いもむし男−第11章


《10月16日-1》

10月16日の朝、珍しく寝過ごした亜輝子は呼び鈴の音と激しくドアを叩く音に起こされた。パジャマの上にガウンを羽織り、くしゃくしゃになった頭を指で整えながら玄関に向かうと、速達の包みを抱えた配達人が待っている。荷物を受け取り、キッチンの時計を見ると10時15分だった。(あちゃー)と頭を抱え、急いで事務所に電話する。

「ごめん、ちょっと・・・だいぶ、遅れるわ」

電話の向こうで古株所員の品川がサルみたいな頓狂な声を上げた。「ひょえーっ!多加さんの遅刻なんて珍しいなっ。具合でも悪いんですか?」

「そうじゃないわ、昨夜飲み過ぎただけ」そう言いながら小包みの宛名を見た。珍しいのはこっちの方だ。翔吾宛である。「うーん、今から支度して・・・とにかく、なるべく早く行くから」と電話を切り、大急ぎで身支度に取り掛かる。事務所に行くついでに地下蔵へ寄ればいい。小包は速達だから、ドアをノックする口実が出来たわけだ。

翔吾が地下蔵へ篭ってから、あっという間に4日が過ぎた。彼からは何の連絡も無い。「闇光園」は別棟に事務所と作業場があり、それぞれに電話があるが、地下蔵へは勿論聞こえない。連絡は一方通行なのだ。そして「欲しいものがあったら自分から連絡するから呼ぶまで来ないでくれ」、と釘を刺されていた。

亜輝子は急ぎながら、それでいていつもより念入りに化粧した。おかしなものだ。たった4日離れていただけなのに、夫に逢うのにドキドキする。車に鞄と小包を入れ、ドアを閉めてアクセルを踏む。ルームミラーを覗いてヘアスタイルの最終チェックをし、自分の顔にニコッと笑ってみせる。大丈夫、飲み過ぎは顔には残っていない。

「闇光園」までは歩けば2時間半ぐらい掛かるが車なら20分程度だ。彼女は駐車場に車を停め、いそいそと地下蔵を目指した。まず、外側の大戸をノックする。返事は無い。手掛かりを掴んでグイと引くとあっさり開いた。石段を下り、今度は地下蔵の扉をノックする。ここも返事が無い。

「あなたっ、私よ、あなた宛に速達が来たから届けに来たわ。開けてくれる?」と、声を掛けたがウンともスンとも言わない。もう一度、強くノックする。それでも返事は無い。ダメだ。

(もうっ)と思いながら、扉に体重を掛けると、ギィーッと開いた。なんだ、鍵なんか掛かって無いじゃないか。中を見ると、朝の陽射しが高窓から落ちる地下蔵に、4日前と同じように24枚の絵が並び、その真ん中に干し掛けた洗濯物をぶちまけたみたいな衣類の塊があった。なんだろう?と思いながら近づくと、それが翔吾だった。彼はシャツやらパンツやらを体中に巻きつけたまま、床の上に大の字になって眠っていた。

「・・・翔吾?」

亜輝子は声を掛けながら、彼の顔を覗き込んだ。4日分の髭が伸び、目の下に隈が出来た彼は、低く鼾をかいて眠っている。どことなく顔色も悪く、頬もこけたようだった。これは一端家へ連れて帰って休ませるべきかもしれない。彼が何と言おうと、絶対に休養が必要だ。

亜輝子が翔吾の肩に手を掛けようとした時、背後に何かが動く気配がした。彼女は反射的に振り向いたが、勿論そこには誰も居ない。

(なんだ、気のせいか)

彼女は手を伸ばし、眠る男の肩にそっと手を掛け静かに揺すった。

「翔吾、起きて・・・」

しかし、彼はなかなか目覚めようとしない。そのヤケクソなありさまの無防備な寝顔を彼女はしばしじっと見つめた。だがそうして見つめていると、彼をじっと見つめている自分を別の誰かがじっと見つめているような気がして来る。亜輝子はだんだん背中がムズムズして来た。なんだろう、この奇妙な気配は?

「誰か居るの?」と言いながら、もう一度振り向く。やはり、そこには誰も居ない。ただ大きな絵が24枚、並んでいるだけだ。壁に立て掛けられた幅1.5メートル×高さ2.5メートルの絵は、黙って亜輝子を見つめていた。

(まさか、この絵が、私を?)

彼女が昨夜飲み過ぎたことを改めて反省し掛かった時、「・・・誰がイルカだって?」と、翔吾がようやく目を開けた。



「・・・ああ、君か」彼はそう言いながら、大きな欠伸をした。「・・・久し振りに良く寝たな。今日は何日?」

「16日よ。時刻は11時5分過ぎ」亜輝子の言葉に、翔吾は高窓を見上げ、眩しげに顔をしかめて訊いた。「11時5分過ぎって・・・君、仕事は?」

「それより、あなた、今日は家に帰って休んだ方がいいわ」彼女は翔吾の頭の天辺に乗っているパンツを取った。「ヒドイありさまよ」

彼女に指摘され、改めて自分を見れば確かにヒドイ。ズボンとシャツが顔と首に絡み、トレーナーが足に巻きつき、カーディガンとセーターがおんぶお化けみたいに背中で丸まっている。「ちょっと、寒かったんだ。昨日は春子さんと旦那さんも来たし」

「春子さん?」

「・・・いや、なんでもない」翔吾は立ち上がって衣服を整えた。「今日は帰るよ。絵も仕上がったし」

彼の言葉に、亜輝子は一瞬、意味がわからない、という顔をした。「・・・仕上がったの?本当に?」彼女はずらりと並ぶ絵を見回した。それから地下蔵の中を歩き回って1枚1枚をしっかり観た。だが、4日前とどこが違うのか全くわからない。

困惑する彼女に彼は助け舟を出した。「24枚もあるんだ。大きいし・・・そう隅から隅まで覚えていられるもんじゃない。気にすることはないよ」

「でも・・・」気にするなと言われても、違いがわからないのは悔しい。華子ならきっとわかる筈だ、と思うと余計に自分が許せない。

翔吾はフフッと笑ってそこらに散らばった衣類を片付け、食料などの荷物を纏めた。そして戸口に置かれた小包に気付く。「これ、なに?」と言いながら差出人を見れば岡鬼藪郎である。どうやらデッサン展のポスターらしい。どれどれ、まずは家に帰って風呂に入り、さっぱりしてからゆっくり拝見するとしよう・・・



《10月16日-2》

地下蔵から外へ出ると、初秋の光が彼を包んだ。

(なんとか、墓穴に落ちる前に描き終えたな)翔吾は眩い陽射しに目を細め、安堵の溜息をつく。それから地下蔵を振り返り、心の中で、(ちょっと、出掛けて来るよ)と言った。

(どこへ行くの?どこへ行くの?)と、心細気に絵は訊いた。(帰って来るの?ちゃんと帰って来るの?)

(大丈夫、心配するな。ちゃんと帰って来るから)彼は心の中で答えた。(お前達を迎えに来る。それまで、ここで待っててくれ)

彼は後ろ髪を引かれながら扉を閉め、念入りに鍵を掛けた。

家までの車中で、亜輝子は華子のチャペル美術館計画を手短に伝えた。織田社長に相談したら、二つ返事で「設計は君がやればいい」と言われたことも、華子が24枚の連作を全て買うつもりだということも。

「ふーん」と翔吾はとりあえずの相槌を打った。いきなりそんな話をされても信じられるわけが無い。幾ら華子でも、自分のためにそこまではやるとはとても思えなかった。第一、八百樹が了承するわけがない。今回みたいに照明を増やすのとはワケが違う。自分の絵のために3億円も使うぐらいなら、3億円盗まれるか3億円盗んだ方がまだマシだ、と考えるに違いない。

(・・・いや、待てよ)

翔吾は髭の伸びた顎を捻った。3億円といえば自分が掛けた保険金と同じ額じゃないか。

「あー、良いところに気付かれましたな」

ふいに耳についた濁声がした。景色を観るふりをして背後を伺うと、シビックの狭い後部座席一杯にミノタウロスの巨体があった。

「あ、バカ、お前、こんなところに出やがってっ」翔吾は油断した自分を呪いながら、「早く消えろっ早くっ」と美濃田を急かした。

「あー、御心配なく、奥様には見えませんから」美濃田はシートの上から翔吾の肩に手を掛けた。「お懐かしゅうございます」

「何が、お懐かしゅうだ。とにかく早く消えないと、今晩ビフテキにして食っちまうぞっ」

翔吾が後ろに向かって思わず声を荒らげると、「ねぇ、あなた・・・」と、ハンドルを握る亜輝子が怪訝な顔で訊く。「さっきから、誰と話してるの?」

ほら見ろ、言わんこっちゃ無い。彼は頭を抱えた。「・・・うーん・・・地下蔵で独り言を言う癖がついちゃったんだな、きっと」

亜輝子は庭に車を入れ、やや呆れた様子で「それで、今晩はビフテキを食べたいのね?」と言った。

「いや、別に食いたいわけじゃ・・・」そう言いながら車を降り、荷物を下ろした時、亜輝子の携帯電話が鳴る。事務所からの呼び出しだ。

「ああ、ごめんなさい、工事渋滞で尺取虫状態なのよ。ミノムシとダンゴ虫も居たし。え?なんでもないわ、もうすぐ着くから」彼女は電話を切って肩をすくめた。「本当はまだ家だけど」

「僕のことなら心配しなくていいよ。自分で風呂に入って、洗濯して、それからもう一度寝るから」

亜輝子は頷いてドアを閉め、エンジンを掛けた。それから思い出したように窓を開けた。「で、ビフテキは?」

翔吾は首を横に振った。「昨日までカップヌードルばっかりだったんだから、急にそんなもの食ったら胃がびっくりしちゃうよ」



亜輝子が出掛けてしまうと、翔吾は洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを入れ、風呂の支度をした。それから冷蔵庫を開けて何かまともな食べ物は無いかと物色した。生ハムとチーズとエビの入ったサラダの残りがあった。パック入りの温泉玉子とホワイトアスパラガスとイカの燻製もあった。なんだか酒の肴みたいなものばかりだ。そう思いながらキッチンの隅を見ると、ワインの空きボトルが8本並んでいた。

(俺が居なかったのは、たった4日間だよな?)

あいつ毎晩2本ずつ飲んでたのか、と思いながらボトルをガラス瓶入れに片付け、立ったままサラダを胃の中に片付け、タカナシ低温殺菌牛乳をコップ1杯飲んでから、浴室へ向かう。洗面脱衣室で着ていた物を稼動中の洗濯機に全部入れ、ふと鏡を見ると、目の下に隈の出来た自分が居た。その顔を掌でゴシゴシ擦って風呂場の扉を開ける。

「うわっ!」

中を見て思わず仰け反った。バスタブにミノタウロスが浸かっている。気持ち良さそうに目を細め、「あー」と言いながら彼を見た。

「な・な・なんだよっ、なんでお前が風呂に入ってるんだよっ!」翔吾は洗面器を手に取り、美濃田の頭をポカッと叩く。しかし相手はあまり感じないらしく、バスタブの中で気持ちだけ端に寄って、「ここ、開いてますよ。あなたなら入れます」と手招きした。

「うるせぇっ、誰がミノタウロスと混浴なんかするかっ、俺の風呂だっ、さっさと出ろっ!」彼は洗面器で美濃田をポカポカ叩いた。

「ハイハイ、出ますよ、出ますったら」と言いながら美濃田がバスタブから出ると、お湯がほとんど残らない。クソッと舌打ちして、改めて給湯スイッチを押す。なんてこった。

「あーところで、未野さん」洗い場で毛むくじゃらな巨体を屈めて美濃田は言った。「思ったより痩せてらっしゃるんですね。もう少しお肉を付けていただかないと、食べるところが無いですよ」

翔吾は5秒間ほど、黙って相手をじっと見た。それから、まだ少ない湯の中に無理矢理体を沈めて訊いた。「あんたが俺を食ってどうするんだ?ウシはベジタリアンじゃなかったのか?狂牛病になるぞ」

「あー」美濃田はどこから取り出したのかオバQの絵柄のあるタオルで体を拭きながら言った。「あなたのおっしゃっていることは根本的な誤りを含んでいます。私は狂牛病にはなりません。なぜなら私はベジタリアンではないからです。なぜベジタリアンでないかというと、私はウシではないからです。私はミノタウロスです。だからビフテキにはなりません」

「ああ、わかったわかった、俺が悪かったよ」翔吾は息を止めて湯の中に潜った。



《ゴジラの巣作り-1》

息の続く限りしばらく湯の中に潜り、次に顔を出した時、美濃田の姿は消えていた。

(やれやれ、思いの外プライドの高い奴だ)

人は見かけが10割と言うけれど、見かけだけで判断してはいけないのだ。しかも相手は人ではない。うっかりしたことを言うと本当に食われてしまうかもしれない、と彼は真剣に反省した。連作が仕上がって気が緩んでいる。こういう時が一番、危ないのだ。

翔吾は石鹸の泡を作り、4日分伸びた髭を剃ろうとカミソリを手に取った。新しいカミソリの刃が、窓から差し込む昼の陽射しに鈍く光る。彼は何気なくそれを自分の手首に当てた。これを横に引くと、動脈が切れ、そのまま放って置けば、自分は死ぬ。

(ロスコはそうやって死んだんだ)

なぜ彼が死を選んだのか、今はわかるような気がした。欲求と熱中と到達と新たな渇望の果てしない繰り返し、そこに巣食う深い孤独が精神を削る。自殺者のタマシイは死後暗黒の宇宙を漂うのではなく、生きながら暗黒の宇宙にあるのかもしれない。

「宇宙はそもそも、暗黒でも、寂しくもないものです」と、南水清は言ったが、自分の目で確かめるまでは全面賛同しかねる見解だ、と翔吾は思った。彼は暗黒どころか、満天の星空でさえ怖かった。全てを美しく色鮮やかに見せる陽の光を何より愛する彼にとって、暗闇は正しく「お先真っ暗」な世界だった。そんな世界には出来れば近寄りたくない。彼はカミソリを持ち直して慎重に髭を剃った。


風呂から出た彼はコーヒーを淹れ、トーストを焼き、キッチンのテーブルで温泉玉子とホワイトアスパラガスを食べながら岡鬼からの小包を解いた。小包には今月号の『21世紀アート』も入っていた。山梨では手に入りにくいだろうと気を利かせたのだ。実際、近所の書店での美術関係書といえば、「楽しい絵手紙」とか「あなたにも描ける水彩画」とかいう素人向けのハウツー本がほとんどだった。

翔吾は『21世紀アート』を手に取ったが、ページを捲らずにテーブルに戻した。槍杉一平に「感想は、また今度、言うから」と言ったものの、実はまだ先月号も読んでいなかったのだ。春子の葬儀から帰った後、彼の頭の中は一刻も早く連作を仕上げたいという欲求一色に染まり、他の全てが後回しになった。それだけではない。自分でも驚いたことに、もうあのデッサンそのものに関心が無かったのだ。彼の中ではデッサンは次の段階のスケッチに受け継がれて役割を終え、スケッチは連作に発展して使用済みとなっていた。従ってデッサンに関する記事についても次第に興味が薄れ、今となっては「どうでもいいや」という気分になってしまったのだった。

そんな状態だったから、岡鬼がデザインしたポスターを観ても大して驚きはしなかった。岡鬼は翔吾のデッサンの部分部分をクローズアップして黒い背景にバラバラに配置していた。華子の体が、発見されたばかりのバラバラ事件の死体みたいに脈略無くあちこちに散らばっているのだ。良く見ると、黒い背景にも薄っすらとデッサンが取り込まれていた。そのデッサンは3点を巧みに絡めたコラージュになっていて、足の間にグロピウスの3本の尻尾も重なっていた。なぜグロピウスのデッサンまで混ざってしまったんだろう、と考えながらしばらく眺めていた彼は、突然、そのポスターがあからさまに卑猥な意図を示していることに気付いた。

(・・・なんだ、これは?)

自分の中で、何かが激しく傷ついた。いや、傷つけられたのは華子の体の方だ。彼は全身の血液が音を立てて頭の天辺に集合するのを感じた。次の瞬間には受話器を握り、『摩天楼』の電話番号を押していた。

「はい、ギャラリー『摩天楼』です」と、女性の声が応えた。

「もしもし、未野と申しますが・・・」自分でも始末に困るぐらい怒りに声が震えている。「岡鬼さんをお願いします」

「あ、はい、しばらくお待ちください」女性はそう言うと保留ボタンを押した。受話器からは古いジャズが聴こえて来る。ゆったりしたピアノ演奏は「まぁ、落ち着けよ」と言っているように思えたが、彼としてはとても落ち着いてなど居られなかった。

しばらくして、関西訛りの低い声が出た。「あんさんか?ポスターはどないや?」単刀直入に感想を聞いて来た。

翔吾は深呼吸をしてから、なるべく押さえた口調で言った。「岡鬼さん、あれは、困ります」



「なんでや?どこが困るねん?」岡鬼は平静を装っていたが、受話器の向こうにムッとする顔が見える。

「どこが、って・・・」翔吾は前髪を掻き上げた。「こんな、卑猥なコラージュ・・・彼女に失礼じゃないですか」

「卑猥って、あんさん・・・彼女いうのんはそのモデルの彼女のことやろ?もともとあんさんのデッサンかてエロイんやから、これぐらいのコラージュ、どうってことないんちゃうか?」

「俺のデッサンのポーズは彼女の承諾を得たものです。でもこの猫の尻尾のコラージュは、絶対に『どうってことないんちゃうか』という範囲を超えたものですよ。これじゃあまるで・・・」

「おっ!?」と、翔吾の言葉を遮って、唐突に岡鬼は嬉しそうな声を上げた。「あんさん、関西弁のイントネーション、上手いやんか?方言バイリンガルなんか?」

「子供の頃、ちょっと兵庫に住んでただけです・・・話を逸らさないでくださいっ」押さえていた感情が再び脳天に結集する。「と・と・とにかく、こんなポスターは困るんですっ!彼女の名誉毀損ですっ!作り直してくださいっ!」

「そないなこと言うたかて・・・」岡鬼は面倒臭そうな口調になった。「もう、あちこち配ってしもうたし・・・」

「あちこち?どこにっ!?」

「東京中の、画廊やギャラリーやその他色んなとこやな。ざっと300枚は配ったで。また明日も配ろう思てたとこや」

「300枚っ!?」翔吾は頭を抱えた。「なんで配る前に俺に見せてくれなかったんですか?」

「なに言うてんねん、わし電話したで何度も」岡鬼の口調が今度は厳しくなる。「あんさんがおらへんかったんやんか?いったい今日が何日や思とんのや?村神さんとこの個展は今日が最終日で、来週末からはウチでやるんやで。宣伝すんの遅すぎるぐらいや。寝ぼけたこと言うとると頭の天辺にゴジラが巣ぅ作りまっせ」

「しかし・・・」

「しかしもカカシもあらへんわ。モデルの彼女はあんさんのオンナやろ?自分のオンナぐらい黙らすんのわけないやないか?優しゅう抱いたって朝まで眠らさんと可愛がったればええんや、簡単なことやがな」

翔吾が絶句していると、岡鬼はさらに早口で捲くし立てた。「あんさんがどうしても無理や言うんやったら、わしんとこ廻してくれてもええで。自慢やないけどな、わし、オンナ黙らすの得意なんや。黙らす言うても脅したり殴ったり殺したりするんやない。頭オカシなって日本語忘れるぐらい気持ちようさせたんねん。なんやかんや偉そうなこと言うてもオンナは自分の体に正直やからな。気持ちようしてくれるオトコには逆らえんねんで。あんさんかてそないなこと良ーく知っとるやろ?親父さんとこ早うに出てもうても血筋は争えんからな。イキモノには遺伝子っつぅもんがある。なんぼ格好つけても理屈つけても遺伝子っつぅもんからは逃れられへんのや。せやから遺伝は素直に受け入れて有り難ぅ活かさなアカン。親父さん譲りの口説きワザとおっ母さん譲りの美貌で寄って来るオンナ片っ端からモデルにしたらええんや。仮にこの彼女がヘソ曲げたかて、あんさんなら他に幾らでも代わりが見つかるやろが?ま、ともかくそういうことやから未野さん、ポスターの件はなんも問題あらへんな」

岡鬼がようやく言葉を切ると、翔吾はスーッと音を立てて息を吸い込んだ。「・・・黙って聞いてりゃベラベラ勝手なことぬかしやがって・・・」

「ん?なんやて?」

「わかりました」翔吾は静かに、だがハッキリと告げた。「俺は降ります」

岡鬼は返事をしなかった。意味がわからないのだった。翔吾は続けた。

「今からすぐに配布したポスターの回収に向かいます。あなたの出費については俺が弁償します。デッサンとスケッチも持って帰ります。24枚の連作の『摩天楼』での発表は取り止めます。ポスター配布先のリストはいただけますか?」



《ゴジラの巣作り-2》

「・・・あんさん、アホかいな?」電話の向こうで、岡鬼は舌打ちした。

「・・・あんなぁ、未野さん、あんさん自分がどういう立場かわかっとらへんのとちゃうか?あんさんみたいに学歴も留学歴も受賞歴も無いポッと出の新人がいきなり『摩天楼』で華々しくデビューでけるっちゅうのんがどんだけ貴重なチャンスか、もちーっと考えた方がええで。しかも、わし出血大サービスで6百万かかるところをタダにしたるっちゅう話になっとんのやからな。このチャンスをたかがモデルの名誉毀損がどうたらこうたらで逃したら、あんさん、キングギドラが首を蝶々結びにして驚くぐらいの超ド級のどアホやなぁて後世に名が残るで、ホンマ」

「ふーん、いいですね、キングギドラの蝶々結び、観てみたいもんです」翔吾は半ばヤケクソな笑いを浮かべた。「しかし俺にとって彼女は、たかがモデル、ではありません。このポスターはどうしても承服出来ません。じゃ、今から回収に向かいますので、配布先リストを『D.I.Y.ギャラリー』に送っておいてください。宜しくお願いします」

「ちょ・ちょっと、待ちぃなっあんさんっ!・・・」岡鬼の声が漏れる受話器を電話に戻し、念のために留守番電話をチェックした。しかし3週間遡っても、織美からの留守電以外の着信記録は無かった。岡鬼は最初から事後承諾のつもりだったのだ。

翔吾はもう一度ポスターを見た。元になったのは自分が描いた華子のデッサンだ。確かにポーズはエロチックと言われても否定出来ないものだった。だがそれは彼女の体の造形美を効果的に抽出するために必要なポーズだったのだ。華子は羞恥心に耐えて全てを見せてくれた。自分は彼女の美しい肢体への畏敬と憧憬と、彼女のイノチそのものへの感謝と愛情を全て描線に昇華した。誰かが自分のデッサンを見て感動するとしたら、そのギリギリのせめぎ合いから美を感じ取るからではないのだろうか?

そうして創り上げた大切な「間」のようなものを、岡鬼のポスターはズタズタに引き裂いたのだ。そして、皮肉なことに引き裂かれ傷つけられることによって初めて、彼は華子が自分にとってかけがえの無い存在にであることに気付いた。

(・・・なんてこった)

彼はポスターをクシャクシャと丸め、コンロの火にくべて燃やした。炎は紙に移って一瞬激しく燃え上がり、すぐにまた小さくなった。

まるで彼女への想いのように。絵を描くこと、自分が求める表現を形にすることだけを考え、その間にどれだけの人の想いを無視し、踏みにじって来たのか、あるいは自分の想いを殺して来たのか・・・今、彼は突然そのことに考え至って愕然とする。

(俺はいったい、華子を何だと思っていたんだ?)

彼女はなぜ躊躇無くヌードデッサンに応じたのか?男の子みたいな口調ではあるけれどれっきとした女性なのだ。お嬢さんの退屈しのぎのわけないじゃないか。そして今度は3億円掛けて自分の絵のためのチャペル美術館を造ろうとしているのだ。これが本気なら・・・たぶん本気なのだろう・・・華子はいつだって本気だったのだから。

(だが、彼女は俺のためにそんなことをするべきではないのだ、断じて)

彼はそれからふと思い出して『21世紀アート』を手に取った。そして寝室へ行き、書棚から先月号のそれも取り出した。今になって槍杉一平の記事が気になり出したのだ。自分のことはともかく、華子の不利益になるような記事だとしたら放置は出来ない。

「官能美に酔う・・・『描線のパルティータ』」という見出しで始まる槍杉の記事はしかし、一読したところ危惧したような問題点は全く無かった。槍杉はむしろ手放しといった態でデッサンを絶賛し、「これほどの才能がなぜ今まで埋もれていたのか?情報発信する側の一人として怠慢を恥じる」とまで書いていた。

続く今月号を開くと、春子の葬儀の際に撮られた写真が載っていた。注文どおり喪服は緑色の細かいチェック柄のコットンシャツにCG処理され、すぐ隣に居た岡鬼は巧みにカットされている。雑誌に載った自分は他人のようだ。記事の方はと見ると、「『描線のパルティータ』、官能美の生みの親をついにキャッチ」とあり、主に翔吾の印象について纏められていた。当日のことを思い出せばあまり良い印象は無い筈だが、槍杉は「美と繊細さが人の形になったような、精巧なガラス細工のような、と同時に鋼鉄のような強靭さとマグマのような熱さを持った」と形容し、発作の一件は省き、泣かされそうになったことにも触れていない、節度ある記事に仕立てていた。

翔吾はホッとして心の中で槍杉に感謝した。彼は書棚に戻した2冊の『21世紀アート』に向かって「今度逢ったら、必ず感想を言うから」と誓い、それから急いで出掛ける支度に取り掛かった。



《そんなこんなで-1》

東京中の画廊やギャラリーやその他色んなところに配られたという300枚のポスターを回収するために、翔吾は必要と思われる電車賃を財布に入れ、念のためにキャッシュカードも持ち、携帯電話をポケットに入れた。亜輝子には後で「急用が出来た」と連絡しておけばいい。歩き回ることを考えて履き慣れたスニーカーにしよう。玄関で紐を結んでいると電話が鳴った。履き掛けた靴を脱いで受話器を取ると山根織美のソプラノが飛び出した。

「織美ですぅっ!今、岡鬼さんから連絡があってポスター配布先のリストをメールで送ったからって・・・いったい何があったんですかぁっ!?」

翔吾は時計を見ながら早口で応えた。「ごめん、今からそっちへ行くから詳しいことは着いてから話すよ。電車に遅れちゃうからね。リストは印刷しといてくれる?」

「それは勿論ですけどぉ・・・あ、それから、未野さんに是非お逢いしたいって方が二人見えて、今日は最終日だからいらっしゃるかもとお伝えしたら、じゃあ待ちますって・・・今、ここでお待ちになってます。二人とも女性の方です」

「僕に逢いたいって人?」

「そうなんです、それが一人はぁ・・・」織美はなぜか興奮する声を抑えるように言った。「なんと、参道美紀さんなんですぅっ」

翔吾は首を捻った。「さんどうみき・・・?知らないな」

「もうーっ、いいですよぉっ!デビューしたてでNHK大河ドラマのヒロインに抜擢された女優さんを知らない人なんて日本中探したって未野さんぐらいですぅっ!たまにはテレビを観てくださいってばぁっ!火曜スリラー劇場にも出てるのにぃっ!」

「だけど・・・うち、テレビ無いから・・・」

受話器の向こうで織美が絶句した。恐らくこの日本にテレビの無い家というものが存在するのを初めて知ったのだろう。翔吾は時計を見て、「じゃ、続きは後で」と言って電話を切り、急いで靴を履いた。

家から塩山駅までは8分だが、それは長い上り坂である。翔吾はそこをダッシュで駆け上がって時間を稼いだ。なぜなら改札へは階段を昇らなくてはならないからだ。しかも切符売り場の前で唐突に人生を振り返り始める中高年や、行き先を決められない優柔不断な子連れ夫人や、駅員と四方山話を咲かせる近所の農家のオジサンなどなどの障害物が立ちはだかっている危険性が予測された。息を切らせて階段を上がると、しかしそこには誰も居なかった。拍子抜けして切符を買い、急いでホームへ下りたところへ1時45分発の『かいじ112号』がやって来た。危なかった。

翔吾は窓際の空席を見つけて落ち着き、呼吸を整えた。ついさっきまで『闇光園』の冷え込む地下蔵に篭り、いきなりダッシュしたせいか胸が痛い。せめて新宿まで眠ろうと上着の前を合わせ腕を組んだ時、ふと前席の背もたれポケットに突っ込まれた雑誌が目に留まった。誰かが読み捨てたファッション雑誌だ。その表紙に、参道美紀という名前があった。

(ああ、これか)と彼は手を伸ばして雑誌を取り出しページを捲った。参道美紀はすぐに見つかった。巻頭グラビアを飾っていたからだ。

「ふーん、本当に売れっ子なんだ」

翔吾はヨージ・ツマの最新コレクションに身を包んでにっこり微笑む人気女優の写真を眺めた。ページの下の方に小さな文字で「女優 参道美紀(24歳)東京都生まれ 東京芸大在学中にスカウトされ女優の道へ・・・」などと簡単な紹介とスリーサイズが記されていた。

(24歳か・・・)

24年前、ちょうどこの女優が生まれた頃、自分は10歳で父親と兄ともども母親に見捨てられたんだっけ。そう思いながら美しい女優の顔を見つめている内に、翔吾は奇妙なデジャヴ感に囚われた。

この顔はどこかで見たことがある。しかし、どこで逢ったのだろう?いや、逢う筈は無いのだ。直接出逢ったのなら忘れられないような顔だ。広い理知的な額の下の大きな深い色の瞳と長い睫毛、意志が強そうでいていつも何か躊躇っているような眉、そして眉とは反対に悩みのかけらも感じられないほどすっきり整った鼻筋と品の良い唇、端正に創り上げられた陶磁器のような輪郭・・・もっともこれほどの人気女優なら、あちこちの雑誌や広告に載っているだろうから書店で見たのかもしれない、いや、きっとそうだ。翔吾はそう納得して、雑誌を閉じ、目を閉じた。



『D.I.Y.ギャラリー』に着くと、山根織美が入り口から出て来て彼を表へ押し出した。彼女はもう泣き出さんばかりだ。

「未野さぁんっ!『摩天楼』での展示を中止するんですかぁっ!?なんで、そんなもったいないことをっ!?」

「申し訳ないけど、そういうことになったんだ」翔吾は織美に頭を下げた。「春子さんにも、織美さんにも、本当にすまないと思ってる。だけど僕は岡鬼さんのポスターをどうしても承服出来ない。その件で彼と揉めて『摩天楼』でやるのが嫌になった」

「その岡鬼さんですけどぉ・・・」織美は翔吾の上着の袖を掴んで通りの隅に引っ張って行った。「さっきウチに来て、未野さんに悪かったって。言い過ぎたから謝りたい、って言ってましたよ」

「謝りたい?今さら何を・・・」そこまで言って、翔吾は道路にしゃがみ込んだ。さっきの胸の痛みがぶり返して息が出来ない。

「ど・どうしたんですかっ!?」と驚く織美に、背中を叩けと身振りで示す。「ここですかぁっ!?」と確かめながら、織美が平手打ちで思い切り背中を叩くと、反動で彼は前のめりにすっ飛びそうになった。

「・・・あ・ありがとう・・・凄い力だね。びっくりした」彼は立ち上がって深呼吸した。

「ちょっと、力、入れ過ぎましたぁ・・・でも未野さん、どこか体の具合が悪いんじゃないですか?そういえば顔色あんまし良くないですよぉ?」

「大丈夫だよ。連作を仕上げるのに体力使っちゃったけど、休めばすぐに充電出来るから」

「本当ですかぁ?それならいいけど・・・じゃ、連作は仕上がったんですね?」

翔吾が頷くと織美は「見たい見たい」と小躍りして喜んだ。そして「あーっ、ウチがもうちょっと広ければ、ウチで連作展やるのになぁっ!」と心から残念そうに唸って、急に真剣な顔になった。「・・・で、岡鬼さんがですね、なんとか考え直して『摩天楼』でやらせてくれないか、って。ポスターは配布先に掲示を取り止めて貰うように連絡して、後で『摩天楼』のスタッフが回収する、って言ってました」

「ふーん、本当かなぁ?あそこまで言われた後だから、にわかに信用出来ないな」翔吾は、やはりポスターは自分で回収しよう、と考えた。織美は彼の顔を正面からまじまじと見つめ、ふと思い出したようにポンッと手を打つ。

「あ、それで岡鬼さん、ウチに来た時、応接で参道母娘とバッタリ遭遇して、スッゴイ驚いて、それからスッゴイ納得して、帰りました」

「スッゴイ驚いて、スッゴイ納得した?なんで?」

翔吾が怪訝な顔をすると、織美は彼の背中をバシッと叩いてよろめかせた。「やだぁっ!未野さんっ、参道美紀?知らないな、なんて、空っとぼけて、妹さんなんじゃないですかぁっ!?」

「妹!?」

意味がわからないという顔で立ち尽くす翔吾の背中を織美がボカスカ叩く。「やだやだやだっ!なんで今まで隠してたんですかぁっ!?わたしも未野さんの顔見るたびに、誰かに似てるなぁーって思ってたんですよぉっ。でもまさか参道美紀のお兄さんとは思わなかったから全然気付かなかったっ!・・・おっと」織美は慌てて口を押さえた。渋谷にしては人通りが少ないとはいえ、やはり渋谷である。芸能人のプライバシーをネタにする輩に聞かれてはマズイ。彼女は首を傾げる翔吾の背中を押した。「とにかく、中へどうぞっ、本人がお母様と一緒にお待ちですぅっ!」

「・・・お母様?」ますますわけがわからない。「お母様って、誰の?」

「誰のって、参道美紀と、未野さんの、両方のお母様に決まってるじゃありませんかぁっ!?」そう言いながら、織美はギャラリーの扉を開けて中へ翔吾を押し込んだ。押し込まれた彼は、自分の姿を見てソファから立ち上がった二人の女性と対面し、今度こそ心臓が止まるのではないかと思った。

そこには24年ぶりに見る母の顔と、自分に良く似た、見知らぬ女優の顔があった。



《そんなこんなで-2》

翔吾を入れてしまうと、織美は扉に「本日は終了しました」の札を下げ、鍵を掛けた。それから応接に黙って立ち尽くす3人の間に立って改めて顔を見比べ、深く頷いて厨房へ下がった。3人はしばらく無言で見つめ合っていたが、やがて参道美紀が口を開く。

「・・・初めまして、参道美紀と申します。未野翔吾、さん、ですね?」美紀はいかにも女優然とした堂々たる微笑を浮かべ、ソファを指し示した。「こちらへ、お掛けになりませんか?」

しかし翔吾は入り口近くに立ったまま、その場を動くことが出来ずに固まっていた。彼が返事をしないので、美紀は母・世乃華(よのか)に目配せした。促された世乃華は小さく咳払いをし、咽の奥から努力して声を絞り出し、「・・・翔吾?」と、やっと言った。

ぎこちない二人の様子を見て、美紀が助け舟を出す。「突然、再会されて驚かれるのは無理も無いことと思います。正直、あんまりそっくりなので私も驚いているのですが・・・実は母はあなたが元気でいらっしゃることを確かめたくて、ずっと探していたのです。居所を知るために未野明雄氏の元も訪ねましたが、彼も知らないという返答でした。今回、雑誌を通じてここで個展を開かれていることを知り、私のスケジュール調整に手間取ってしまいましたが、どうにか最終日にお訪ねすることが出来た次第です」

美紀はそう言うと、翔吾の前までやって来て、手を差し出した。「お逢い出来て嬉しいです。どうか、こちらへいらしてください、お兄さん」

翔吾は差し出された白い手と、自分に良く似た若い女性の顔をしげしげと見た。そして母と同じように、咽の奥から苦労して声を絞り出した。「・・・しかし・・・あなたが生まれたのは、母が居なくなったのと同じ年だ。すぐに再婚したとしても・・・」

美紀は差し出した手をサッと上げ、それから強引に翔吾の手を握った。「ええ、おっしゃる通りです。だから私の実際の父は未野明雄氏です。私がお腹に居るにもかかわらず、母は明雄氏の元を去り、古い友人であるピアニストの参道禅氏と再婚したのです。参道氏は明雄氏とも友人ですから、母の消息も互いの状況もバレバレでした。母は隠れることを止め、私を産んだことも明雄氏に伝えましたが、情報はあなたまでは届いていなかったのですね?」

「知らなかった・・・俺は・・・妹が居たなんて・・・」翔吾は眉間に皺を寄せ、開いている方の手で顔を覆った。なんだか目眩がする。(親父はお母さんの居所を知っていたのか)そう思うと、色んなことがごちゃ混ぜになって頭の中をグルグル廻った。

「・・・翔吾、こんなに大きくなって・・・」ふと気がつくと、世乃華が傍らに来て腕を掴んでいた。彼女は涙ぐみ、震える小さな声で、「ごめんなさいね、ごめんなさいね」と何度も繰り返した。かつてエプロンにすがって泣いた母は、24年間見ない内に自分の顎より下の背丈に縮んでいた。いや自分が伸びたのだろうが、皺の寄った手の甲を見るとどうしても縮んだとしか思えなかった。

「何が、ごめんなさい、なんですか?」堪りかねて、彼は世乃華の肩に手を掛ける。「あなたは何も悪くないじゃありませんか?悪いのは親父なんだから。そうでしょう?」

翔吾に声を掛けられて、世乃華は彼を見上げた。「でも、お母さん、あなたと敏郎を置いて・・・訳も言わずさようならも言わないで黙って居なくなるなんて・・・やっぱり、ヒドイ母親だったと思うわ」

「もう、済んだことです。24年も前の話ですよ。今さら謝られても、俺としてもどうしたらいいのか、反応に困ります」

「そう?・・・そうね、今さら謝っても子供の頃のあなたに詫びることにはならないわね」世乃華は涙を拭って微笑んだ。

「それで・・・」翔吾は肩をすくめた。「今でもちょくちょく情報交換してるんですか?・・・その・・・明雄氏と」

彼が問うと、世乃華と美紀は顔を見合わせた。美紀は握っていた翔吾の手を放し、心なしかバツの悪そうな表情になる。

「ええ、あの人とは、今でも・・・そう、ちょくちょくではないけれど・・・」世乃華が歯切れの悪い返事をすると、美紀が横からボソッと告げた。「私は、東京芸大に入る時に、結構、お世話になりました。美術学部の油科を専攻しましたので」

「あ・・・そう」翔吾は放された手を見つめた。「そいつは、良かったね」



その頃、厨房の袖で聞き耳を立てていた織美は、お茶を運ぶタイミングを計りかねていた。ドラマみたいな再会を想像していたが、なにやら雲行きが怪しい。現実は小説より奇なり、である。

「だけど翔吾、私達もあの人も、あなたを除け者にしたわけじゃないのよ。あなたがちゃんと居場所を知らせていれば、もしくは高校と大学を出るまであの人の所に居れば・・・」世乃華はそう言いながら、父親よりも背丈の伸びた息子の手を握ろうとした。

だが彼は反射的に手を引っ込める。「居られるわけないでしょう?あんなオンナ狂いの奴の傍になんかっ。それに俺は美大に行きたかったのに、親父は・・・」その時、自分を見つめる美紀の悲しそうな目が一瞬映り、続いて火花が飛んで何が何だかわからなくなった。

「・・・い・・・痛ってぇ・・・」

ヒリヒリする頬を擦って前を見ると、怖い顔をした世乃華が居た。24年振りに喰らった、母親の平手打ちだ。世乃華は拳を握り締め、肩で息をしながら言った。「・・・ごめんなさい。あなたを叩く資格なんて、私には無いかもしれない・・・だけど、自分の父親を、そんな風に言うのは許せませんっ」

「そんな風にって・・・単なる、事実じゃ・・・」

「違いますっ!」世乃華は、その縮んだ体のどこから出るのかと思うぐらい力強い声でキッパリ否定した。「あの人は芸術家なんです。あらゆるものに対する愛と情熱が有り余っている人なの。私一人じゃ受け止められないぐらいのね。だからお母さん、疲れちゃって逃げ出したのよ。愛人が居たことが辛かったわけじゃないの。むしろそれで命拾いしたぐらいよ。とにかく精力的な男なんだから・・・あなただって、そうでしょ?」

「俺?」突然、話を自分に振られても困る。眉をしかめて困惑していると、美紀が今度はクスッと笑う。世乃華は娘をちらりと見て再び彼に向き直り、厳しい表情で言葉を続けた。

「あなた、奥様はいらっしゃるんでしょう?でも、2階のギャラリーのデッサンのモデルは奥様じゃない、って聞いたわよ」

「あー、それは・・・」翔吾は両手で頬を擦る。「だって、女房のヌードなんて、描けないですよ、照れくさくって」

世乃華はフフンと笑った。「でしょう?あの人も同じなのよ。それにあなたが画家になるのを反対したのは、その道の苦しさを自分が一番良く知っていたからなの。同じ苦しい人生を、愛する息子に歩ませたくなかったのよ。美紀が芸大に入ることに関しては、こういう子だし、人生を本気で丸ごと芸術に捧げてしまう、なんてことにはならないだろうってわかっていたからに過ぎなくて・・・」

それから世乃華は伸び上がるようにして翔吾の顔を覗き込み、訊いた。

「ねぇ、翔吾、あの人は、まさかあなたが15歳で家出して二度と自分の元に帰って来ない、なんてことになるなんて夢にも思ってなかったの。彼がどれほど悲しんだか、あなた、ほんの少しでも考えてあげたこと、ある?」

詰め寄られた翔吾は、自分の記憶より24年分老けた母親の目を見つめ返して、答えた。「・・・全く、ただの一度も、ありませんでした」

世乃華は溜息をついてソファに戻った。「・・・これだもんねぇ。そうだろうとは思ったけど」それから美紀に向かって言った。「この子は小さい時からこうなのよ。自分のしたいこと、絵を描くことにしか関心が無いの。他は全て、二の次。人の気持ちなんか、考えようともしないんだから」

翔吾は叩かれた頬をまだ擦っていた。「・・・それも、親父譲りですか?」これじゃ痛みは増す一方だ。

「そうね、あの人と同じね。自分の想いは山ほど。でも、他人のそれには気付かない」

「じゃ、俺よりマシかな?」彼は前髪を掻き上げた。「俺は自分の想いにも気付かない」

「イカレてるのね」世乃華はゆっくり首を振った。「あなたのデッサンを観て、それはわかったわ。あなたは15歳で家を出て、おそらく人一倍苦労したんでしょうけど、苦しさの源である芸術への欲求があなたの心の支えでもあった。でもその支えは諸刃の刃だもの。あなたがオカシクなってても不思議は無いわ。あなたの心は壊れ、あなたは壊れた心をどこかへ置き去りにして身軽になった。人間じゃなくなったのよ。だから軽々と父を超えて高みから父の尊厳を踏みにじる。あなたは芸術という羽を生やしたバケモノなんだわ・・・」




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