いもむし男−第14章


《子供達-1》

華子はいつものマンダリンオレンジのスポーツカーではなく、真っ黒いジャガーでやって来た。どれぐらい真っ黒いかというと、それはもう地獄のサタンのヘソの穴みたいに真っ黒なのだ。そのドアが開き、深い紫色のスーツに身を包んだ華子が降り立ったのを見た時、織美は全身に鳥肌が立った。身長152cm弱の小柄な華子はスミレの妖精みたいだった。この可憐な女性があのエロティックなデッサンのモデルなのかと思うと余計に胸がドキドキした。次いで彼女をデッサンする翔吾を思い描き、当然のようにその次の場面を想像した。そして翔吾と八百樹の不可思議な位置関係に首を捻る。当の八百樹は少し遅れて、ヒマワリみたいに黄色いミニ・クーパーで到着した。

岡鬼と槍杉も似たようなことを考えていたらしく、近づいて来た華子が挨拶すると顔を紅潮させてしどろもどろになりながら名刺を差し出した。そんな彼等の様子には気付かない素振りで、華子は岡鬼に向かい「先日は、わたくしの夫が、たいへん失礼いたしました」と優雅に頭を下げる。

「いえっ、そんな、悪いのはワシの方で・・・」岡鬼はそこまで言って、後から車を降りた八百樹に気付き、ひゃぁーと悲鳴を上げながらその場に土下座した。「ホ・ホンマに、たいへん御無礼な真似を、どうか、どうかお許しくださいませぇ〜」

「やめなよ、岡鬼さん」いつもの口調に戻った華子は苦笑する。「わたしはそんなに気にして無い。あなたが謝る相手はわたしじゃないんじゃない?」

「それはそうなんやけど・・・」立ち上がりながら岡鬼は顔をしかめた。「あれから何度電話しても未野さんは出ぇへんし・・・声の良う似た無愛想なアシスタントは取り次いでくれへんし」

「アシスタントだと?」八百樹が横から話しに割り込む。「ふん、賞味期限切れの納豆みたいな話だな。そいつぁ本人だぜ」

「さよか?」

「決まってるだろっ。あいつにアシスタントを雇う甲斐性があるわけねぇだろがっ!」八百樹は岡鬼の襟首を掴んでワケも無く凄む。いや、ワケはあるのだった。二人は向かい合ったまましばし膠着した。巨漢の岡鬼の襟首を掴む八百樹はマッコウクジラに食いついたシャチみたいだ。この後どうなるのか見てみたい気もしたが、時間が惜しかった織美は槍杉の脇腹を小突いた。突然指名を受けた槍杉は八百樹を止めに入ると思いきや、サッと二人に背を向けて華子に訊ねる。

「あ、ところで、未野先生のお作品はこの地下蔵の中で?」

「そう。こっちだよ」華子はポケットから合鍵を取り出しながら地下蔵の入り口に向かった。槍杉と織美が後に続く。観客が去ったので仕方なく八百樹も手を放す。解放された岡鬼は八百樹に愛想笑いを向け、「ふんっ」と鼻で返された。

華子は外側の大戸を開け、石段を降りて地下蔵の扉の鍵を開けた。一同は彼女の後ろに一列に並び、餌を待つ雛鳥みたいに扉が開くのを待つ。扉の手掛かりを掴んだ華子は珍しく緊張した面持ちになった。「・・・実は、わたしも完成したのを観るのは初めてなんだ。岡鬼さんに電話を貰うまで完成したって知らなかったから」

岡鬼は慌てて織美の顔を見た。「いや、ワシは山根さんから聞いたんやけど・・・」

織美は(え?)という顔でキョロキョロ周りを見て、「ホントですかぁ?未野さんから直接聞いたのわたしだけなんですかぁ?でも、出来たって言ってましたよぉ」と応えながら困惑した笑顔になる。

「あのー」と槍杉が手を上げる。「やはり拝見する前に、未野先生に確認を取った方がよろしいのではないでしょうか?」

「だから」八百樹が鼻の穴に指を突っ込んで鼻毛を1本引き抜いた。「電話しても出ねぇんだよ。バカの一つ覚えみたいに絵ばっかり描いてる奴のことだ。他にやることもねぇから、たぶんもう次のを描いてるんだぜ。そうなると蓋をしたサザエ並みに閉じ篭っちまうんだからな。無理矢理こじ開けてみな、機嫌悪くて怖ええぞぉ」

「先生の怖いところ、知ってます知ってます」うんうんと槍杉は頷く。「許可無く作品を観られることより、制作を邪魔されることの方が怒られる確率は高そうですね・・・じゃ、やっぱり山根さんの言葉を信じて、観ちゃいましょうか」

それじゃあ、と話は纏まり、華子が扉を開けた。



地下蔵の壁にずらりと立て掛けられた24枚の絵は、翔吾が迎えに来るのを今か今かと待っていた。ここは静かだが寒くて暗い。空調を整えないとカビが生えそうだ。せっかく生まれたのに、生まれた途端に誰にも観られずお蔵入りなんて絶対に嫌だ、と絵は思っていた。だから5人がやって来た時はとても嬉しかった。しかもみんな目を丸くして自分達を見つめている。

「・・・これか」

そう呟いたきり、八百樹は口をつぐんだ。幾ら芸術に疎いとはいえ、この迫力には圧倒される。なんせ高さ2.5メートル×幅1.5メートルもある絵が24枚も並んでいるのだ。しかも画面には無数の筆と鉛筆となんだかわからないものの軌跡が刻まれ、見ていると気が遠くなりそうだった。どれも全体に似たような白い絵だが、どれ一つとして同じ物は無い。白く見える中にも幾重もの色の層があり、微妙な濃淡と歌うような筆致があり、それが幾ら観ても見飽きぬ奥深さを感じさせた。また絵は眺める内に上昇するようにも見え、向こうへ引っ込むようにも、またこちらへ迫るようにも見える。じわじわうねうねと動いているように感じるのだ。それは実在でありながら実在を超えた何かだった。二次元の平面でありながら別次元の存在だった。そして中央に立ちぐるりと絵に囲まれていると、絵を観ているのか絵に観られているのかわからなくなり、しっとりした白い靄に包まれるような不思議な至福を感じるのだった。

だがその至福は手放しの幸福ではなかった。この絵が美しいのは、その底に深い悲しみと苦しみを横たえているからだ。鬱屈と憤怒、欲望、自虐がない交ぜになった感情のどす黒い渦も見える。それらが白い線に昇華される時、歌う筆致は憂いを湛えた官能の肌裡を紡ぐ。じっと絵を見つめていると、やがて、無数の線が織り成す抽象画は原始的な狂おしいダンスを舞う女の姿になった。野生の官能美の化身のようなそのシルエットは、正しく華子のものだった。

八百樹は目を伏せて頭を振った。自分には芸術はわからないと思っていた。華子に連れられて美術館に行っても、どんな絵や彫刻を観ても何も感じなかったからだ。芸術なんておためごかしのハッタリだ、芸術家なんぞは多かれ少なかれ詐欺師みたいなもんだ、と彼は思っていた。ところがどうだ。こいつの絵は俺のハートに届くじゃないか。

(未野め・・・お前はもしかすると、とんでもねぇ奴だな)

八百樹はもう一度頭を振り、翔吾を気安く殴ったり蹴ったりして来たことを初めて(少しだけ)後悔した。自分が殴った頭の中にはいったいどんな世界があるのか、彼は今さらながらに興味が沸いた。

八百樹でさえそんな感想を抱いたのだから、芸術に造詣が深い筈の他の4人が心打たれないわけがない。槍杉などはタマシイまで奪われ半分あの世に行ったような顔になって、もう1時間も口を開けっ放しだ。岡鬼は腸捻転を起こした鬼みたいに苦しげに顔を歪めている。彼は深呼吸をすると、華子の傍に近づいて小声で話し掛けた。

「・・・七尾さん、ワシ、やっぱりウチで連作展やらして貰いたいわ。なんとか未野さんに話を通して貰えんやろか?」

華子はゆっくり振り向いて岡鬼を見上げた。彼女の大きな目は潤み、頬には幾筋もの涙が伝っていた。華子は涙を拭おうともせず、スーッと息を吸い込んでから、抑えた声で言った。

「・・・イヤ」

「イヤ?」岡鬼は小さな目を瞬かせる。「イヤ言うのんは、つまり・・・?」

「この絵は、わたしのものなんだ」華子は絵の方に顔を向ける。「全部・・・誰にも、渡さない」

岡鬼は八百樹をちらりと見て、触手で綾取りしようとするイソギンチャクみたいに複雑な表情で訊いた。

「それはつまり、買うた、ゆうことでっか?この絵を、全部?」

「そうだよ。まだ翔吾さんと話はしてないけどね」華子は肩をすくめる。「でも、彼の奥さん・・・亜輝子さんには伝えてある。この絵は、わたしが元なんだし、ちゃんと代金も払うし、翔吾さんはダメとは言わないと思う。この絵を買って、それからここをチャペル美術館にするんだ。設計は亜輝子さんがやる。優秀な建築士だから」

少し離れたところに立っていた八百樹は、頭をボリボリ掻きながら部屋の隅へ行き、無造作に置かれていた折り畳み椅子を起こして腰掛けた。



《子供達-2》

岡鬼は華子のプランにかなり驚いたようだった。しばし考え込み、それからポンッと手を打った。

「ええやないですか、チャペル美術館、素晴らしいプランやと思います。それやったら尚更『摩天楼』で宣伝せんと。この絵が七尾さんのものやいうことやったら、七尾さんがワシとこへちょいと1ヶ月ばかり貸し出してくれたらええわけやから、話は早いんちゃいまっか?」

すると華子の代わりに八百樹が、部屋の隅から大きな声を投げた。

「あったま悪ぃなお前ぇは。未野はお前のそういう短絡思考が気に入らねぇから展覧会を中止したんだろがっ。あいつが嫌がってるもんを俺達が貸し出せるわけねぇだろっ?」

岡鬼は大きな鼻の穴を膨らませて身震いした。だが、ぐっと堪えて言う。「・・・そこを、なんとか・・・ウチで展覧会をやれば、結果的には、未野さんの利益になることなんやし」

「利益、か・・・」八百樹も負けないぐらいに鼻の穴を広げ、ついでに口髭も震わせる。「あいつは利益より気分で動く奴だからな・・・だが、俺は違う」そして大きく足を組み、靴の底をちらりと覗いて言う。「どうしても貸せというならレンタル料を払え」

「レ・レンタル料?」さすがに岡鬼の声も裏返る。「七尾さん、ワシとこホンマやったら1ヶ月6百万で貸しとるギャラリーなんでっせ。それをタダにした上に、なんでワシがレンタル料払わないかんのですか?」

「そりゃあな、未野の利益の先取りだ」八百樹はピカピカに磨かれた革靴の先端を指でなぞる。「お前ぇが今言った、結果的に得られる利益を先にいただくだけだ」

岡鬼は首を捻る。八百樹の理屈は理解不能だ。八百樹は「ふん」と鼻を鳴らし、言い換えた。

「お前ぇが言ったのは本当にあるかどうかわからねぇ神社の御利益みたいなもんだろ?俺はそんなもんは信用しねぇ。だから先によこせって言ってるんだ」

岡鬼は槍杉と織美を振り返って助けを求めた。このジブラルタルの岩みたいな男をなんとかしてくれ、という目で二人を見た。しかたなく槍杉が、コホンと咳払いして口を開いた。

「岡鬼さん、こうお考えになったらいかがでしょう?つまり・・・チャペル美術館建設のためのカンパだ、と」

槍杉の言葉に、八百樹はパチパチと拍手した。「そうそう、ま、そういうことだ。お若いの、キミはなかなか頭がいい」

「ありがとうございます」と槍杉は頭を下げ、ついでにもう一言添えた。「じゃあ、いっそ、展覧会でもカンパを募っては?なんてったって、建てるのはチャペル、癒しとタマシイ救済の場ですから」

「そうだな」八百樹はすっかりその気になった。「キミは確かジャーナリストだったな。金は無さそうだが職能的なカンパは出来そうだ。その方面はキミに任せるから、どうだ、ひとつ宣伝相ということでボランティア活動してみねぇか?」

「ああ、そりゃあもう、未野先生のお役に立つことでしたら、喜んで」槍杉は強面の八百樹に褒められて気を良くしたのか二つ返事で引き受けた。

「・・・ほんで、結局、展覧会はやってもええっちゅうわけですかいな?」岡鬼は面食らった顔のまま確認した。「・・・つまり、その、ワシが、チャペルのために幾らかでもカンパすれば、未野さんに話を通してくれる、ゆうわけで?」

八百樹はゆっくり頷いた。「俺があいつを説得する。この中で、一番古い付き合いだからな」

黙って聞いていた華子はフフッと笑い、それからふと思い出したように岡鬼に訊いた。

「そういえば、あのデッサンは、今どこにあるのかな?」

「デッサンは、まだ『D.I.Y.ギャラリー』やと思いますが・・・そやろ、山根さん?」

突然話を振られて、織美はギクリとした。「あ、あ、あ、そうですぅ。ウチでお預かりしたままですぅ。スケッチも」そう答えながら華子を窺う。あのデッサンは「養育費の足しに」と未野さんが自分に全て譲ったのだ、などとおめおめ白状するほど馬鹿じゃない。第一、とてもそんなことを言える雰囲気では無い。(華子さんに比べたら、わたしなんて花に止まったコフキコガネだしぃ)織美はジャケットの裾を引っ張ってモジモジした。成り行きとはいえ、自分はなんて分不相応なことをしてしまったのか。

「ホンマやったら、連作展と抱き合わせでデッサン展もやる予定やったんやけど・・・」岡鬼の方は八百樹の反応を窺う。「未野さん、ポスターの一件でものごっつぅ怒っとったから、そっちの方は、もう、アカンやろなぁ・・・」

「一応、訊いてやってもいいぜ」八百樹は組んだ足をブラブラさせる。「別料金だがな」

「別料金!?あんたっそんなっガメツイッ」岡鬼の黒焦げアンパンみたいな顔が食べ頃の餅みたいに膨らんだ。

「がめつくはねぇな。そっちは、ほれ、未野への慰謝料だ。お前ぇ、あいつをメタメタに傷つけるようなことを山ほどぬかしやがったんだろ?」

「う・・・それは・・・」

「ネタは上がってるんだ」八百樹は革靴を脱いで足の裏を掻いた。「あんなタンポポの綿毛みてぇにデリケートな奴をイジメやがって・・・昨日新宿で逢った時、泣いてたんだぜぇ、オーイオイ、ってな。それで俺はあいつの頭を優しく撫でて、お前ぇがどんな非人道的なセリフを浴びせたか全部聞いてやったんだ。なんせ俺達は、親友、だからよ」

八百樹は靴を履いて立ち上がり、岡鬼の目の前まで行ってから、おもむろに周りの絵を指差した。

「そのちっこい目ン玉ひん剥いて、よーくこれを観てみな。お前ぇはここにある未野の絵を、いったいどう思ってるんだ?え?」

八百樹にグイッと迫られて、岡鬼は太い首に顎をめり込ませる。「・・・す・素晴らしい思てます。せやから展覧会を・・・」

「わかってねぇな・・・」八百樹の目がキラリと鋭い光を放った。「いいか、あいつはな、天才だ」

「天災?」

「天災じゃねぇ、天才だ。俺には昔からわかってたんだが、今日この絵を観て自分の目玉が節穴じゃねぇことにますます確信を持った。俺は天才の私立探偵だが、あいつは天才の芸術家だ。天才の芸術家ってのは、全世界的重要無形文化財みてぇなもんだ。人類の宝なんだぜ。月や火星の裏側覗いたりするよりずっと大事なもんだ。その天才をイジメて泣かせたとあっちゃあ・・・」八百樹は指先で岡鬼の団子鼻をピンッと弾く。「・・・高くつくぜっ」

岡鬼はゴクリと唾を飲み込んだ。

実は、八百樹は岡鬼が翔吾に何を言ったかなどということは全く知らないのだった。まして、翔吾をイジメることはあっても慰めたことなど一度も無い。もし親友だとすれば、たった今、親友ということになったのだろう。ハッタリとでっち上げを使いこなせれば渡る世間は俺のもの、というのが彼の処世術らしい。八百樹の理屈では、引っ掛かる岡鬼が間抜けなのだ。

「じゃ、岡鬼さん、ちょいと向こうへ行って、ビジネスの話をしようぜ」

巨漢の岡鬼も、八百樹に掛かっては顔色無しだ。すっかり相手のペースである。二人が地下蔵を出ると、物問いた気な表情で槍杉は華子の方を見た。だが華子は夫の蛮行には関知せず、絵の前を行ったり来たりしている。紫色のスーツのミニスカートの裾がかすかに揺れ、剥き出しの脚線美が目に眩しい。槍杉は目のやり場に困り、織美を振り返った。織美は頬を赤らめて、1枚の絵の前に佇んでいた。彼女は翔吾の大作を目の当たりにして、今さらながらに感慨に耽っていたのだ。

(凄いなぁ、未野さんって・・・わたし、こんな作品を創る人と一晩中・・・)

彼女が一層上気する頬を両手で覆った時、華子が振り向いて言った。

「わたし、やっぱり、デッサンも欲しいな。翔吾さんが売ってくれれば、だけど」



織美は思わず、「あっ」と一声発し、慌てて口を押さえた。華子は「なに?」と首を傾げる。

「な・な・なんでもないですぅ」

華子は改めて織美をしげしげ観察した。それまで全く眼中に無かったのだ。渋谷のギャラリーのただの従業員、どこにでも居そうな30になったかならないかぐらいのオンナ、背は自分より高いが亜輝子よりは低い、胸は割りとデカイ、卵型の顔に艶のある明るい色のストレートヘア、肌は綺麗だが目鼻立ちはまぁ普通、そして舌っ足らずな喋り方がちょっと馬鹿っぽい、あるいは馬鹿っぽい演出か・・・査定が済むと、彼女は一歩相手に近づき、その目を覗き込んで訊いた。

「山根さん、だったっけ?」

「・・・は・はい、そうですぅ」織美は頬を覆ったまま華子を見つめた。間近に見る華子の美しさに改めて圧倒される。マリアも美人だが華子の美しさは密度が違う。見つめていると吸い込まれて跡形も無く消化されてしまいそうだ。

「あなた、さぁ・・・」と、華子が口を開く。天然真珠みたいな白い歯の間に淡いピンク色の舌が覗く。織美はレズビアンの本能で(美味しそうだなぁ)と思う。

だが、現実はそう甘くなかった。華子は反り返った長い睫毛を微動だにさせずニコリともせずに実弾を放つ。「・・・あなた、何か隠しごとがあるんじゃない?」

(え?)織美の頬から血の気が引いた。無言で首を左右に振る。もともと隠しごとをするのは得意な方じゃない。華子の鋭い目に何もかも見透かされそうだ。首を左右に振っても、華子の視線は逸れなかった。何か、何か言わなければ、ヤバイ・・・

その時、地獄の窯の蓋が開き、恐ろしげな呪文のような音楽が流れ出した。なんだこの不気味なイントロは?と思ったら、レッド・ツェッペリンの『幻惑されて』だ。音は華子のジャケットから聴こえる。彼女の携帯の着メロなのだった。

「・・・はい、華子です。あ、はい、そうですか。いえ、今は闇光園なんだけどね」華子は腕時計をチラリと見て、「じゃ、4時に『Le'z』で」と応えて電話を切った。

「調度良かった、亜輝子さんからだ」そう言いながら鍵を取り出す。「今からチャペル美術館の打ち合わせだから、ここは閉めるよ」

織美と槍杉は後ろ髪を引かれながら地下蔵を出た。

(もう行っちゃうの?また来る?)と24枚の絵が訊いたが、誰にも声は聞こえなかった。

表へ出ると、八百樹と岡鬼がなにやら話し込んでいた。だがカンパと慰謝料の話は終わったらしく、近づいてみると耳に入ったのは参道美紀の話だった。二人はチャペル美術館建設のカンパを募るために人気女優の美紀を利用出来ないかという相談をしていたらしい。華子は呆れ顔で釘を刺した。「八百樹、タヌキの会議はそれぐらいにして、翔吾さんには真面目に話をしてよね。展覧会のこともだけど、わたしが連作を買うこととデッサンを買いたいってことを」

八百樹は振り向いて口髭をモゴモゴさせる。「お前、デッサンも欲しいのか?」

華子はこっくりと頷く。「だって、あれ、わたしのヌードだよ」

「そりゃそうだ」八百樹は顎鬚を撫でて言う。「お前がバアサンになった時のためにはいい貯金かもしれん。若き日の記念だな」

八百樹の言葉に、華子は頭の天辺からナタを振り下ろされたような悲痛な顔になった。八百樹はびっくりして、慌てて彼女を抱きしめる。「じょ・冗談だよ、ハニー、ジョーダンッ!お前がバアサンになるわけねぇだろっ、もしお前がバアサンになるんなら、世界中のオンナがその前にジイサンになっちまってるぜっ」

「わたしはジイサンになる方がいいけどな」華子は顔を上げ、八百樹の分厚い胸板を押し退けた。「とにかく、亜輝子さんから連絡があったから行って来るよ。後は頼むね」

そこで織美がおずおずと訊ねる。「あのぅ、亜輝子さんって、どんな感じの方なんですかぁ?」

華子は真っ黒いジャガーの扉を開けた姿勢で一瞬固まり、織美を振り返ってフフッと笑う。

「背が高くてスマート。クールでタフな建築馬鹿。翔吾さんにとっての女神」

それから人差し指を立てて言った。「・・・あなたは、勝てないよ」



《バレバレ》

「ハックションッ」と亜輝子は大きなくしゃみをした。やれやれ、誰か噂でもしているらしい。

「多加さん、風邪ですか?」と隣のデスクの品川が訊く。「あー、きっとまた飲み過ぎて台所の床でおヘソ出して寝たんでしょう?」

亜輝子はフンッという目付きで部下を見て、「品川君、樺田邸の地盤調査、どうなってるのかしら?」と訊いた。

「あー、地盤調査はですねぇ・・・」品川はメモを捲る。「ハイアース・フィールドの社長が腸捻転で入院して常務が村祭りの準備で忙しくて専務が葬式を4つ掛け持ちになって他の社員がその隙に社員旅行に出掛けて会社がもぬけの空でして、まだ手を付けてませんねぇ」

「なんですって?」亜輝子は髪を掻き上げる。「地盤調査の会社が地盤沈下してどうすんのよっ。まだ手を付けてませんねぇ、なんて呑気なこと言ってないで他を当たりなさいよ。あっという間に冬が来るのよ。真冬に基礎打つのが厄介なのは知ってるでしょ?」

それから彼女は自分のパソコンに向かい、闇光園地下蔵改造計画の企画図面をプリントアウトした。品川はその隣の大崎に目配せして「多加さん、機嫌悪いね」と小声で言い、蛸壺に嵌った猿みたいに情け無い顔で肩をすくめた。

亜輝子はプリントアウトした図面をファイリングして鞄に入れ、打ち合わせに出掛ける準備をした。風邪はひいていないが、なんだか頭痛がする。台所でヘソを出して寝たりはしていないまでも飲み過ぎたのは確かだった。ここ1週間ばかり毎日自分は飲み過ぎていたが、昨夜はそれを上回る酒量だったのだ。二日酔いにならなかったのが我ながら恐ろしい。

彼女は鞄に手帳を3冊入れ、ふと手に触れた免許証を取り出した。黒い皮の免許証入れを開くと、内側に翔吾の写真が入っている。亜輝子はその顔を見つめ、(あーあ)と溜息をつく。こんなにいい男だったのに、なんでイモムシなんかに変身したのか?

しかも、あの変てこな顔のミノタウロスは彼が死んだなんて言うのだ。だが、本人が保証した通り彼はまだ生きている。死んだ人間がご飯を食べたり大音量でショパンを聴くわけがない。彼は生きている。だから、いつか必ず元のいい男に戻れる筈だ・・・何の根拠も無かったが、亜輝子はそう確信した。求めよさらば与えられん、いや違う、信じる者は救われる、だ。

ぼんやり写真を眺めていると、いつの間にか背後に居た目黒祐子がボソッと呟くのが聞こえた。

「・・・凄い美男子ですねぇ・・・でも、どっかで観たような・・・誰でしたっけ、その俳優さん。多加さんの憧れの人ですか?」

実は翔吾の顔は社内未公開だった。亜輝子はプライバシーに立ち入られるのを好まない。「誰でもないの、雑誌の切り抜きよ」と答えて免許証を仕舞おうとしたが、慌てたせいかうっかり手を滑らせて床に落とした。すかさず品川がそれを拾う。

「あ、ホントだ、イケメンだ。誰かに似てますね。こんな感じの俳優が居たような居なかったような・・・」

亜輝子が取り返そうとすると、一瞬早く大崎の手に渡る。「似てる似てる、俳優じゃなくて、女優の参道美紀にそっくりだ」

「参道美紀?」亜輝子は怪訝な顔をする。「誰、それ?」

すると3人のスタッフは互いに顔を見合わせ、それから同時に「えーっ、知らないんですかぁっ、NHK大河ドラマのヒロインをっ!?」と驚きの声を上げた。

亜輝子は肩をすくめ、大崎の手から免許証をひったくって鞄に突っ込む。NHKなんて小学校卒業以来観ていない。そもそも我が家にはテレビが無い。第一その女優が翔吾にそっくりだったからって、だから何だというのだ?

(それに、こいつらが騒ぐイケメンは、あいにく今はイモムシ男なんだから)

彼女は上着を羽織り、車のキイを掴んで事務所を出た。



亜輝子が『Le'z』に華子を訪ねる頃、八百樹は勝沼ぶどうの丘レストランでようやくタヌキ会議を終えた。彼は目論みを実行に移すべく黄色いミニ・クーパーで未野家を目指す。岡鬼と槍杉は東京へ帰り、助手席には織美だけが乗っていた。「せっかく山梨まで来ましたから、未野さんに一言、御挨拶をしたいので」というのが彼女の同行口実だ。八百樹は黙って頷き、余計な詮索は一切しない。野生の勘だけで大学院まで出た彼には、翔吾と織美の関係など木に登ろうとした馬が落ちるぐらいわかりきったことだった。

「誰か、ここへ、来ます」

翔吾に出来立ての服を着せていたゴーショが呟いた。彼の仕立ての腕はなかなかだ。カンヴァスを包むための大きな白い布はベドウィンのマントみたいにカッコ良くなった。頭をすっぽり覆うマスクも悪くない。頭頂から口に掛けてアクセントのように縫い付けられた細長い布のお陰で、その端をわずかに持ち上げるだけで水が飲めたし、胸のところから首周りをぐるりと巡るファスナーでマントと繋がっているため誰かが引き剥がそうとしても簡単には外れないのだった。目の位置に開けられた穴は小さかったが、今度はマスクがずれないので見えにくくなることは無い。翔吾は面白がって目の穴の周りをウルトラマリンブルーで、頭頂から口に掛けての細長い布をライムグリーンで塗った。そうした方が幾らか顔らしく見える。ついでに背中にオレンジ色の唐草模様を描こうとしたが、これはゴーショに止められた。

その時初めて、彼はゴーショの左手の薬指が無くなっているのに気付いた。どうしたのかと問えば、うっかりミシンで縫ってしまい、糸を切る時にハサミで切ってしまったのだと言う。

ゴーショはコットンパンツのポケットに手を突っ込んでゴソゴソやり、切れた薬指を取り出した。

「すぐ付けようと思っていたのですが、仕上げるのに夢中で忘れていました」

彼は淡々と述べ、切り口に「ハーッ」と息を吹き掛けて元の位置にくっ付けた。それから何度か手を閉じたり開いたりして動きを確認する。「・・・治りました」

呆気に取られていた翔吾は、気を取り直して注意した。「ゴーショ、人間は普通、怪我をしたら血が出るんだ」

「血?」

「心臓から体を巡って細胞に酸素を運ぶ大事な体液だよ。これが大量に流れ出ると、死ぬんだ」

「ああ・・・」ゴーショは天井を見上げて考えた。「思い出しました。深紅の液体ですね?戦場で見た覚えがあります」

「戦場?」今度は翔吾が不可解な顔をした。「お前、どっかで参戦してたの?」

ゴーショは首を左右に振る。「私の世界には煩悩が無いので戦争はありません。人間の世界の戦争を見学したことがあるだけです」

「ふーん」

翔吾はもう一度、裾の長さをチェックした。これなら直立歩行に慣れさえすれば人間に見えなくもないな、と思う。

「いずれにしろ、僕の代理で人前に出る時は人間になり切ってくれよ。そうしないと話がややこしくなる一方だからね。体の一部を切ったら血が出る、壁やドアをすり抜けない、空中に浮かない、飲んだり食ったりする、出る物が無くても時々トイレに行く」

ゴーショは頷き、ふと思い出したように訊いた。「トイレにはだいたい何時間毎に行けばいいのですか?」

「何時間毎って・・・」翔吾は頭を掻こうとしたが、手が届かないので絵筆の柄で掻いた。「考えたこともないよ。僕と同じぐらいでいいよ」

「でも、翔吾はアトリエに篭ると半日以上トイレに行きません」

「うーん、それは・・・」翔吾は絵筆を置いた。やっぱり『孫の手』が欲しいな、と思う。「忘れちゃってるだけだ。体には良くないことだ」

その時、表に車の停まる音がした。

「誰が来たのか、見て来ます」ゴーショは言うと、一瞬スッと消えてすぐに元に戻った。「・・・チャコールグレーのスーツを着たがっしりした髭のある男性と茶色いストレートヘアの若い女性です。渋谷のギャラリーに居た人です」

「八百樹と織美か・・・なんで、また」翔吾はどうしようかと考えたがすぐに妙案は浮かばなかった。ゴーショは彼のマスクを外して頭部を両手で挟み、「私が対応してみます。ちょっとそのまま動かないでください」と言ったかと思うと翔吾の口に唇を重ねた。

(え?な・なんだ、何やってるんだ、こいつ)

自分そっくりな相手にキスされるとははなはだ面妖な。その上、舌まで入れやがって・・・いや、入って来たのは舌ではなかった。もっと長くてビリビリ痺れるものだ。それは咽の奥からジワリと大脳中枢・海馬を包み込む。温かな液体に脳ミソが浸され満たされる感じ。なんだかとっても気持ちいい・・・ああ・・・もっと・・・

「終わりました」と、ゴーショは言い、翔吾のマスクを元通りに被せた。「八百樹さんと織美さんに関するデータをあなたの記憶中枢から私の頭へコピーアンドペーストしました。これでとりあえず対応出来ると思います」

翔吾はへなへなと椅子に座り込んだ。「・・・凄ぇ効いた・・・ゴーショ、お前って色んなワザを持ってるんだねぇ」

「他にもあります」ゴーショは閉じた扉をすり抜けようとし、ハッとしてドアのノブを廻した。「今度、あなたの全身を調べてみましょう。もしかしたら何か変身の手掛かりが掴めるかもしれません・・・少し、時間は掛かりますが」

「是非、頼むよ」

玄関の方ではさっきから八百樹が、「おーい、未野っ!俺だっ、居るか!?居るのはわかってるんだぞっ!」と怒鳴っていた。ゴーショは扉を開けてアトリエを出ながら言った。

「でも・・・今みたいに、気持ちいいとは限りませんよ」

翔吾は(あ、そう)と肩をすくめたかったが、イモムシには肩が無かった。それにしても、ゴーショは自分の心を読めるのに自分にはゴーショの心が読めないというのは不公平な話だ。

(・・・あいつ、僕の記憶中枢をコピペしただって?)

彼はにわかに心配になり、アトリエの真ん中でグルグル3回転しながら考えた。幸か不幸か、この家は廊下が南と北に2本あるという妙な間取りだ。北側の廊下からドアを開けるとダイニングキッチンへ出るが、別のドアを開けると南側の廊下へ抜けられる。そして玄関は南側の廊下に面している。翔吾は来客との遭遇を避け、北側の廊下の壁に張り付いて聞き耳を立てた。

ゴーショは玄関の扉を開ける前に、キッチンテーブルに置いてあった帽子を被るのを忘れなかった。例の、長い突起カバーのついた自前の物ではなく、亜輝子に借りた女物の小さな帽子だ。小さいが、短くした角を隠すには充分だ。これを見られてはどんなに顔がそっくりでも怪しいことこの上ない。

「やっぱり居やがったか、勿体つけやがって。俺を待たせるなんざ一万年早いぜっ」ドアを開けると、開口一番の八百樹節が放たれる。ゴーショが何か言おうとするとその前にもう一言飛んで来た。「なんだ、お前、帽子なんか被りやがって」

言うが早いか彼の手はサッと伸びて帽子を取ろうとした。が、一瞬早くゴーショは身をかわした。

「ダメです、八百樹さん、これ取らないでください、私、たいへん困ります」

「ダメです、八百樹さん?」八百樹は怪訝な顔をした。壁で聞いている翔吾は必死に念じる。

(ゴーショ、言葉遣いが違うよっ)

ゴーショはハッとして、言い直した。「止めろよ、八百樹。ちょっと風邪気味で頭が寒いんだ。だからこれ取らないでくれよ」

しかしわざわざ言い直されると余計に変だった。八百樹は首を傾げながら家へ上がる。ゴーショはドアの外で待つ織美に「どうぞ」と声を掛けた。

「ああ、山根さんはお前に一言挨拶してすぐ帰るんだそうだ」と、彼女の代わりに八百樹が説明した。(家には上りにくいんだよ、察してやれよ)と思いながら。

だが、ゴーショに微妙な心理まではわからない。「ヤマネさん・・・山根さんはオリミさん」と呟いてコピペしたデータを確認し、「僕はあなたを知ってる。織美さんは翔吾のお気に入り」と言ってのけたのだから困ったものだ。織美は慌てて周りを見回し、八百樹は廊下で滑って転びそうになった。

ゴーショはニッコリ微笑んで言葉を続ける。「先日はご馳走様でした。あなたの体、凄く、居心地良かった」

(うわっ、バカッ)翔吾は焦ってゴーショに否定信号を送る。もともと自分の頭にあった情報とはいえ、ダイレクトに言われては困る。(違うだろっ!お前、なんてこと言うんだっ)と、念じることに必死になる内に壁から天井へ這い登ってしまった。

「え?違う?」翔吾の心の声をキャッチしたゴーショは困惑した。「僕、今、なんか変なこと言った?」

訊かれた織美も負けないぐらい困惑していた。「い・いいえ、別に、変では・・・こちらこそ、ご馳走様で、たいへんお疲れ様でしたぁ」

「とにかく、入ったら?」

「いいえ、わたしは、ここで・・・お元気そうなのを確認しましたから、帰りますぅ」

「せっかく来たのに、なんでそんなに遠慮するの?」ゴーショは織美の手を取って引っ張る。

「僕の、愛人だから?」

屈託無さ過ぎる彼の言葉に、南側の廊下で今度こそ八百樹がひっくり返ったのと、北側の廊下の天井から翔吾が落ちたのが同時だった。

ただならぬ物音にギョッとしたゴーショは、強引に織美を引き入れて玄関の鍵を掛け、真ん中の壁を素通りして北側の廊下へ飛んだ。「翔吾っ!怪我は無いっ!?」

翔吾は仰向けにひっくり返って目を廻していたが、ゴーショの姿に気付くと慌てて跳ね起きた。「ゴーショ、ダメじゃないかっ、こっちに来ちゃ・・・」

だが、時既に遅し、である。

二人を見る、八百樹と織美の驚く顔が並んだ。彼等はそれぞれ、持てる知識と経験値と当て推量を総動員して目前の光景を理解しようと努めていた。しばし逡巡の末、エンパイアステートビルの天辺からのバンジージャンプを決意したマウンテンゴリラみたいな面持ちで八百樹が口を開く。

「・・・そっちが、本物の、未野、か?」

八百樹が指差したのは、マスクとベドウィン風いでたちに身を包んだ翔吾である。次いで八百樹はゴーショを指差し、訊いた。

「お前はニセモノだな?・・・見た目はそっくりだが、なんか変だと思ったぜ・・・お前、いったい、ナニモノなんだ?」

翔吾とゴーショは顔を見合わせた。いずれバレるにしても早すぎやしないか?と思ったが、どうぜバレるなら早い方がいいとも思える。諦めた翔吾は紹介した。「こいつはゴーショ。僕のゴーストだ」

「ゴースト?」八百樹と織美が同時に裏返った声を出した。「・・・ゴースト、ってのは、なんだ?」八百樹の声が珍しくうわずっている。「ゆ・ゆ・ゆ・幽霊、ってことか?オバ・オバ・オバマ・・・じゃねぇ、オバQみたいなもんか?」

「うーん、ちょっと違うらしいんだけど、実は僕にも良くわからないんだ」翔吾はそう言いながら鉤爪の手を広げた。

「なんだ、それは?」八百樹は鉤爪に気付いて訊ねる。「なんのマジナイだ?」

「え?マジナイ、って、なにが?」

「その、お前が手に持ってる奴だ」

「ああ、これ・・・」翔吾は鉤爪を見る。「・・・これは、僕の、手だ」

「手ぇ?」八百樹が、生まれてこの方出したことも無いような高い声を上げた。それから彼は改めて翔吾を観察し、全身を覆う奇妙ないでたちが芸術家にありがちな奇行の現れではなさそうだという判断に至った。

「・・・未野、お前・・・いったい、どうしたんだ?」

「うん・・・実はね・・・」言い掛けて彼は言葉を切り、キッチンに通じるドアを開けた。「ま、トイレの前で立ち話もなんだから、こっちに座ってよ。ゴーショが美味しいコーヒーを淹れるからさ」



およそ30分後、一部始終を聞いた八百樹と織美はそれでも信じられないという顔でコーヒーのお代わりを注文した。亜輝子は驚くと腹が減ると言ったが、彼等は咽が渇くらしい。ゴーショが2杯目のコーヒーをカップに注ぐと、織美は湯気を見つめて考え込んだ挙句、この際だからと思い切って訊ねた。

「・・・それは・・・わたしと・・・ほぼ24時間の間に7回したのが原因、ってことはないですかぁ?」

7回、と聞いて、八百樹は危うくコーヒーを吹き出し掛けた。(な・なんじゃそりゃあ?こいつは日本のカサノヴァか?)彼は目を丸くして翔吾をしげしげ見たが、相手はマスクの向こうでポーカーフェイスを決め込んでいる。

「まさか・・・それは、関係ないと思うよ」翔吾は鉤爪をカチャカチャ言わせた。「確かに、ちょっと、やり過ぎちゃったけどね」

コホンッと八百樹が咳払いする。「あー、それで、そのミノタだかミノベだか言う奴が原因を調査中ってことだが・・・」彼はコーヒーを飲み干して身を乗り出した。「そいつは、医者か?それとも占い師か?」

「どっちでもない。保険屋だ」

「ふん、保険屋か・・・」八百樹は口髭を撫でた。「なぁ未野、俺が思うに、これは私立探偵の仕事だぜ」




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