いもむし男−第13章


《ゴーショ-1》

10月18日日曜日、清々しい初秋の陽光が満ちるキッチンで、彼は朝昼食の支度をしていた。時刻は11時56分。2階の寝室で亜輝子が起きる物音がしたが、彼女はまだ降りて来ない。翔吾はテーブルに広げた『21世紀アート』に目を落として欠伸した。槍杉が書いた自分の記事。そこに添えられた自分の写真を見つめる。妹であるという参道美紀に良く似た顔だ。34歳の男なのになんだか女みたいな顔だな、と今さらながらに思う。だが、それも昨日までの話だ。

彼は椅子の背もたれに寄りかかって伸びをした。もっとも、伸びといっても手は肩より上がらないから背中を伸ばしただけに過ぎない。それもあまり勢い良くやるとバランスを崩して後ろにひっくり返る危険がある。新しい体を完全に使いこなすには、もう少し訓練が必要だ。翔吾は溜息をついてキッチンカウンターに目を向け、こちらに背を向けて調理する「彼」を見つめた。「彼」は白いシャツを着て、ベージュのコットンパンツを履いている。どちらも翔吾の服だ。その後姿に昨日までの自分を重ね、翔吾は複雑な気分になる。

そこへ亜輝子が降りて来た。

彼女はキッチンの戸口から音のするカウンターの方を見た。「彼」は気配に気付いて振り向く。亜輝子は「彼」の顔を見て、安堵した表情を浮かべ、「・・・良かった、やっぱり夢だったのね?」と言った。

「残念ながら、夢じゃない」と、翔吾は告げた。

その声にハッとしてこちらを向いた亜輝子は、安堵の表情のままきっかり15秒間固まった。翔吾は頭にすっぽり白い布を被って顔を隠し、白い布にぐるぐると身を包んでいた。どちらもカンヴァスを包む大きな布だ。そこから右手だけ出して顎を掻いている。右手といっても位置と動きから右手とわかるだけで、およそ人間の手という形では無かった。鉤爪のような琥珀色のそれは、硬質な機械のようで、初秋の陽射しを浴びて鈍い光沢を放っている。

亜輝子は深呼吸をして、もう一度カウンターの「彼」を見た。こっちが翔吾なら、こっちの翔吾は誰なのだ?顔はどう見ても彼だ。少なくとも、イモムシになった彼よりもよっぽど本人らしい。そう思いながら、全身をしげしげ眺め、ふと頭の天辺から出ている2本の突起に気付いた。長さ4センチぐらいの角のような突起が、黒い髪の間から伸びていた。色はターコイズブルーだ。

困惑した彼女が何か言おうと口をパクパクさせたので、翔吾が「彼」を指差して紹介した。

「こいつはゴーショだ。本当はもっと背が高くて頭の突起も長い。僕に合わせてサイズ調整して貰ったんだけど・・・」

「違うわ」亜輝子はゴーショに近寄りサイズを確認した。「あなたはもう少し背が高い。176.5センチだから」

彼女の指摘に頷き、翔吾はゴーショに言う。「176.5センチだそうだ。微調整してくれ」

ゴーショは二人を見比べて、それからその場にしゃがみ込み、頭を抱えてしばし体を硬直させた。もう一度立ち上がると、なるほどさっきよりほんの少し背が高くなっている。亜輝子はそれを確認し、「ぴったりだわ」と頷く。その時、彼女の腹の虫が鳴った。

「とりあえずここに座って食事してくれ・・・君のために、ゴーショが心を込めて作ったんだから」

翔吾に促され、亜輝子は彼の向かいの席に着いた。ゴーショは彼女の前に朝昼飯を並べ、トーストを焼いてバターを塗り、最後にコーヒーを添えた。亜輝子はゴーショの仕草を目で追い複雑な表情で見守っていたが、準備が整うと「ありがとう」と礼を述べた。ゴーショは少しはにかんだ顔になってカウンターの前へ戻る。

「ゴーショ、そんなところに突っ立ってないで、お前もここへ座れ」

翔吾に呼ばれ、ゴーショは亜輝子をちらりと窺って彼の隣へ腰掛けた。亜輝子はゴーショを見つめ、それから翔吾を見て問う。「あなた達は、食べないの?」

「・・・ああ、こいつは飯を必要としない。僕は・・・」翔吾は肩をすくめようとしたが、体を覆う白い布がわずかに動いただけだ。「食べるところを見せたくないから先に済ませた」

「そう・・・?」彼女はコーヒーを飲み、フォークにすくったスクランブルエッグを口に運んだ。「・・・美味しいわ・・・あなたが作るのと同じ」

「こいつは、ほぼ、僕と同じことが出来る・・・絵を描くことと、あと幾つかのことを除いては」

翔吾は鉤爪みたいな右手でゴーショを差して言った。「ただ、まだ声を出して喋ることに慣れていないんだ。声を出さなくても話しが通じる世界の存在だからだと思う。でも、その内、慣れる。僕がこの体に慣れるみたいに・・・」

「翔吾・・・」亜輝子はフォークを置いて彼を見つめた。「あなた・・・その布の下は?」

「見ない方がいい」彼は深く息を吐いた。「・・・僕は・・・もう、人間の形をしていない」

そう告げてから、彼は妻の反応を待った。連れ合いが冷静沈着型であることがつくづく有難かった。彼女は呆然としていたが、叫んだり、泣き喚いたりはしなかった。今、ここで嘆いても問題の解決にはノミの糞ほども役立たないことがわかっているのだ。彼は続けた。

「どうしてこんなことになったのか、僕には皆目わからない。今は、考える前に事態を飲み込むしかない状態だ。ただここ数ヶ月、僕の周りには奇妙なことが幾つもあった。この、ゴーショが現れたこともそのひとつだ」

「ゴーショは・・・彼は、どこから来たの?」

「どこ?」翔吾はゴーショに答えるように促した。ゴーショは困ったように眉を寄せ小さく咳払いをし、「あ・あ・あ」とマイクのテストみたいな声を出してから言った。「・・・という・世界から・です」

「え?なんですって?」亜輝子が訊き返す。ゴーショはもう一度同じ言葉を繰り返し、たどたどしく「・・・すみ・ません。この・世界に・無い・発音なので・あなた・には・聞き取れない・のです」と謝った。

「あ、そう」亜輝子は玉ネギとベーコンとトマトのオリーブオイル焼きをトーストに乗せて齧った。「ほれで、ろうひてひょうごにひてるの?」

「亜輝子・・・食べながら喋るなよ」翔吾が呆れると、亜輝子はトーストを飲み込み、「・・・失礼。驚いたらお腹空いちゃったのよ・・・それで、あなたはどうして翔吾に似てるの?」と訊き直した。

「こいつは、あちらの世界での僕なんだそうだ」ゴーショの代わりに翔吾が答えた。「だから、もともとは実体のある人間じゃない。でも、僕がこんなことになったんで、助けるために無理矢理実体を作ったんだ。だから君にも見えるし、触れることも出来る。助けるといっても僕を元通りにする力は無いけど、僕の身の回りのことや家事をしたり、代わりに人に逢ったりしてくれることになったんだ」

「わ・わたし・は・・・あなた・に・・忠告・し・たの・に・・・」と、ゴーショが口を挟んだ。

翔吾はゴーショの方を向いて、うんうんと頷く。「確かに忠告は聞いた。だが、イノチのある絵を描くなという忠告は、僕に今すぐ死ねというのと同じだよ。絵を描かないで死んだも同然になるぐらいなら、僕は絵を描いて死にたいね」

亜輝子がスクランブルエッグを食べ終えて言う。

「・・・でも、あなたは死なず、代わりにイモムシになった」

翔吾とゴーショは同時に彼女を見つめ、それから互いに顔を見合わせた。

「なぁ、亜輝子、僕は思うんだが・・・」翔吾は鉤爪みたいな指をピクピク動かして言う。「いずれにしてもこの状態はそう長くは続かないよ。僕がイモムシみたいな体で天寿を全うするとはとても思えないし、もしかしたら元に戻れるかもしれないけど、ダメだったらこのままオダブツになって・・・このゴーショだって、いつまでもこちらの世界に居られるわけじゃないしね」

彼女は黙ってコーヒーを啜った。翔吾は言葉を続ける。

「君には色々申し訳ないと思ってる。でも・・・出来ればこのままここに居させて欲しい。僕はなるべくアトリエから出ないようにするから、君に迷惑が掛からないように気をつけるから、この家で、絵を描き続けさせてくれないか?」



《ゴーショ-2》

「ごめんなさい、あなたが何を言ってるのか、私にはわからないわ」と、亜輝子は答えた。

翔吾は少し考えて、説明を変えた。「怪我をして、手術で鼻を切断した象が居たんだ」

「象?」

「そう、確かフランスの動物園での話だった。鼻が短くなった象なんて、とても生きられないだろうと皆が思った。だけどそれから3年も生きたんだ。最期の死因は何だったと思う?」

亜輝子は首を傾げる。翔吾は鉤爪みたいな指をピンと立てる。「ある日、動物園に来た子供に言われたんだ。こんなのは象じゃない、って」

「それが、死因なの?」

「そう。その象は象であるというアイデンティティを喪失したんだ。それでショックで死んだ。鼻が短くなっても、自分では象だと認識している内は生きていられたのにね」翔吾はそこで身を乗り出そうとし、バランスを崩してぐらついた。すかさずゴーショが彼を支え、椅子に戻す。彼は先を続ける。

「・・・僕だって同じだ。イモムシになろうがゾウリムシになろうが絵を描いていられる内は、僕は僕だ。前とは似ても似つかない体になったけど、僕にとってはそんなことは大した問題じゃない。幸い右手に鉛筆や絵筆を持つことは出来るし、カンヴァスを張るのはゴーショが手伝ってくれる。僕は生きている限りは絵を描きたい。実は新しいテーマを着想したんだ。今は一刻も早くこの体に慣れて、それを描きたいんだ」

彼の熱い語り口に、亜輝子はただ目を剥いて硬直していた。呆れを通り越してうっかり感動しそうだ。この人はおそらく、人類滅亡の日が来ても絵を描いているに違いない、と思った。

翔吾はバランスを崩さないように注意しながら頭を下げる。

「お願いだ、亜輝子っ、僕をこの家に居させてくれっ!」

「だ・だから・・・」彼女は両手を広げ、少々ひきつった微笑を浮かべた。「だから、私、あなたが何を言ってるのかわからない、って言ったのよ。ここはあなたの家で、あなたは私の夫なんだから、ここに居るのは当たり前じゃない?違うの?」

翔吾は顔を上げ、「・・・でも、僕は、こんな気持ちの悪いイモムシみたいな体になって・・・それでも?」と言いながら早くも涙声になった。だが布を被っているので実際の表情は彼女にはわからない。

「イモムシになろうがゾウリムシになろうがあなたは私の夫よ。私だって、いつまでも若いわけじゃなくていつかはババムシになるんだし」

亜輝子がそう言うと、翔吾は上げた顔をテーブルに伏せて泣いた。震える背にゴーショがそっと手を添える。それを見て亜輝子はニッコリ笑い、ゆっくり手を伸ばして彼の頭に触れた。その布の下にどんな顔が隠されていようと、私はあなたを追い出したりはしないわよ、と心の中で誓いながら。泣いている翔吾は、とぎれとぎれに彼女に感謝の言葉を述べた。亜輝子は彼の頭を優しく撫でながら言った。

「あなたがあなたであることは、その泣き虫からもわかるわ。イモムシは泣いたりしないわよ」

彼女は頭を撫でながら、もう一方の手で彼の頭を覆う布の端を摘み、気付かれないようにそーっと捲る。どんな顔になっても夫だ、とは思っても、どんな顔なのかは知りたい。

だが白い皮膚がほんの少し見えたところでゴーショが手を伸ばして彼女を制御した。ゴーショはゆっくり顔を左右に振り、「見ないで・やって・くだ・さい・・・彼の・顔に・逢いたけれ・ば・わた・し・を・見て」と言った。

亜輝子は手を放して椅子に戻った。「・・・優しいのね、ゴーショ」

言われたゴーショは困惑した表情で俯く。「優しい・と・いうのは・良く・わかり・ません・・・わた・し・は・翔吾・と・同じ・だけ」

「そう?」彼女はフフッと笑った。「そうね、きっと・・・そうに違いないわ」



《告知-1》

ようやく翔吾が泣き終わる頃、誰かが扉を叩く音がした。亜輝子は驚いて玄関の方を見たが、良く聞くとノックはトイレから聞こえて来る。怪訝な顔をする彼女に、翔吾は言った。「きっと、ミノタウロスだ。僕が呼んだから」

「ミノタウロス・・・?」

「頭が野牛のバケモノだよ。でも、そんなに悪い奴じゃない・・・ゴーショ、開けてやれ」

ゴーショが席を立って迎えに行き、ミノタウロスと共に戻って来た。すでに状況を把握している美濃田は、亜輝子にも見えるように画像調整した姿で、うやうやしく頭を下げて挨拶した。亜輝子はその大きな野牛頭を見て、口をあんぐり開ける。いったい自分の夫はいつからバケモノと親交を深めるようになったのだ?

「遅かったじゃないか、忙しいのか?」

翔吾が問うと、美濃田はポケットから皺だらけのハンカチを取り出して汗を拭いた。「ええ、まぁ、書類作成やなんだかんだと慌しくて・・・昨日のあなたほどじゃありませんが・・・」それから毛むくじゃらな指を立てて首筋をポリポリ掻きながら呟いた。

「・・・あー、それにしても昨日は本当にお忙しくて・・・しかもまさか、この期に及んであそこで1発やる・・・」言い掛けた美濃田を隣に立っていたゴーショが思い切りぶん殴った。

「あたたたたっ!」不意を衝かれた美濃田はよろけ、顔を押さえてゴーショを睨む。「なんですかっ、あなたっ!ゴーストの分際で私を殴るなんてっ!生意気なっ!」

「ごめんよ、僕の代わりに殴ったんだ。彼に悪気は無いよ」翔吾は自分の隣の椅子を示した。「まぁ、座りなよ。それで、なにかわかったかい?」

美濃田はもう一度ゴーショを睨み、咳払いをして椅子に腰掛けた。それから背筋を伸ばし、神妙な顔付きで翔吾と亜輝子を交互に見て、告げた。

「実は、重大なことがわかりました」美濃田はもう一度咳払いをする。「あなたは、すでに、死んでいます」

翔吾はゆっくり頷いた。

そして一呼吸置いて、「ええーっ!?」と驚きの声を上げ、椅子から転げ落ちそうになった。ゴーショが目にも留まらぬ速さで飛んで来て彼を支える。美濃田も手を貸して彼を椅子に戻した。翔吾はショックのあまりに胸がドキドキする気がしたが、心臓がどこにあるのかわからなかったので判断に手間取った。

「・・・ぼ・僕が、し・し・死んだって?・・・いつ?どこで?なんで?」

「昨日の帰りの『かいじ123号』の車中で・・・正確には23時44分44秒です。死因は過度な肉体酷使による心筋梗塞・・・ま、無理もありませんな」

淡々と述べる美濃田の言葉に、翔吾と亜輝子は顔を見合わせた。いきなりそんなことを言われてもピンとは来ない。

「だけど・・・」翔吾は頭を掻こうとしたが、あいにく手は頭まで届かなかった。彼の心を読むことの出来るゴーショが代わりに彼の頭を掻く。

「だけど、僕はなんだか死んだような気がしない・・・さっきだって朝昼飯を食ったし・・・死人が飯を食うだろうか?」

「問題はそこです」美濃田は鞄から書類を取り出しペラペラと捲った。「あなたが死んだのは確かですが、あなたのキーマ・・・タマシイ、ですな、これがあなたの体を離れる時、なにがしかのアクシデントに見舞われたのです。おそらくその結果、あなたはイモムシになり・・・これは現段階では私どもの想像ですが、そのアクシデントが原因で、あなたのタマシイは宙ぶらりんの状態のまま、元の精神に繋ぎ止められているのだと思われます」

「元の精神?」

「あなたのアイデンティティ、です」美濃田はそう言って、司祭みたいに厳粛な面持ちで手を組んだ。



「すると・・・つまり、こういうことかな?」翔吾は眉間に皺を寄せた。が、実際に皺が寄ったか、第一、眉間などというものが今の顔にあるのかどうかも定かではない。「このイモムシみたいな体はもう僕の体じゃなくて、僕はタマシイをぶら下げたアイデンティティだけの存在になった、ということ?」

「いえ、イモムシみたいな体はあなたの体が形を変えたものだと思います。それに、タマシイはぶら下がりません。ぶら下がるのは別のタマの方で」美濃田は真面目腐って言う。「タマシイには重さが無いのです。だから体が死ぬとサッと宇宙に舞い上がって行きます」

「だけど、僕のは舞い上がり損ねた」

「そういうことだと思います。生物としてのあなたの体は限界点を超え、あなたは死んだ。それなのにタマシイが離れていません。だから喋ったり飯を食ったり・・・まぁ、要するに生きていらっしゃるわけですが」

「つまり・・・死に損ない、か」翔吾は難しい顔をして考え込んだ。もっとも布を被っているので誰にもそれは確認出来ない。

美濃田は指の腹を舐めて書類のページを捲る。「あるいは、こうも考えられるかもしれません。あなたのアイデンティティが、アクシデントに便乗してタマシイを繋ぎ止めた、と」

「アイデンティティにそんな力があるのかい?」

「人によっては。何か、やり残した仕事があるとか、誰かのことが非常に気掛かりだとか、そういった強烈な執着がある場合に、アイデンティティが宇宙の摂理を無視した暴挙に出ることがあるのです。たいへん稀なことではありますが・・・それで、特急列車に撥ね飛ばされたのに死ななかった人も居ます」美濃田は書類を捲る手を止めて翔吾を見た。「その人は出張先から妻の待つ家へ帰る途中でした。家には、その日生まれたばかりの、彼の初めての子供も待っていました」

子供、と聞いて、翔吾の頭には真っ先に地下蔵に置いたままの連作が浮かび、次に織美の顔が浮かんだ。ゴーショと美濃田は、黙って彼の言葉を待つ。こういう時は顔を隠す布が有難い。すると今まで呆然と話を聞いていた亜輝子が口を挟んだ。

「・・・それで、結局、この人はどうなるのかしら?」



《告知-2》

美濃田は彼女を見て、困惑したような気の毒そうな賞味期限の過ぎた売れ残りの惣菜のような表情になった。「申し訳ありません、奥様、私どもにわかるのは未野さんが一度お亡くなりになったという事実だけです。アイデンティティに繋ぎ止められたタマシイの今後の身の振り方までは、なんとも・・・遅かれ早かれ、いずれは体を離れるでしょうけれど」

「その、いずれ、というのは、どれぐらいで?」亜輝子は食い入るような目付きで訊ねた。

美濃田はゆっくり首を振った。

「私どもは広くマクロ的に宇宙の動向を把握しておりますが、予知能力があるわけでは無いのです。私にとっても現在は現在でしかありません。従いまして、まだ起こっていないことはわかりません」そして書類を閉じて鞄にしまった。「とにかく、今回のアクシデントがなんであったのか、引き続きその原因を究明いたしたいと思います。この件につきましては新しい情報を得次第、なにをさて置きましても御報告いたしますので」美濃田はそう言いながら席を立った。

「ちょっと、待ってくれよ」翔吾が鉤爪の手を上げて呼び止める。「あんた、僕はすでに死んでる、って言ったよね?」

美濃田はビクリとして立ち止まる。「はい・・・申し上げましたが?」

「じゃ、保険金は?」

「へ?」

「へ?じゃないよ、死んだなら保険金が下りる筈じゃないか?」翔吾が目配せするまでもなく、ゴーショが素早く美濃田の鞄を取り上げる。

「あ、ちょっと、それ返してくださいっ、大事な書類が一杯入ってるんですからっ」美濃田が取り返そうとすると、ゴーショはさっと飛び退って壁の中に消えた。亜輝子はギョッとしたが、さっきから驚いてばかりなのでもう顔のバリエーションが品切れだ。

美濃田は舌打ちをして頭をボリボリ掻いた。

「確かに」諦めてもう一度腰掛ける。「確かに本来なら保険金が下りるところです。しかし私どもはまだキーマをお預かりしていない。あなたのタマシイを競売に掛ける準備に移れなければ、保険金をお支払いするわけには行きません」

「あ、そう?」翔吾は鉤爪を擦り合せてカチャカチャと音を立てた。

「でもさ、一度死んでるんだったらこのまま競売に掛ければいいじゃない?誰かが落札したら、僕の体からちゃんとタマシイが離れるまで売約済みってことにして。離れたてで新鮮で素性のわかるタマシイの方が、いい値が付くかもしれないよ。あんたらは競売で金が入れば問題ないんだろう?」

「そんな・・・」美濃田は再びハンカチを取り出して額の汗を拭く。「私もかれこれ5億年ほどこの仕事をしていますが、こんなメチャクチャな話は初めて聞きました」

「そんなにメチャクチャでもないと思うけどな」翔吾は首を傾けて訊ねる。「そういう扱いが可能かどうか、検討だけでもしてみてくれないか?」

彼は言葉を切ってから何気なく亜輝子の方を見た。彼女は唇を噛み締めて一心に何かを堪え、思案していた。彼はそんな妻から顔を背け、壁に掛かる自分の絵に目を泳がせる。

「わかりました」ややあって、美濃田は諦めて頷いた。「少し時間をください。上の方と協議して、改めて御返答いたします。もし、あなたの御要望が通った場合は、すみやかに保険金の振込み手続きを取ります」

美濃田がそう言うと、ゴーショが天井からヒラリと降りて来て鞄を返した。美濃田は鞄から書類を1枚取り出してテーブルに置いた。

「ここに、お振込先の名義人氏名と口座番号をお書きください」

翔吾は書類を見て、亜輝子に言った。「君が、君の名前と口座番号を書いてくれ」

しかし彼女は眉を寄せて首を左右に振った。「私が・・・?これは何?あなたはこの人と何の契約をしたの?」

翔吾は一瞬押し黙った後、「いいから、早く書けっ!」と怒鳴った。

亜輝子はびっくりしてシャックリをした。彼に怒鳴られたのは初めてだった。彼が怒鳴るのを見るのも初めてのように思う。意外な一面かもしれない。人生、瀬戸際までわからないものだ。彼女はその迫力に圧倒され、ボールペンを握って震える手で名前と口座番号を記入した。美濃田はそれを確認し、「確かに・・・では本日はこれで失礼します」と一礼してトイレから帰った。

美濃田が行ってしまうと、ゴーショはさり気なく席を外した。翔吾は横を向いたまま、「怒鳴ったりして、ごめん」と謝った。亜輝子は黙って首を横に振ったが、テーブルにポタポタ落ちる涙の音が聞こえる。

「泣かないでくれ」翔吾は懇願した。「僕は泣き虫だが、君が泣くのを見るのは耐えられない」しかしそう言うと、彼女の目から零れる涙の量はさらに増えた。

「頼むから・・・」翔吾は頭を抱えたかったが、手は頭までとどかない。「君が泣くと、僕は君を抱きしめてキスしたくてしたくてたまらなくなってしまう。だけどイモムシと抱き合うなんてどう考えてもサマにならない。葛飾北斎は女が大タコと交わってる絵を描いたけど、僕はそれを見た時、吸盤の痕が残って困るんじゃないかと他人事ながら心配になった」

亜輝子は涙を拭いながらクスッと笑い、ティッシュペーパーを取って勢い良く洟を噛んだ。そして顔を上げ、一生懸命笑顔を作った。

「泣くなって言ったからって、無理に笑わなくてもいいよ」翔吾は溜息をつく。「亭主が死んだと聞いて、笑う女房ってのも空恐ろしい」

「・・・ひとつ、訊いてもいいかしら?」

「なんだい?」

彼女はもう一度洟を噛み、丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に投げ込んでから確認するように言った。「あなたの死因は過度な肉体酷使による心筋梗塞だと言われたけど・・・」それから、翔吾を真っ直ぐに見て訊いた。

「・・・あなた、一昨日、昨日と、東京でいったい何をしていたの?」

彼は妻の視線に射抜かれたようにピタリと動きを止めた。まな板の鯉というのはこのことか?いや、この場合はまな板のイモムシだった。だが自分が突然イモムシになることに比べれば、世の中のたいていのことは、もはや恐れるに足りないのだ。

翔吾は母と妹に逢ったことと織美との出来事を除いて、彼女に説明した。今回に限らず少し前から呼吸困難になる発作があったこと、連作の完成が近づくにつれ神経がハイになって不眠状態が続き疲れているのかいないのかわからないぐらい疲れていたこと、足がタイヤになった挙句にウルトラマリンブルーの血を吐いたことを話した。「慢性的な睡眠不足と過労で心筋梗塞・・・ゴーショが忠告した通り、後から考えれば死んでも不思議は無かった」

亜輝子は苦しげに眉をしかめ、信じられない、というように口を覆った。

しかし、ここで翔吾はかすかに笑みを浮かべる。「死んでも不思議は無かった・・・だけど結局、僕は死ななかった」

亜輝子は口を覆っていた手をパッと開いた。「・・・え?・・・でも、ミノタウロスはあなたが死んだと・・・遅かれ早かれタマシイが離れると・・・」

「そりゃあ誰だっていつかは死ぬさ」彼はフフッと笑う。「肝心なことは、今、生きてるってことだよ。僕は生きてる。本人が言うんだから間違いは無い」

絶句する彼女をよそに、彼はゴーショを呼んだ。

「少し疲れたから僕は部屋で休むよ。もし誰か来たら・・・まだゴーショは準備中だから、今日は伸びてるって言っといてね」

合図するとゴーショは彼を軽々と抱きかかえた。絶句したままの亜輝子の驚く視線が追って来る。

「抱っこされるなんてみっともないけど、まだ上手く移動出来ないんだ」と、彼は言い訳した。「・・・じゃ、おやすみ」



《吸盤その他》

実は、「まだ上手く移動出来ない」というのは嘘だった。人間らしく歩けない、というだけのことだ。アトリエでゴーショの腕から降りた翔吾は、体を覆う布を解いてもらうと大きく伸びをした。

「ああ、息苦しかったっ」

頭から被っていた布を振り落とし、どこにあるのか自分でも良くわからない目を瞬かせる。被り布はズレると物が見辛いのが難点だ。視界が良好でさえあれば、2本あった足が6対の吸盤になっていても耐えられる、と彼は思った。彼はその吸盤を使い、体を伸縮させながら壁を登り、天井を這い、反対側の壁から降りる。無理な姿勢でダイニングチェアに座っていたから思い切り体をほぐしたい。もう一度天井まで登って逆さまのままぐるぐる這い回る。人間だった頃にはとても不可能な芸当だが、やってみると思いのほか気持ち良いので癖になった。

「ねぇ、翔吾、もう寝ちゃった?」

突然ドアが開き、亜輝子が顔を出した。うっかり鍵を掛け忘れたのだ。咄嗟にゴーショが彼女の前に立って視界を遮り、「今、オフリミットです」と告げて部屋から押し出す。

「・・・危なかった」天井に張り付いたまま彼は溜息をついた。「鍵を掛けて、お前も休んでいいよ。用があったら呼ぶから」

翔吾に言われると、ゴーショは巻尺を持って天井までフワリと飛び、彼の寸法を測った。それから床に降り、布を拾い上げ手際良く畳んで腕に掛ける。

「ミシンを借ります。この布は大きすぎて重いので、あなたの体に合う服を縫います」そう言うゴーショは、そうして見るとにわか仕立ての仕立て屋みたいだ。

「働き者だねぇ・・・」翔吾は壁を這って床に降りる。「お前は疲れないの?」

「疲れません。ゴーストですから」ゴーショは内側から鍵を掛け、自分はドアを通り抜けてアトリエを出た。

ゴーショが居なくなると、翔吾はもう一度伸びをし、オーディオ装置の前まで這った。一番下の吸盤をテコに腹筋を使ってヒョイと立ち上がり、鉤爪を伸ばしてラックからCDを選ぶ。バッハの平均律クラヴィーア曲集を取り掛けて戻し、少し思案してショパンを選択した。ウラディミール・ホロヴィッツ演奏のものだ。録音が古いので音は悪いが迫力のある盤だ。それをプレイヤーに入れて立ったままピョンと後ずさり、肘掛のあるゆったりした椅子にストンと腰掛ける。動きにもだいぶ慣れて来た。

やがて、大音量でバラード第1番が流れ出す。ト短調op.23。ショパンの中で彼が一番好きな曲だ。寄せては返す波のように繰り返される絶え間ない変化にこれでもかこれでもかと揺さぶられる神経・・・それがたまらなく快感なのだ。怯えるようなピアニシモと怒りのようなフォルテ。逆さまに飛びながら落ちて行く狂い鳥の羽ばたきみたいなスケール。溢れ出るピアノの音は彼を翻弄しながらどこかへ連れて行く。どこへ?どこでもいい。どこまでも連れて行け・・・

彼はふと目を開け、体を伸ばしてデスクからワトソン紙のスケッチブックを取った。勿論、4Bの鉛筆も。

バラード第1番に続いて第4番が始まった。翔吾は腹に乗せたスケッチブックに鉛筆を走らせる。時々、音楽につられて吸盤の足がピクピクと勝手に跳ね上がる。彼はそれを眺め、(なかなか興味深い造形だ)と思った。

今、彼の体は全体が白く艶と弾力のある皮膚で覆われていて、首と胴のくびれは無くなっていた。後頭部から背中を通って最下部に至るライムグリーンの縦筋が2本あり、筋に沿って3センチ程度の短い突起が2列、ずらりと並んでいた。蛍光塗料を塗ったみたいなレモンイエローの光沢を放つ突起の数は全部で108個。まるで煩悩だ。体の最下部には小さなピンク色の排泄孔と長さ15センチぐらいの尻尾がある。尻尾は薔薇色で、けだるい曲線を描いて内側にくるりと巻かれていた。腹の側には足の代わりに吸盤が6対。この吸盤も中央のへこんだ部分は鮮やかな薔薇色だ。それから手の代わりに琥珀色の鋭い鉤爪が3対。一番上の1対だけが長く、指の名残りのように先が2つに分かれていたので鉛筆を持つことが出来た。

昨夜はまだ鏡の中に残像を留めていた顔は、もはや以前の面影など片鱗も無い。体の形は毒蛾のイモムシみたいだったが、顔はのっぺらぼうのミミズに近かった。白い、ツルリとした、目も鼻も耳も口も見当たらない顔だ。だが不思議なことに彼は以前と同じように物を見、食べたり匂いを嗅ぐことが出来た。こうしてうっとりとショパンを聴くことも。



それから彼は、誰かが今の自分を見たらどう思うだろう?と考えた。ショパンのバラードを聴きながら絵を描くイモムシなんて、世界中探したって僕ぐらいだろうな。

鉛筆の軌跡はいつしか緩い曲線を描いて何かを模ろうとしていた。彼はそれを探った。なんだったかな、この形は?そして唐突にそれに思い当たる。ああ、そうか、織美だ・・・彼はあの狂おしく切ない夜を思い出しながら鉛筆を動かす。

(・・・それにしても、どうして、あんなことになったのかなぁ?)

改めて思い起こしてみれば、確かに彼女のアプローチはタイミングが良かったのだろう。自分にぶつけられた岡鬼の言葉とそれに追い討ちを掛けるような母の言葉。父の中の嫌悪していた性癖を、被害者の筈の母に弁護された衝撃。それはバズーカ砲のように胸を打ち抜き、直径21.9cmほどの穴を開けたのだ。その穴に織美がすっぽり嵌り、内側と外側から暖かく癒して、僕の体の一部になった・・・彼女を何度も求めてしまったのはきっとそのせいだ。何かに取り憑かれたように、引き剥がされた半身を取り返そうとするように僕は織美を欲した。彼女とひとつになる時の充足感が、何にも比してもそうあることを世界が肯定する証しに思えた。もしこんな体になっていなければ、今でも、今ここに彼女が居たら、僕は・・・きっと・・・

彼は暖かく自分を包む彼女の体の甘美な感触をありありと思い浮かべた。その時、けだるくとぐろを巻いていた尻尾がやにわに真っ直ぐ伸びて硬直し、ペパーミントグリーンの液体を勢い良く放出した。

何が起こったのか理解出来ない翔吾が呆然としていると、壁から雑巾を持ったゴーショが現れ、黙って床の液体を拭き、何も問わずに戻って行った。

(・・・まさか、これ・・・)

彼は体を折り曲げて尻尾をしげしげと観察した。液体を放出したそれは何事も無かったかのように元通りにくるりと巻かれている。彼は鉤爪を伸ばして、それにそっと触れてみた。今まで考えてもみなかったのだ。イモムシの尻尾が性感帯だなんて。いや、性感帯ではない、これは生殖器に違いなかった。しかしイモムシは何かの幼虫であるから未だ生殖活動とは縁が無い筈だ。

うーむ、と考え込んだ挙句に彼が至った結論はこうだった。

(僕はイモムシに似た外見に変身したが、イモムシではない。じゃあ何かといえば、こんな姿をしていてもやはり人間なのだ)

そして彼はフフフと笑い出した。こんな状況で笑うなんて誰が見ても尋常では無いだろうが、この状況そのものが尋常では無いのだからさして気にもならない。そこには奇妙な解放感があった。彼は尻尾を優しく愛撫してから身を起こし、下から2番目の吸盤を使って引き出しを開け絵の具箱を出す。慣れてくれば、こんなにたくさん手足があるのだから便利といえば便利である。彼は手際良く準備を整え、鉤爪で絵筆を持ち、織美を想いながらスケッチに色を置いた。

(カンヴァスの準備が要るな)

色を置く内に、彼の頭の中は次第に形を成す次のビジョンで一杯になって行った。ビジョンは変身の異常事態も、妻に対する罪悪感も、たちまちの内に銀河系の彼方へと吹き飛ばす。

絵を描きたい。織美との経験から掴んだこの感じ、このけだるく満たされた豊潤な感覚を絵にしたい。カンヴァスが要る。それも特大の。バーネット・ニューマンの『アンナの光』を超えるスケールの。

「ゴーショ!」

翔吾が大声で呼ぶと同時にゴーショは壁からひょっこり顔を出し、彼に訊ねた。

「『アンナの光』より大きなカンヴァスを張るのは構いませんが、それをどこで描きますか?」



翌月曜日の昼過ぎ、『闇光園』の駐車場に1台のワゴン車が停まった。車から降りたのは岡鬼藪郎と槍杉一平、そして山根織美である。岡鬼は、まだ腫れの引かない左頬に大きな絆創膏を貼っている。八百樹の鉄拳をもろに喰らったのだから無理も無い。前歯1本と八重歯が折れ、折れた自分の歯で頬を切った。それでも山梨を訪れたのは、とにもかくにも仕上がったという翔吾の連作24枚を観たいがためだ。

絵を観たいのは槍杉と織美も同じだ。もっとも織美を駆り立てるものは他にもあった。ゾンビみたいな顔色で帰った翔吾の無事を自分の目で確かめること(あれ以後、彼の携帯電話は電源が切られたままだったし、家の電話に掛けるのはちょいと気が引けた)、それとデッサンのモデルに逢うことだ。

やがて、そのモデルが到着した。




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