安売りされたり・・」

「冗談だろっ?」

「・・・冗談です」美濃田は真面目くさってそう言うと、書類とボールペンを翔吾に渡した。「しかし、あなたがいつ死んでも不思議は無い状態だというのは本当です。さきほどは、たまたま助かっただけです。運が良かったのです」

「俺もそう思うよ」

翔吾は前席の背もたれからテーブルを引き出し、契約書類を広げ、ボールペンを握り締めた。書類には書き掛けの2本の横棒が残っていた。揺れる車内で、その2本に縦の棒を加えて続きを書いた。指定された2箇所にサインし終わり、「はい」と言って美濃田に渡すと、全身を深い倦怠感が襲った。

「疲れたな・・・でも、なんだか、ホッとした」

書類を素早く鞄にしまってから、美濃田は微笑んだ。「保険契約とはそういうものです。安心をお売りしているのです。ある意味、宗教と同じです」

「なるほどね」翔吾は目を閉じた。

「保険契約していただきましたので、オプションで遺言状の作成を無料代行いたします。それと、保険金の1割を当社へ戻していただくオプションを選ばれると、タマシイリサイクル先の大まかな御希望を承ることが出来ます。あくまで、大まかな、ですが」

「へえー、そいつは面白そうだな」翔吾は目を閉じたままフフッと笑った。「考えておくよ・・・今は、少し眠らせてくれないか?そこに居たけりゃ居てもいいから」

「はい」と答えて、美濃田は黙り、翔吾は井戸の釣瓶を切り落とすみたいに、ストンと眠りに落ちた。



静かに揺れる『かいじ』の中で、翔吾は眠り続け、とりとめのない夢の世界を漂っていた。それは次第にはっきりとした輪郭を帯び、ここしばらく見なかった「或る夢」に繋がる。岡鬼から思いがけず父親の話を聞いたせいなのだろう。翔吾は子供の頃の自分に戻り、いつしか夢の中を走っていた。

夏の夕方の陽射しがアスファルトに濃い影を作っている。7月のその日、10歳の誕生日を迎えた自分は家からアトリエへ向かって走っていた。自宅から一駅離れた場所にある父のアトリエへ、学校が終わると家に鞄を放り込み、電車に乗るのももどかしく走る。今日も父のアトリエで画集を眺めたり、部屋の隅で絵を描いたりして至福の時を過ごすために。

玄関戸を開け、土間を見ると女物の靴がある。香奈子の靴だ。父が教える美大の2年生で、アルバイトでモデルをしている可愛いお姉さんの靴。

(デッサン中か・・・)

デッサン中はアトリエに入るなと言われていた。しばらく大人しく座って待っていたが、その内好奇心を押さえられなくなって来る。父がどのようにデッサンしてるのか、どうしても知りたくなる。廊下に上り、足音を忍ばせてアトリエの扉の前まで進んだ。

その直後の光景は夢には出て来ない。実際は何を見たかはっきり覚えているが、夢ではいつもそこだけすっぽりと抜け落ちる。夢に現れるには生々し過ぎるのかもしれない。夢ではいつも走っている。泣きながら、今度は走って家に帰る。

家の中では母が夕食の支度をしている。母のエプロンを掴んで泣き叫ぶ。「お母さんっお母さんっ、お父さんが、香奈子さんと・・・」 しかし母は静かに、「いいのよ」と答える。「いい」わけはないのに。

夢は次の場面へ移る。アトリエで彼に背を向け絵を描く父。その背中に呟く自分。「お父さん、お母さんはどこへ行ったの?」

父は振り向かずに答える。「・・・旅に出た」

父の言葉には微妙なニュアンスが含まれていた。旅といっても、どこか決まった場所へ出掛け、目的を果たしたら帰って来る、という旅ではなさそうだった。それはまるで・・・それで、それ以上は、何も訊けなかった。

夢の中でも現実でも、父はいつも母以外の女性に囲まれていた。次々と新しい女性が家に来て、自分に対して「母親」を名乗ったが、その中には勿論、本物は混ざっていなかった。

翔吾は狭い座席の中で、呻きながら寝返りを打った。

夢の中に、今度はミノタウロスが現れた。美濃田は保険契約の書類を掲げ、「朗報です。オプションの特約が認められました。あなたのタマシイのリサイクル先の希望範囲を従来以上に絞り込むことが可能です」と告げる。

彼は訊いた。「へぇー、それは、例えばどういう風に?」

「傾向を指定出来ます。将来人の上に立つ暴君タイプとか、横槍が好きな参謀タイプとか、いじましい下っ端タイプとか・・・」

「ふーん」彼は少し考えた。「・・・絵を描くタイプってのは、ある?」

フッフッフッと美濃田は笑った。「あなたも、懲りない人ですな」

懲りないと言われても、それ以外の人生は考えられない。黙っていると、美濃田が低い声で言った。「あなたがあなたとして生まれる前も、絵を描いていましたからねぇ。それはそれは精力的に・・・その時のあなたは画家として成功し、だが同時に内面に深い悩みを抱えていた。それが次第に精神を蝕んで、あの寒い2月の朝・・・その時も運良く私と契約なさったから、暗黒の宇宙を漂わずに済みましたが」



「暗黒の宇宙を?じゃあ、この前の俺も・・・?」

そこで彼は目を覚ました。電車はトンネルの中を走っていた。隣を見ると、ミノタウロスの代わりに、南水清が座っていた。

「ああ、お目覚めですか?お疲れのようだったので、声を掛けませんでした」水清はそう言って静かに微笑んだ。そしてちらりと翔吾の喪服を見て、「・・・どなたか、お亡くなりになったようですな」と言った。

翔吾は一瞬、「俺が」と言い掛け、座席に座り直して言い直した。「恩師が、交通事故で」

「それはお気の毒に」水清は骨ばった手を合わせた。「この国は現在戦争はしていませんが、同じぐらいのイノチが交通事故や自殺で消えて行きます。痛ましいことです」

「・・・自殺、か」翔吾は自分の掌を見つめた。「自殺すると、そのタマシイは暗黒の宇宙を永遠に漂うんだそうですね」

「暗黒の宇宙・・・」水清はそう呟いた後、しばし目を閉じ何事か考え込んでいた。翔吾は『UFO堂の星占い』を思い出した。水清の頭のてっぺんからアンテナが出て、宇宙と交信しているみたいに見えた。

しばらくして、水清が口を開いた。「自殺した者のタマシイは暗黒の宇宙を永遠に漂う・・・という考え方は、なにか途方も無く救いの無い、寂しい情景を思い起こさせますが、宇宙はそもそも、暗黒でも、寂しくもないものです」

水清はトンネルの壁と山間の真っ暗闇ばかりが映る窓を指差した。「例えば、この暗闇は、私達の目には暗闇ですが、夜目の利く動物にとっては暗闇ではありません。彼等はこの中で狩をしたり、恋をしたりと、彼等にとっての日常を生きています。夜行性の動物にとっては暗闇は安心して活動出来る、優しい揺り篭のようなものです」

水清は、膝の上に手を戻して指を組んだ。「宇宙も同じです。私達の目に、暗黒と映るだけ・・・人類のイキモノとしての限界が、宇宙をナゾに満ちた、途方も無い、畏敬と恐怖の対象として捉えさせているだけで、そもそも恐ろしいものでも寂しいものでもなんでも無いのです・・・だって」水清は翔吾の方へくるりと顔を向けた。「私達はみんな、この宇宙の中で生まれたんですからね」

「宇宙の中で、生まれた」と、翔吾は繰り返した。

「そうですよ。だからその中を永遠に漂ったとしても、何も怖がることはないのです。喩えるなら、母親の胎内で永遠に眠っているみたいなものだと思います。この宇宙、この世界は、本来、優しい揺り篭です。人間が、恐ろしいものにしているだけです。私達はこの宇宙の中で生まれ、この宇宙の中で死ぬ。どこへも行きません。あの世は、この世です」

水清は顔を前に戻し、どこか遠い目をして続けた。「・・・それに、私達は必要以上の欲に翻弄されて余計なことばかりしますが、宇宙的視野から見れば、どんなに欲張ってもイキモノが形あるモノを所有することは出来ません。その代わり、何も失いはしないのです。何も得られず、何も失わず、ただ、宇宙の中にあるのが、私達です」

「そのお考えは・・・」翔吾はもう一度座席に座り直した。「伯父さんの、オリジナルですか?」

水清は低く、ホッホッホッとフクロウ笑いした。「・・・まさか。宇宙人達から教えてもらったんですよ。彼等は人類が到底辿り着けないような遠い星からやって来たのです。だから人類より宇宙について正確な見識を持っています。彼等に言わせれば、宇宙は無数のイノチでひしめいている、賑やかな夜の新宿歌舞伎町みたいなものだということです」

「新宿歌舞伎町、ですか?」意外さに思わず声が裏返ってしまった。「ネオンサインに何か感じるものでもあるんでしょうか?」

「ええ、彼等はあの界隈で飲むのが好きでしてね」水清は楽しそうに目を細めた。



《闇光園地下蔵-1》

ギィーッと大きな歯車が軋むような音を立てて、『闇光園』のワインセラーの扉が開く。半地下のレンガ蔵には小さな横長の高窓が3つある。かつてワインセラーとして現役だった頃は、ずっと厚い鎧戸で覆われていた窓だ。今日はその鎧戸が開けられ、蔵の中に初秋の陽射しが落ちていた。

「じゃ、この中へ運び込めばいいんですね?」

作業着を着た体格の良い青年が元気な声で確認した。翔吾は頷き、彼の後についてトラックへ戻り、自分も絵を運ぼうとした。

「あ、いいですよ。オレがやりますから」青年はそう言うと、ヒョイと荷台に飛び乗り、ロープを外して絵を担いだ。彼は1.5メートル×2.5メートルのカンヴァスを4枚ずつ担ぎ、たちまちの内に24枚の絵を地下蔵へ運び終える。翔吾は青年のパワーに呆気に取られていたが、気を取り直して束ねたカンヴァスの荷解きに掛かった。絵は1枚1枚丁寧に梱包した上に、それぞれ番号が振ってある。番号が書き込まれた地下蔵の平面図を見ながら、翔吾は予め決めて置いた場所に絵を運んだ。白い布に覆われた24枚を並べると、地下蔵は全く違った雰囲気になる。

「どうもありがとう。助かりました」戸口に立つ青年に声を掛けたが、相手はニコニコするだけで立ち去ろうとしなかった。翔吾は首を傾げながら、「後は、自分でやりますから」と付け加えた。

すると青年は日焼けした顔をくしゃくしゃにして訊いた。「その絵は、まだ、見せてもらえないんですか?」

「ああ、この絵?」翔吾は少し意外に思った。青年は亜輝子が仕事でつきあいのある建設会社「石垣工務所」が、トラックごと派遣してくれた作業員に過ぎない。まさか自分の絵に興味を示すとは思わなかったのだ。「見たい?・・・まだ、完成してないよ。ここで続きを描くんだから」

「どれぐらい出来てるんですか?」

「99パーセント」

「じゃ、ほとんど出来てるんじゃないですか、見せてくれても・・・」その時、青年のポケットの中で携帯電話が鳴った。彼は電話に向かって「ハイハイ」と答え、諦めたように肩をすくめた。「ウチのチビの運動会だったんです。早く来いって、カミサンに怒られちゃった」

「へぇ・・・あなた、そんなに若いのにもうお父さんだったんだ」意外の二乗だ、と翔吾は思った。「休日なのに、悪いことしたね」そう、今日は10月12日、『体育の日』なのだ。

「いえいえ」青年は大きく手を振った。「絵が、完成したら、きっと見せてくださいね。オレ、こんな大きな絵がこんなにたくさん並ぶのなんて見たことないんですよ。どんなかなって思って」

「必ず連絡するよ。亜輝子に言っておくから」

「ああ、織田設計の多加さんですよね」青年は少しはにかんだ。「多加さんって、素敵な方ですよね・・・クールで、美人で、カッコイイ・・・酒なんか、オレより強いし」

「ふーん」意外なところで意外な相手から意外な感想を聞いた。これで意外の五乗だ、と翔吾は思った。この世はまだまだ意外だらけだ。

青年が帰ってから、翔吾は慎重に梱包を解いて行った。秋の日は短い。24枚を開梱しきちんと並べ終わる頃には陽はだいぶ西に傾いていた。地下蔵は華子の手配で照明が増設され、給排水設備が手直しされ、隅々まで掃除も行き届いた清潔な空間になっていた。が、暖房を忘れていた。いや、ワインセラーなのだから暖房が無くて当然だ。翔吾はシャツの上に亜輝子がタンスから引っ張り出したアルパカのカーディガンを羽織り、ポケットに手を突っ込んで、立ったまま連作を眺めた。次第に暮れなずむ光の中で、24人の新生児達は、ゆっくり伸びをし始めた。



夕暮れの地下蔵の、高窓の下辺りから、小さな声がした。

(そんなに若いのにもうお父さんだったんだ、だってさ)小さな子供の声はそう言って、クスクスと笑った。

(自分がやっとお父さんになったもんだから・・・)別の場所からも声がした。

(まだだよ。まだまだ。99パーセントだからね。もう少し、待たなくちゃ)少し大人びた声の子も居た。

(えーっ?まだなの?早くここから出たいなぁ、お父さん、早くしてよっ)一人が逸る気持ちを言葉にすると、残りの23人も一斉に早くしろと騒ぎ始めた。

「わかった。わかったから、ちょっと待て」翔吾は地下蔵の中央に立ち、24枚の絵の1枚1枚を確認するように見た。「後、1パーセントだ。しかし、この1パーセントを間違うとお前達は台無しになる。いいかい?ここが肝心なところなんだ。生きるも死ぬも、残り1パーセントに掛かっている」

翔吾の言葉に、24枚の絵は水を打ったように静まり返った。

「わかったようだな」と、彼は頷いた。「だから、しばらくは黙っていて欲しい。お前達が喋ると俺は気が散る。今日から少なくとも3日間、絶対に喋るな。完成したら、幾らでもお喋りにつきあってやるから」

絵は黙っておずおずと彼を見た。彼も絵を見つめた。絵は彼の子供であり、彼自身でもある。新しいイノチを生み出すために、彼は自分のイノチを削った。だが、生きるとはそもそもそういうことなのかもしれない。

ふと、背後から視線を感じ、振り向くと戸口に亜輝子と華子が立っていた。

「・・・あれ?一緒に来たの?」

彼が問うと、亜輝子は肩をすくめた。「そうじゃないわ。たまたま同時に着いただけ・・・で、あなた、今、誰と話していたの?」

「誰って・・・」答えあぐねていると、亜輝子の隣で華子がクスリと笑った。これ幸いと話題を逸らす。「あ、華子さん、色々ありがとうございました。ここを、こんなに綺麗にしてくれて、電気まで・・・」

「いいんだよ、そんなこと、いちいち気にしなくって」華子は相変わらずの口調で返し、部屋の中央まで進んで絵をぐるりと見回した。それから1枚1枚の前に立ち止まってじっと見つめ始める。

亜輝子は華子の動きを気にしながら買い物袋を運び込んだ。「・・・これで、だいたい全部かな?ねぇ、あなた、本当に大丈夫?」

妻に大丈夫かと訊かれ、それは絵と話していたことに関してなのか、これから数日間地下蔵に篭城することについてなのか、と思案していると、華子がわざとらしいぐらい大きな声で唐突に感想を述べた。「凄いなぁ、翔吾さん。こんなこと言っちゃ悪いけど、わたし、これほどとは思わなかったよ。こんな身近にこんな絵を生み出せる人が居るなんて、生きてた甲斐があったなぁっ」

「そんな、大袈裟だよ」翔吾は謙遜した。「・・・でも、ありがとう」

何か言おうとしている亜輝子に向かって、華子はにこやかに声を掛ける。「さぁ、天才芸術家の邪魔をしちゃいけないから、私達はとっとと帰りましょう。勝沼と塩山じゃ近いんだから、足りない物があったらまた後で届ければいいじゃない。大丈夫、死にやしないからっ」

華子に押し出される形で、亜輝子は外に出た。なんとなく面白くない。憮然として挨拶もそこそこに車に乗ろうとする。と、華子に腕を掴まれた。「・・・ねぇ、亜輝子さん、ちょっと訊きたいことがある」

「何かしら?」思わず厳しい目付きで相手を見る。そんな自分を嫌だなと思いながら。

華子は薄暗がりの中で、ニッと笑った。同性の目から見ても綺麗なオンナだ、と亜輝子は思う。そして彼女は私の夫の前で裸になったのだ。八百樹さんの妻でありながら、しかも、あんなエロチックなポーズを取って・・・このオンナ、奔放にもほどがあるぞ。

しかし、彼女の心情を知ってか知らずか、華子は淡々と訊ねた。「あのさ、この地下蔵をチャペルみたいな美術館に改造するとしたら、幾ら掛かるかな?」



《闇光園地下蔵-2》

「え?」華子の意外な質問に、亜輝子は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。が、すぐに頭の中で設計と工事費用の概算をはじき始める。職業病みたいなものだ。「・・・そりゃ、勿論どんなものにするかによるけど・・・」亜輝子は考えながら相手の目を覗き込んだ。

「だいぶ傷んでるし、ある程度、建物としても趣のあるものにするなら、出来れば3億はみたいわね」

「3億か・・・」華子は腕を組んで考え込んだ。

「華子さん、あなた、まさか・・・?」

華子は顔を上げ、真剣な目をして言った。「翔吾さんの絵は、展覧会が終わったら自宅のアトリエで束ねられてしまうんだよね?24枚を並べるスペースなんて、そうあるわけないし。でも、この地下蔵なら常に展示しておける。チャペルみたいな美術館にすれば、多くの人が絵を眺めて、心を癒す場にすることも出来る。ロスコ・チャペルの勝沼バージョンだよ」

そして、華子は亜輝子の手を握った。

「亜輝子さんが翔吾さんのために素敵な美術館を設計するんだ。費用の算段はわたしが今から考える・・・どう?グッド・アイデアだと思わない?」

亜輝子は呆然として握られた手を見つめた。「でも、そんな・・・あなた、それほどあの人のことを?」

すると、華子はパッと手を放し、そっぽを向いて独り言みたいに言った。「あー、やっぱりまだ気にしてるんだ」それから上目遣いに亜輝子を見た。「あのね心配しないで。わたしはとっくにフラレたから。翔吾さんの頭の中には絵しか無いの。その次に大事なのがあなた。残念ながらわたしが入る場所は無いんだ」

亜輝子は放された手のやり場に困り、もじもじと指を組み合わせた。薄暗がりの中で白く長い指が別のイキモノのように動くさまを、華子はしばしぼんやりと見つめ、やがて小さな溜息をついた。

「・・・白状するとね、最初はさ、本気でときめいちゃったよ。わたしは八百樹を愛しているけど、なんていうのかなぁ、そういうのとは違う次元で、翔吾さんに強烈に惹かれちゃったんだ。でも八百樹が思い込んでるみたいに、惹かれた理由は彼がハンサムだからじゃないんだよ」華子はフフッと笑う。

「わたしは本物の芸術家に出逢いたかったんだと思う。そんなのもう居やしない、と頭では思いながらも諦めきれずに探していたんだ。だから最初に彼の目を見た時、本物の画家の目だ、と直感して、これは欲しいな、と・・・その後4年間アメリカに居る間も彼のことをずっと考えていた。どうやって手に入れようか?彼にはあなたが居るけどそんなことは問題じゃない、と思ってた。わたしの認識では芸術家はドスケベで愛人の2人や3人平気で作れる人種だから、その内の一人になってその後本命になれればいいなと考えたんだ。ところが彼はさ、オンナ癖の悪い芸術家は二流だ、自分は一流を目指したいからそういうことはしない、とキッパリだよ。亜輝子さんは知ってると思うけど、彼のお父さん、モデルに次々に手を出して、とうとうお母さんに見捨てられちゃったんだよね。だから彼、こうも言ってたよ」

そこで華子は翔吾の口調と表情を真似て言った。「いいかい、二度目はパロディだ。僕が親父の轍を踏んだら、悲劇は喜劇にしかならない。喜劇を観るのは嫌いじゃないけどね、自分がそれを演じなけりゃならないほど、人生は退屈じゃないよ」

華子の物真似があんまりそっくりだったので、亜輝子は思わず吹き出した。華子は続けた。

「それでわたし諦めて、せめて何か役に立てればと思ってヌードデッサンに応じたんだ。まぁ体には自信があったから、もう一押し頑張ろうかなってスケベ心もあるにはあったけどさ、デッサンが始まったら、なんのなんのわたしなんか、ただのモノ扱いだよ。そりゃポーズがポーズだからだんだん感じて来ちゃったりもしたけど、彼は全然気付かないか気にしないふりをしてて、ただひたすら描きまくってさ・・・その内わたしも見つめられて描かれることで満たされるようになってね。今は・・・」

華子は地下蔵の方を見た。地下蔵の高窓は外から見ると地面すれすれの位置にある。その窓の黄色い灯りの下で、彼は創作を開始しているのだろう。

「・・・今はただ、芸術家としての彼を応援したいだけ。彼は遠回りしちゃったからまだ無名だけど、本当の本物だと思う。だから・・・」華子は大きな目をさらに見開き、背の高い亜輝子に食い入るように宣言した。

「24枚の連作はわたしが全部、買う。そしてここにチャペル美術館を造る。設計はあなただよ。もう、決めたんだからね」



独り家に帰った亜輝子は、翔吾の居ない部屋の中をぶらぶらと歩き回った。それは不思議な欠落感だった。思えば彼は彼女が家に居る時は必ずと言っていいほど家に居たのだ。ほとんどアトリエに篭っていたとはいえ、姿が見えないだけで気配は感じられた。しかし今はその気配も無い。

「あーあ」彼女は冷蔵庫を開け、ワインの新しいボトルを取り出した。食器棚からグラスを2つ出し、テーブルに並べてワインを注ぐ。 翔吾は春子の葬儀から帰った後、以前にも増して取り憑かれたように制作に没頭した。体調を心配した亜輝子が休むようにと言っても全く聞き入れられなかった。「急がないと」と彼は言ったが、なにをそんなに急ぐ必要があるのかという説明はなされなかった。だがその甲斐あって、連作は完成間近である。当初の予定より2ヶ月も早い。最後の仕上げをするために、絵は地下蔵へ並べられ、彼はしばらくそこに篭ると彼女に告げたのだ。

「しばらくって、どれぐらい?」

「わからない。3日か、4日か、5日か、一週間か、それ以上になるかも・・・」翔吾の返事は要領を得なかった。

亜輝子は2つのグラスに注いだワインを交互に飲み、しばらくぼんやりしていたが、やにわに席を立って2階の書斎へ入った。そして書棚から月光荘のスケッチブックを取り出した。川村記念美術館へ出掛けた際に、「翔吾さんを借りたお礼」として華子がお土産にくれたものだ。亜輝子は「こんなもの」と思って書棚に突っ込んだままにしてあった。今、彼女は草木色の表紙のそれを開き、デスクに向かい、地下蔵改造設計のエスキスを始める。

(明日、織田社長に相談してみよう)

甲府支所を任されているとはいえ、彼女は勤め人である。もし華子が本気なら、まず織田一雅建築設計事務所と設計契約をしなければならない。その上で、織田が設計を亜輝子にやらせてくれるかどうか、それは彼女が決めることではなかった。しかしそんなこちらの事情など、華子の知ったことではないのだろう。

亜輝子は鉛筆を握り、敷地全体の計画を含めた美術館のイメージを模索する。頭にある地下蔵の既存構成を大まかなエスキスに描き起こすと、そこにどうしても翔吾の姿を描き込みたくなった。自分が事務所で仕事している時は家に居る彼のことなどほとんど忘れているのに、今は自分が家に居て地下蔵に篭った彼のことを考えている。勿論、それは華子の告白と宣言が与えたインパクトのせいもあった。

「24枚の連作はわたしが全部、買う。そしてここにチャペル美術館を造る。設計はあなただよ。もう、決めたんだからね」

華子の宣言は亜輝子の胸に突き刺さり、長いヤマアラシの棘みたいに血を吸って膨らんだ。もし、自分が彼女だったとしたら、翔吾のために絵を全て買い、3億の金の算段を付けて美術館を建てようとするだろうか?いや、金の問題だけでは無い。華子は自分よりも彼の絵を理解しているのだ。彼の絵ばかりでなく、彼そのものを理解しているように思える。たった一度、日曜日のデートをしただけなのに・・・

(まいったなぁ)

華子は翔吾を諦めたと言ったが、言葉通りに信じるには、どう考えても美術館建設は法外だった。亜輝子は2本目のワインボトルを開け、カマンベールチーズの塊を口に放り込んだ。そして4Bの鉛筆でスケッチブックの新しいページにチャペル美術館のファサードを描く。美術館を考えるのは大学の卒業設計以来だった。翔吾に扉絵を描いて貰ったそれには最優秀賞を獲得した輝かしい思い出がある。缶ビールで乾杯しながら、「いつか君に僕の美術館を設計して貰えたら・・・そんな奇跡みたいなことが起こったら、もう何も思い残すことは無いな」と彼が言ったのを、「パトロンを探さなくちゃね」と笑ったんだっけ。

(チャペル美術館か・・・)

鉛筆を走らせながら、亜輝子の中で膨らんだ棘は次第に伸びて複雑に絡まり、いつしか巨大な構築物に変化して行く。華子の本意はどうあれ、チャペル美術館を設計してみたい、と亜輝子は強く思った。


その頃翔吾は、予想したより遙かに冷え込む地下蔵の中で、ありったけのシャツやらトレーナーやらを体中に巻き付けて絵の前を行ったり来たりしていた。これではまるで出来損ないのミイラ男かミノムシ男みたいである。しかし、本人はあまり気にしていないようだ。冷え込むことを別にすれば、地下蔵は至って快適だった。

第一に、外の騒音が全く入って来ない。彼はスニーカーを履いていたので、自分の足音もほとんど聞こえなかった。ここには電話も無く、呼び鈴も無く、ドアを叩く人も無い。集中して物を考えるのに、静寂ほどありがたいものは無い。彼は外部に面した扉に鍵を掛け、さらに地下蔵の扉に鍵を掛けた。そしてゴーショや鶏男やミノタウロスが入って来ないように、自分の意識にバリアーを張った。それがどういうことなのか具体的なシステムまではわからないが、そうした者どもに入り込まれないためのコツみたいなものをなんとなく身に付けつつあったのだ。そう、だからここには移動式の「墓穴」もついて来れなかった。

彼は長い間絵の前を歩き回り、そして、やがて、立ち止まった。





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