いもむし男−第15章


《告白》

「そう?」翔吾は首を傾げる。「私立探偵って、超常現象も扱ってるんだ?」

「俺に解けないナゾは無い」八百樹は厚い胸板を張って断言した。「・・・微分積分は苦手だがな」

「八百樹、数学はナゾじゃないよ。人間が作ったルールだから」

「芸術家のくせに真っ当なことを言うなっ」八百樹は人差し指を立てて指揮棒みたいに振った。「とにかく、だ。俺はお前がイモムシみたいになったのを知って、ああそうですかそれはどうもお気の毒様でしたねぇ、なんておべんちゃらぬかして何事も無かったみてぇに明日からも平然と飯食ったりクソしたりして生きて行けるほど冷酷で恥知らずで無神経な人間じゃねぇんだっ。お前が余計なお世話だ、って断っても俺はこれから全力を挙げてこのナゾを究明する。そして、お前を人間の姿に戻してやるっ」

翔吾は黙って彼を見つめた。

「・・・なんだ、文句あるのか?え?」八百樹は口髭をモゴモゴさせて眉間に深い皺を寄せた。「まさか、お前、イモムシの方がいいなんて言うんじゃねぇだろうな?・・・ったく、芸術家はなに考えてるかわからねぇからな」

「・・・八百樹」翔吾は深く息を吸い込んだ。「・・・嬉しいよ・・・ありがとう」

「バーカ、礼は人間に戻ってから言えっ」

「うん、だけど、もし人間に戻れなくても、今の君の言葉だけで・・・」翔吾は俯いて言葉に詰まった。「・・・僕は・・・僕には友達なんて居ないと思っていたけど・・・こんな、いい友達が居たなんて、わかっただけで・・・」

「言うなっ!それ以上言うと撃つぞっ!」八百樹はピストル型ライターを構える。心なしか顔が赤いが、怒っているわけではなさそうだった。「お前、自分に友達なんて居ないなんて二度と言うなよ。そういう不用意な言葉が人を傷つけるんだぜ。自分ではお前の友達だと信じてる奴が聞いたらどう思うんだ?例えば、ここに居る山根さんが聞いたら、どう思う?彼女はお前の愛人である前に友達だろうが?違うのか?このゴーストだかトーストだかのゴーショだって友達みたいなもんだろ?お前のためにわざわざ違う世界から出張して来てるんだぜ。ちゃんと出張手当払ってるのか?」

「あのう・・・」と、織美が口を挟んだ。「七尾さん、わたし、未野さんの愛人じゃありません。未野さんが心にダメージを受けた隙に付け込んでずうずうしく誘惑しちゃっただけで・・・未野さんは七尾さんがお考えになるよりずっと真面目で誠実な方なんです。悪いのはわたしです。とてもそんな、愛人だなんて、恐れ多いこと・・・」

八百樹は口をポカンと開けてしばし彼女を見つめ、それから翔吾に向かって言った。「おい、お前、いいのか、彼女にこんなこと言わせて」

翔吾は返答に窮した。人間の姿ならいざ知らず、イモムシみたいな顔で愛を語ったところでお笑い種なんじゃないか?と思った。だが織美をそんな気持ちにさせたまま放置することも出来ない。

「・・・僕は・・・母のこともあったけど、あの時織美さんに癒されて、なんだか長年の自分のこだわりが突然吹っ切れちゃって・・・」彼は軽く咳払いをした。「亜輝子には・・・妻には、とても言い訳出来るようなことじゃないから表沙汰には出来ないんだけど・・・だけど、僕は織美さんのことが忘れられない。もしこんな姿でなかったら、今すぐ拉致したいぐらいだ」

彼の言葉に、織美は悲痛な顔を上げた。「いけません、未野さん。わたしなんかにエネルギーを浪費しないでください。言い忘れてましたけど、今日、地下蔵の連作を拝見したんです。もう、死ぬほど素晴らしくて溶けちゃいそうでした。あなたは類稀な才能と情熱の全てを今まで通り創作へ向けて、これからも凄い作品をたくさん・・・」そこまで言って彼女は口を噤み、突然、大粒の涙をポロポロこぼした。それは体が人間に戻ればの話だ。自分は彼になんて残酷な言葉を投げてしまったのだろう?

しかし、翔吾はむしろ嬉しそうに語った。「うん、実は僕も言い忘れてたけど、今、君との経験をテーマに次の作品に取り掛かってるところなんだ」彼は鉤爪の腕を精一杯左右に広げた。「物凄く大きな絵だよ。エネルギーの浪費どころか、織美さんは僕にとって新たなエネルギー源になったんだ。君の体のあの柔らかくて甘くけだるくしっとりと暖かい感じ・・・露骨な話をしてごめんね。だけど、絵を構想するには重要なことだ。君の体があるイメージをもたらした。それを形にすることに僕は今の僕の全てを賭ける。それが、絵画と君への、僕の愛だ」

八百樹はテーブルに頬杖を突き、黙って鼻の穴をプクッと広げた。(こいつはイモムシみたいになってもこういうキザなセリフを吐ける奴なんだな。これも一種の才能かもしれんな。それとも天性の女ったらしか)人間のままなら2発ぐらいぶん殴ってやりたいところだが、と彼は思った。イモムシ相手にはそんな気も起こらない。



織美は顔を覆って泣いていた。ゴーショがタオルとティッシュペーパーを差し出す。彼女が泣くのを見ると翔吾は切なくなったが、なるべく何も考えないように努めた。この体では抱きしめることも出来ない。

「ああ、そうだ、八百樹」頭を切り替えるには現実の塊みたいな奴と話すに限る。「縦5メートル×横15メートルぐらいの絵を描く場所を探しているんだけど、心当たりは無い?」

「縦5メートル×横15メートルぐらいの絵だとぉ?」八百樹は眉間に立て続けに3本の皺を寄せた。「お前、その体で、本当に絵を描くつもりなのか?」

「描くさ。僕はミジンコになったって絵を描く」

「うーむ・・・」八百樹は地下蔵の絵を思い浮かべた。あれだって相当なシロモノだ。まして1枚でそんなドデカイ絵なら超ド級の迫力だ。(俺も観てみたいな)彼は初めてそう思った。

「よし、場所は俺が探してやる・・・おっと、そういやぁ華子があの連作売買の件を気にしてたぞ。本当に売ってくれるのか?ってな」

「売るよ。彼女のお陰で生まれた作品だし。値段は華子さんが決めてくれればいい。売上はチャペル美術館の費用に充てる」

「いや、それは違うな」八百樹は釘を刺した。「チャペル美術館は『Le'z』の事業なんだ。華子がパパさんを説得して2億用意させた。残り1億は銀行借入と寄付金で賄う。お前の売上はお前の絵具代にしろ」

「そうはいかないよ」翔吾も身を乗り出した。「僕の絵を収めるのにおんぶに抱っこってわけにはいかない。そこまでして貰う謂れは無いじゃないか。僕はこの通り貧乏だけど、僅かでも費用を負担しないと気が済まないよ」

「わかってねぇなぁ」八百樹は内ポケットに手を入れて煙草を出そうとしたが、考え直して止めた。この家にはあちこちに翔吾の絵が掛けてあったからだ。「未野、お前は絵描きだろ?絵描きは絵を描くことで世の中に貢献してるんだ。華子やパパさんは事業を行うことで貢献してる。彼等が金を動かすことで色んな職業の人間が仕事を得る。みんな自分の持分で世の中の役に立ってるんだ。だから絵描きは金の心配なんかするな。芸術家に金勘定は似合わん。無理だ。止めとけ」

翔吾は黙った。そもそも美術館の建設など了承するわけがないと思っていた八百樹からの意外な言葉に二の句が継げない。いったい何がどうなってるのか?彼は熱でもあるんじゃないか?

「ああ、それからな、華子がデッサンも全部買いたいって言ってたぞ」

(あ・・・)と、翔吾と織美は顔を見合わせた。織美は涙を拭いた顔で、かすかに笑みを浮かべて目配せした。わたしのことは気にしなくていいんですから・・・

だが翔吾は、「うーん、実は、あのデッサンは、もう僕のものじゃないんだ」と告げた。「彼女にあげたから、彼女から買ってくれない?」と言って、織美を指差す。

「山根さんに、あげた?」八百樹は突然スカッと輪切りにされたサボテンみたいに面食らった顔をした。「100枚を、全部か?」

「うん・・・その・・・」翔吾は鉤爪の動きでささやかな感情表現を試みる。「養育費の足しに、と思ってさ」

八百樹の顎がガクッと下がった。「・・・もう、命中しちまったのか?」

「いや、まだわからない。だけど、なんだかそんな気がするんだ」翔吾は鉤爪をカチャカチャ言わせる。「もし、僕の子供が生まれるのなら、僕はとても嬉しい。織美さんは育てると言ってくれた。だから、デッサンをあげた」

八百樹は頭を抱えた。「・・・そ・そりゃあ、子孫を残したがるのは男の本能だからな・・・それにしても・・・」

彼は隣に腰掛ける織美をちらりと見た。どこからどう見ても普通のオンナだ。悪くは無いが、華子とは比較にならない。彼女にデッサンをタダでくれてやったと知ったら、しかもそれが養育費になるのだとわかったら、華子のプライドは木っ端微塵だ。その光景を想像しただけで背筋が寒くなった。

「わかった」八百樹は人差し指でこめかみをポリポリ掻いた。「この一件は極秘裏に進めよう。俺が山根さんから買って、華子にプレゼントする。華子には未野から買ったことにする。養育費云々の話は絶対に誰にも言うな。いいな?」

「織美さんがそれで良ければ、僕は構わない」翔吾が頷くと、織美も頷いた。本当は1枚だけでも手元に残したかったが、とてもそんなことは言い出せない。

「よし」八百樹は織美に訊く。「幾らだ?」

「そ・そんなぁ・・・」織美は目を丸くした。「わかりませんよぉ」

「相場、ってもんがあるだろが?」

「相場なんて・・・未野さんのデッサンですよぉ、わたしが値段を決められるわけないじゃありませんか。七尾さんが決めて下さい」

「ふん」八百樹は鼻を鳴らした。「じゃあな、1枚50万、全部で5千万でどうだ?」

織美はひえーっという顔をして翔吾に助けを求めた。八百樹も翔吾の顔を見る。もっともマスクのせいで反応は不明だ。

「但し」八百樹は付け加えた。「命中していなかったから、俺は未野に払う、いいな?」

翔吾の鉤爪がテーブルをカンッと叩いた。「ダメだよ、彼女にあげた絵の代金なんだから。織美さんに払ってよ」

八百樹はテーブルに肘を付いて指先で髭を撫でるお得意のポーズを決めて言う。「いいや、それは出来ん。俺の中の正義が許さん」

「君の中の正義・・・って、なんだい?」翔吾はマスクの中で目を瞬かせた。

「なんだい?って訊くな、なんだっていいんだ。とにかくだ、一度に5千万振り込むと贈与税だの使途不明金だの政治献金だのアブク銭だのと言い掛かりを付けられて税金をごっそり取られる危険もあるしな、本当に養育費だと言うなら子供が生まれてから成人するまでの20回払いで毎年250万ずつ振り込む方が安全だ。心配するな、どっちに払うにしても俺は途中で踏み倒したりはしねぇから」

「だけど、そんなことをしたら・・・」翔吾はマスクの中で苦笑した。「なんだか、君が自分の子供の養育費を払っているみたいに思われないかい?変な火種にならなきゃいいけどな」

言われて、八百樹は一瞬表情を硬くした。が、すぐに口の両端を下げて何度か頷いた。「俺のことは心配無用だ。ツラを見りゃ、俺のガキかお前のガキかぐらい誰だって判断は付く・・・じゃ、5千万でいいんだな?」

「八百樹がそれでいいなら」と彼は答えた。「・・・本当に、お金持ちなんだね」

「ふん」と再び八百樹は鼻を鳴らす。「俺が稼いだわけじゃねぇ、ヒイジイサンが稼いだ金をジイサンが転がして増やしたのを親父が投資で膨らませた遺産の一部だ。だが、俺の女房のヌードだ。それぐらいの価値はある」

「そうだね」翔吾は深く同意した。「君はどうやってあんな美人を手に入れたんだい?」

「くだらねぇことを訊くな」八百樹は内ポケットから手帳を取り出し、織美に振込先の口座番号を書かせながら言う。「あいつが俺に惚れたんだ」

「へぇー」

「なんだよ、その、へぇーってのはよ。疑ってるのか?」言いながら、八百樹は織美に住所と電話番号と生年月日と血液型と身長と体重、それにスリーサイズも書かせた。

「疑ってないよ。感心したんだ。でも、なんとなくわかるような気がする・・・あ、そうだ」翔吾はゴーショにアトリエのデスクからワトソンのスケッチブックを持って来るようにと言った。ゴーショは頷いて壁の中に消えた。

「うわっ」と八百樹が目を剥く。「いちいちびっくりさせやがる。あいつはやっぱり人間じゃねぇな」

「だから、ゴーストなんだ、って。壁抜けするなと言ってるのに、忘れっぽいところまで僕に似てるんだからなぁ・・・」

翔吾が溜息をついたところへ、ゴーショがスケッチブックを持って戻って来た。「ああ、これだ、ありがとう」と言ってページを捲る。ワトソンは暖かみのある発色の出る水彩紙である。その1枚をリングから外し、翔吾はテーブルに置いた。

「デッサンを全部手放しちゃったから、代わりにこれをあげるよ。昨日、描いたばかりの、君の絵だ。ゴーショ、鉛筆をくれる?そこの引き出しに4Bが入ってる筈だ」

ゴーショが鉛筆を渡すと、翔吾は鉤爪に器用に挟んで絵にサインした。Shogo Imadano 2009.10.19,to Orimi with Love ・・・書いてから、顔を上げ、「スペル、合ってる?」と訊く。八百樹が(勝手にしやがれ)と言いたげな顔でうんうんと頷くと、彼は絵を織美の方に向けて渡した。「はい、これは非売品だからね」

絵を受け取った織美は、声にならない叫びを上げた。極限まで研ぎ澄まされた感性が一瞬毎に激しく燃え上がるようだった華子のヌードデッサン。それとは全く違う、けだるく緩やかな豊潤の美がそこにあった。それは眠る織美の半身像だった。薔薇色の頬が数分前の体の火照りを物語る。横から覗き込んだ八百樹は、(あれっ?)という顔で絵と織美を見比べた。平凡極まりないとしか見えなかった彼女が、絵の中に捉えられた特徴を認識してから見直すと不思議な魅力を湛えたイイオンナに思えて来る。優しい魔女と言ってもいい。

(うーむ)彼は口髭を捻った。



《不可予知性-1》

呆然とし、困惑しながら、織美はフラフラと未野家を後にした。

(わたしはやっぱり、とんでもない人にとんでもないことをしてしまったんだ)貰ったスケッチを挟んだポートフォリオが手の中で熱い。駅までの道を踏む足も宙に浮いている感じだ。もし、自分が金曜の夜、未野さんに裸で添い寝したりしなければ・・・彼は床で寝ると言っていたのだし・・・あんな風に大胆に誘惑しなければ、こんなことにはならなかったのだ。レズビアンのくせに男である彼と最高の夜を過ごし、養育費として(分割払いだけれど)5千万貰い、「with Love」とサインした出来立てのスケッチを受け取り、自分をテーマにした作品を創作中と告げられて、もう人生の運の全てを使い果たしたに違いない、と彼女は考えた。長い間憧れていた人に愛されるという、本来喜び以外のなにものでもない筈のことが現実になってみるとこんなにも恐ろしい・・・相手が相手だけに。

(どうしよう?こんな時、お母さんならなんて言うだろう?)

彼女が思い浮かべた母親は村神春子だった。呼び出され、頭の中に現れた春子は言った。

「人生は、不可予知性と不可逆性から成り立っているのよ。何が起こるか予知出来ないし、起こってしまったことは元には戻らないの。やっちまったことを後悔しても始まらないわ。前に進むしかないのよ」

(そうね・・・)織美は微笑んだ。(未野さんとわたしの、この道はどこへ続いているのかわからないけど、とにかく恐れずに歩いて行ってみよう)それしかない、と彼女は道路を踏みしめた。



織美が帰った後、八百樹は思い出したように岡鬼の申し出を翔吾に伝えた。連作展とデッサン展の件だ。難色を示すと思いきや、翔吾は「いいよ」とあっさり了承した。

「僕は、今は岡鬼さんのことはなんとも思って無い。それにどっちの絵も、もう、君と華子さんのものだから、扱いは君達が決めていいよ」

八百樹は眉間に皺を寄せ、12桁の掛け算を暗算で解こうとするタラバガニみたいに難しい顔をした。あの連作を描くために無理を重ね、もしかしたらそれが原因でイモムシになったのかもしれないというのに、こいつはなぜこうも平然と「いいよ」なんて言えるんだ?(やっぱりどっかの回路がぶち切れてるのかもしれんな)

「・・・ま、お前がそう言うならそうさせて貰うが」八百樹はゆっくり席を立った。「じゃ、俺は俺の仕事に取り掛かるとしよう」

彼は翔吾の傍へ行き、いつもより3割り増しぐらい鋭い目付きになって言った。

「俺は今からお前の変身原因を調査する。手始めに詳細な現状把握が必要だ。着てるものを、全部、脱げ」

翔吾はゴーショと顔を見合わせた。「・・・見るのか?」

「見なきゃ話にならんだろう?」八百樹は当たり前だろというように手を広げる。「心配するな。俺は首の無くなった奴も首だけになった奴も口から顔が裏返った奴も見たことがある。イモムシ男ぐらいどうってことない」

翔吾は少し躊躇したが、決意してゴーショに着衣を外すように促した。ゴーショは気乗りのしない表情でマスクとベドウィン風衣服を繋ぐファスナーを外す。翔吾は八百樹の前に立ち、身を硬くしていた。ゴーショがゆっくり、マスクを取る。

「う・・・」という声を、八百樹は飲み込んだ。

次いで、ゴーショの手は、ベドウィン風衣服を取った。

「わ・・・」という叫びを、八百樹は奥歯の奥に噛み殺した。彼は頭の天辺の毛穴から足の親指の爪の先までに力を入れて神経を集中させ、平静を装った。そうしなければびっくりした勢いで老朽化著しいこの家に壊滅的打撃を与えたに違いない。

(・・・なんてこった・・・これが、あの、未野か)

八百樹は深呼吸をして、改めて目の前の相手をしげしげ見た。それから、口を開いた。

「着てたのは、それだけか?」

「・・・そうだよ」

「下着は?」

翔吾は首を傾ける。「この体で、どうやってパンツを履くんだい?」

八百樹はずらりと並んだ6対の吸盤に目をやった。「・・・そりゃそうだな」そして一番端でとぐろを巻く尻尾に目を留める。

「これは何だ?」

「それは、ナニだ」

「ナニ?」八百樹はしゃがみ込んで尻尾を観察する。「ナニ、ってのは、ナニか?」

翔吾が頷くと、何を思ったのか八百樹はとぐろに指を突っ込んで尻尾を伸ばそうとした。「きゃっ」と悲鳴を上げて、翔吾は後ろに跳び退った。「バカッ、触るなっ!」

「おっ、悪ぃな、痛かったか?」

「痛くはないけど・・・びっくりしたんだ。敏感なところだから」

「そうか・・・」八百樹は口髭を捻る。「なんかよ、くるっと丸まっててカワイイなと思ったもんで、つい、な」

翔吾は絶句した。(なに考えてるんだ、こいつ)だが、もう遅い。八百樹は上着のポケットから小さなデジタルカメラを取り出し、「調査のためだ、我慢しろ」と言いながら撮影を始めた。

「迷い猫を探す時もな、猫の写真が無いと話にならねぇんだ。俺が幾ら的確な言語センスを駆使して描写しても、百聞は一見に如かず、だからな。情報収集は元データから、だ」

「僕は猫じゃないけどな」翔吾は渋々ながらも耐えた。「個人情報の漏洩にはくれぐれも注意してくれよ」

「任せとけって」八百樹は翔吾の全身をくまなく撮影し終えると、今度はゴーショに向かって「お前も、脱げ」と命令した。

「私も?なぜですか?」ゴーショはいかにも嫌そうに顔をしかめた。

「お前、未野とそっくりなんだろ?変身前はこうだった、ってぇデータの代わりになるからな」

ゴーショは諦めて首を振り、手早く服を脱いだ。素っ裸になった彼を見て、翔吾は八百樹に釘を刺す。「そっちは、触るなよ」

八百樹は肩をすくめ、「俺にはわからねぇが、こいつは変身前のお前にすみずみまでそっくりか?」と訊いた。

「おそらくはね」翔吾はゴーショを見つめた。自分の体のことなどすみずみまで覚えていはしない。似てはいるがゴーショはゴーショだろう。

八百樹はゴーショの背後に廻り、カメラのシャッターを切りながら言う。「どうも、微妙に違うようだな。未野は左のふくらはぎに傷痕があったよな?」

「そうだっけ?」翔吾は首を傾げる。「僕が覚えてないのに良く覚えてるな」

「確か、この辺だった」と、八百樹は顔を近づける。「俺んちの犬が噛み付いた痕だから覚えてるんだ。俺があいつをぶちのめさなかったらお前の足が1本無くなるところだった」

「・・・ああ、そういえば、そんなこともあったな。デカイ犬だったね」

「ヘビー級のシェパードだ。だが、時々、飼い主を無視しやがった。親父がミース・ファン・デル・ローエなんてご大層な名前を付けたからだ」

と、やにわにゴーショが八百樹を指差して言った。

「あなたも、脱ぎなさい」

八百樹はギョッとした顔でゴーショを睨む。「なんだとぉ?なんで俺が・・・」

だがゴーショは引かない。「翔吾も私も裸になった。あなたも脱がなければ不公平です」

八百樹が口髭をモゴモゴさせていると、ゴーショは微笑を浮かべて続けた。「良いことを思い付きました。調査のためのデータが必要なら、裸になったついでに今から私が翔吾の体の中を調べます。八百樹さんにも手伝って欲しい。そのためにも服を脱いでください」

「体の中を調べるってぇのは、どうやるんだ?」

「私が翔吾の口から私の『気』を体の中へ入れ、すみずみまで潜って診ます。たぶん30分ぐらい掛かります。苦しくて暴れるかもしれないから、八百樹さんに彼を押さえていて欲しいのです」

「こいつを押さえるのに、なんで俺まで脱がなけりゃならねぇんだ?」

ゴーショは肩をすくめた。「汗だくになるからです。家へ帰るのに、着る服が無くなりますよ」

「ふん」八百樹は鼻を鳴らしてポケットに手を突っ込み、檻の中の熊みたいにウロウロした。「で、どこでやるんだ?まさか、台所のまな板の上ってわけじゃねぇだろうな?」

「翔吾の寝室がいいでしょう。鍵も掛かりますから」

(やれやれ、なんてこった)八百樹は二人の後をついて行きながら頭をボリボリ掻いた。

(華子には絶対見せられねぇ光景だな)

「じゃ、翔吾はベッドに仰向けになって」ゴーショは医者のような口調で指示をする。仕立て屋になったり医者になったり忙しいことだ。「八百樹さん、さっさと服を脱いでください」

「わかったよ、脱げばいいんだろ、脱げば。うるせぇ奴だ」八百樹はブツブツ言いながらスーツを脱ぎ、ネクタイを外してシャツを脱ぎ、靴下と下着を脱いでサイドチェアにキチンと畳んで置いた。「どうだ、文句あるかっ」

翔吾はクスッと笑い、「素敵なボディだね八百樹、猛獣みたいに美しい筋肉だ。華子さんが夢中になるだけのことはある。君も今度、デッサンモデルをやってくれないか?」と訊いた。

八百樹は口をあんぐり空けて真っ赤になった。「じょ・冗談じゃねぇ、誰がお前のために脱ぐかっ!俺の体は俺のもんだっ!」

「誰がお前のために、って、今、僕のために一肌脱いでくれてるじゃないか」

「う・うるせぇっ!さっさと始めろっ!」

ゴーショは咳払いして翔吾の上に腹ばいになった。「八百樹さんは私の上に覆い被さってください。私を挟んで、翔吾を抱える。手が届きますか?」

「お前が細っこいから届くことは届くが・・・俺が乗ると重いぞ、いいのか?」

「大丈夫です。しっかり抱えて・・・彼が暴れても絶対に手を放さないでください」

ゴーショの指図通り、八百樹は二人の上に圧し掛かった。

「お・・・重いーっ」と翔吾が唸る。「・・・まるで、ハクサイになった気分だ」

「俺は漬物石か?文句言うな。重みで潰れて人間に戻るかもしれんぞ」

「じゃ、始めます・・・」

「ちょっと待て」八百樹がゴーショの後頭部を顎で突付いて訊いた。「もし、途中で俺が手を放したら、どうなるんだ?」

ゴーショは振り向いて彼の目を見つめ、表情も無く言った。「私が翔吾の体の中に『気』を残したまま、真っ二つに裂けます」

「そうか」八百樹は頷いた。「そいつぁ、責任重大だな」

八百樹は手を伸ばしてゴーショ越しに翔吾の背中に腕を廻した。だが滑らかな皮膚はツルツルして掴み所が無い。ゴーショの肩越しに見ていると、のっぺらぼうの翔吾の顔らしきところの口と思しき場所にゴーショが口を合わせた。そこが口だと良くわかるもんだと感心する内に、早くも翔吾の体がのたうち始める。

(おっとっ!)八百樹は危うく跳ね飛ばされそうになった。どうも人間だった頃とは勝手が違うようだ。考えてみればイモムシは全身が筋肉の塊みたいなもんだ。力があるのは当たり前かもしれない。それにしても・・・

(これは、ヤバイ)気がつけば彼は滝のような汗を掻いて二人を押さえていた。ツルツルした皮膚の上で汗に濡れた手が滑る。(くそっ!)と、背中に廻した手と手をしっかり組み合わせ、ゴーショの肩に顎を食い込ませ、両足で二人を羽交い絞めにした。翔吾はかなり苦しいらしく、体は勝手にジタバタと暴れ、ゴーショと八百樹を乗せたままベッドの上で跳ね上がる。これじゃまるでロデオだ、と八百樹は思った。振り落とされないようにしがみ付くのが精一杯だ。

どれぐらいそうしていたのだろう。さすがの八百樹も辛抱強く咀嚼されたスルメみたいにクタクタになりかかった頃、「ううっ」という、低い唸り声が耳に届いた。

「おいっ、未野っ、大丈夫かっ?もう少しだ、頑張れよっ!」もう少しかどうかはわからなかったが、とりあえずそう声を掛けた八百樹は目を瞬かせた。のっぺらぼうのイモムシ顔の下に薄っすらと、元の翔吾の苦しげな顔が透けて見えた気がしたからだ。

(あれ?今のは・・・)

もう一度確認しようと首を伸ばした時、足をグイッと押し退けて何かが動く気配がした。なんだなんだ?と首を捻って振り向けば、そこにはとぐろを伸ばした尻尾が、まるで獲物を探し求めるヘビみたいに先端を前後左右に振っている。やがてそれは照準を合わせるように八百樹を捉え、ピタリと動きを止めた。

(・・・あ、バカ、やめろっ!)

殺気を感じて思わず顔を背けた瞬間、尻尾はオレンジ色の液体を水鉄砲みたいに噴射した。と、思う間もなく翔吾の全身からぐったりと力が抜け、『気』を引き上げたゴーショが顔を上げた。

「・・・や・・・やりやがったなっ」

八百樹はオレンジ色の液体を拭いながら身を起こした。確かに素っ裸になったのは正解だった。



《不可予知性-2》

ゴーショに指示されるまでもなく、八百樹はすぐに風呂場でシャワーを浴びた。ペパーミントグリーンの液体と異なるオレンジ色のそれはどうやら毒であるらしい。彼は次第に痺れ始める皮膚を石鹸でゴシゴシと洗い流し、ついでに頭も洗ってさっぱりしてから湯船に浸かった。

「うーむ、ひでぇ目に遭ったぜ」

八百樹は欠伸しながら伸びをした。まさか尻尾の先から毒を噴射されるとは思わなかった。毒を出すということは、あの尻尾は単純にナニの代わりというだけのものでもなさそうだ。いったいどういう体になっているのか?などと考えてみたところで、そもそも生物の授業は寝てばかりいた自分に見当の付くわけもない。

(それに引き換え、未野は生き物を観察するのが好きだったな)

いや、生き物だけじゃなかった、死んでるのも熱心に観察してたな、と八百樹は思い出す。通学路で車に轢かれた猫など見つけようものならそのままそこに何時間でも釘付けになっていた。何をしてるのかと思ったら、ノートに死骸を描いていた。気持ち悪くないのか?と訊けば、気持ち悪いがそれより興味深い、と言う。何が興味深いのかとさらに訊くと、普通は体の中にあって見えないものを見ることが出来る、見慣れない造形は興味深い、学ぶべき点が多いと答えた。そう言いながらぶち撒かれた猫の内臓やら飛び出た目玉や脳ミソを克明にスケッチし、描き終えると必ずそこらの棒切れで死骸をひっくり返した。裏も見たいからだ。そしてひっくり返した先に蠢く虫の群れを発見すると、いつも決まって「あ、ごめんね」と謝った。

八百樹は熱い湯で顔を洗い、「あーっ」と溜息をつく。

ある時彼に「なんで虫になんか謝るんだ?」と訊いてみたことがあった。すると「仕事の邪魔をしちゃったから」と答えた。彼に言わせると、地球を動かしているのは人類ではなく虫や微生物なのだ。その話はそれ以上追求しなかった。生物の授業で居眠りする中学生が理解するには、あまりにミクロでマクロな世界観だったからだ。

「七尾さん・・・八百樹さん、バスタオルをここに置きますね」という声と同時に洗面脱衣室の扉が開き、擦りガラス越しに人影が見えた。八百樹はギョッとして「あ、はい、すみませんっ」と慌てて返事した。人影は亜輝子だったからだ。

風呂から出ると、キッチンからいい香りが漂って来た。時計を見ればすでに9時を廻っている。急いで帰らねば、と暇を告げるつもりでドアを開けた途端に腹の虫が大声で歌い始めた。テーブルに料理を並べる亜輝子が微笑んで椅子を示した。

「今日はお疲れ様でした。たいしたものは無いけど、宜しかったら食事して行ってくださいね」

八百樹は口髭をモゴモゴさせた。が、躊躇するなと言わんばかりに立て続けに腹の虫が騒ぐ。

「ゴーショから聞きました。翔吾のために、一肌脱いでくださったそうで・・・」亜輝子はテーブルに視線を落とした。「・・・彼を、ご覧になったんですね?」

「見ました」八百樹はネクタイを直しながら椅子に腰掛けた。「だが、亜輝子さん、俺が一肌脱ぐのはこれからだぜ」

二人が食事を始めてしばらくすると、紙切れを手にしたゴーショが現れた。彼は先ほどの奮闘の跡は露ほども残さぬ涼しい顔で一礼し、「翔吾は眠りました。おそらく明日の昼過ぎまで起きないでしょう」と天気予報士みたいな口調で告げた。

「あいつは大丈夫なのか?かなり苦しそうだったが」フォークで押さえたチキンソテーをナイフでグサグサ切りながら八百樹が問う。

「大丈夫です、ケアしました」ゴーショは彼のぞんざいな手付きを珍しいものでも見るように眺めた。「苦しがっていたのは、翔吾の中に居る何かが私の侵入に抵抗したからです。八百樹さんに毒を掛けたのもそれの仕業です。翔吾に他意はありません」

「あいつに悪気は無いことぐらいわかってら」八百樹は大口を開き、刻んだのか刻んでないのか判然としない気の毒なチキンをパクリと食べた。「それで、その、何かってのは、なんだったんだ?」

「わかりません。ただ、これが見えました」ゴーショは言って、文字のような物が描かれた紙切れをテーブルに置いた。

紙切れにはアルファベットの「I」のような文字が、青い絵具で描かれていた。八百樹はそれを手に取り、しばしじっと見つめ、口髭をモゴモゴさせる。なにか思案しているのかと思えば、単にチキンを咀嚼しているのだった。彼はそれを飲み込むと、睨むようにゴーショに訊いた。

「こいつは、どこに見えたんだ?」

「翔吾の心臓です」ゴーショは自分の胸を指差した。「それが邪魔して、どうしても心臓の中まで入ることが出来ませんでした。『結界』を形成しているようです」

「『結界』だと?」八百樹は眉間に皺を寄せる。「『結界』ってのは普通、魔物を寄せ付けねぇためにあるもんで、魔物が立て篭もるための砦じゃねぇだろう?それとも、そこに入れんお前の方が魔物なのか?」

問われたゴーショは珍しく表情を硬くした。「・・・私?私は・・・ただの、しがないゴーストです。魔物では無いと思いますが」

「おいおい、無いと思いますが、なんてあいまいな答弁じゃ国会の審議は通らねぇぞ」そう言いながら、八百樹は何気なく目の前のグラスに手を伸ばし、グッと一口飲み込んでゲホゲホとむせた。「あ・あ・亜輝子さん、これ、酒だぜ」

「アラモ園の白ワインよ。後味がさっぱりしてお薦めなんだけど・・・お口に合いません?やっぱりチキンには赤かしら」亜輝子はゴーショに、「じゃ、赤も出して」と頼んだ。ゴーショは冷蔵庫の野菜庫から3種類の赤ワインを引っ張り出してテーブルに並べた。亜輝子は中から1本選び、オープナーで手際良く栓を抜く。

「はい、どうぞ」グラスに注がれた赤ワインがゆらゆら揺れた。

八百樹は時計を見て、傍らに立つゴーショを見て、それからもう一度ワイングラスを見た。「・・・いつも、お宅では野菜庫にワインを常備してる、ということかな?・・・未野が飲んべぇだとは知らなかったな」

「彼は・・・酒は弱くは無いけれどあまり飲みません。その代わり良く食べます。飲んべぇは、私ですわ」亜輝子は白ワインを飲み干し、赤ワインを自分で注いで半分飲んだ。「・・・特に最近は立て続けに色々あって・・・飲まないと、やってられませんの」

「なるほど」八百樹も白ワインを飲み干し、注がれた赤ワインに口を付けた。「じゃ、今日は俺が付き合いましょう」

八百樹の言葉に亜輝子は少し赤くなって俯いた。そんな彼女の様子に八百樹の厚い胸が痛んだ。無理も無い、亭主が外泊した挙句にイモムシになったんじゃ女房としてはたまらない。平静を装って仕事に出掛けるのもそうしないと正気を保てないからに違いない。幾ら気丈に見えても女性はキングコングではない。エンパイアステートビルに登ったりはしないのだ。

「それで・・・」八百樹はパンをちぎり、野菜を串刺しにし、豪快な手付きで料理を平らげながらゴーショに訊いた。「この文字みたいなのの他には、特に異変は無かったのか?」

ゴーショは有能な執事みたいに突っ立ったまま頷いた。「見当たりません。形は変化していますが、細胞の中のDNAは翔吾のものでした」

「じゃあやっぱり、この『結界』の中に立て篭もってる奴が一番怪しいってことだな」

「おそらく・・・」ゴーショは悲しげな表情になって足元を見た。「でも、私はそこへ入れません。ですから、それ以上のことはわからないし、これ以上何も出来ません」

「まぁ、ここへ座れよ」八百樹は隣の椅子を引いた。「お前は充分頑張ったじゃねぇか。これだけわかれば大沢山だ。後は俺の仕事だぜ。ま、気を楽にして一杯やんな」

「・・・はい」ゴーショはうな垂れたままグラスを受け取り、注がれたワインを一気に飲み干した。

「おっ、結構、イケルじゃないか」

「・・・はい・・・初めて飲みましたが、意外と美味しいですね」

その日は珍しく亜輝子が誰よりも先に酔い潰れた。酒豪の八百樹に加え、ゴーストのゴーショは全く酔わなかったからだ。八百樹はゴーショに手を貸して彼女を2階の寝室へ運び、カーテンを引きながら言った。「服を脱がせて楽にしてやれ。それから体を横に向けて寝かせるんだ。もともと相当強いようだから大丈夫とは思うが・・・それからな」

そこで声をひそめて付け加えた。「今晩は、お前が添い寝してやれよ。素肌を触れ合わせてな」

「私が、ですか?」ゴーショは自分の鼻の頭を指差した。「でも、私はしがないゴーストですから」

「しがなくってもスキンシップぐらい出来るだろう?お前は未野そっくりなんだから、ピンチヒッターとしては誰より適役じゃねぇか」

「しかし・・・」ゴーショは首を左右に振る。「私は人間じゃありませんから、どうしたらいいのかわかりません。八百樹さんが添い寝してください」

「バカヤロウッ、そんなことしたら俺が華子に殺されるじゃねぇかっ」言ってから、八百樹は自分でシーッと人差し指を立てた。「とにかくお前がやれ。やれったって何もしなくていい。ただ優しい気持ちで添い寝して寝顔を見守るんだ。優しい気持ちぐらいわかるだろう?精神的ダメージを受けた彼女を労わる気持ちがあればそれで充分だ、お前にも出来る。俺は下で少し酔いを醒ましてから帰るからな。じゃ、頼むぞ」

八百樹はそう言い置いてドアを閉めた。残されたゴーショはしばらく考えてからベッドに横たわる亜輝子の服を脱がせ、自分も裸になって彼女の隣に横になった。それから翔吾に言われた「血」のことを思い浮かべた。細胞に酸素を運ぶ重要な深紅の液体。これが酸素を運ぶから細胞がエネルギーを燃やすことが出来る。エネルギーが燃えるから体温が作られる。自分には「血」が無いから体温が無いのだ。ゴーショは一生懸命「血」をイメージした。すると次第に彼の体に赤味が差し、体温が生まれた。ちょうどその時、亜輝子が寝返りを打って薄目を開けた。

「・・・翔吾・・・?」彼女は呟き、甘えるようにゴーショの腕の中に身を預けた。「・・・抱いて・・・」

ゴーショは少し躊躇った後、亜輝子の頬に手を添え、そっと唇を重ねた。実は、何をどうしたらいいのか彼にはわかっていた。翔吾の記憶中枢からコピーアンドペーストしたデータがあったからだ。煩悩の無いゴーストには性欲も無いが、「血」を作り出した今となっては真似事ぐらいは出来る。それで彼女が癒されるなら・・・ゴーショは率直にそう考えて納得し、ありったけの奉仕精神を込めて、亜輝子を抱いた。



翌日の昼過ぎ、翔吾が目覚めると家には誰も居なかった。

「ゴーショ!」と呼んだが返事も無ければ現れる気配も無い。変だなと思いながら適当に食事の支度をした。キッチンは綺麗に片付いていたが、ふとカウンターの下を見ると空のワインボトルが7本並んでいる。それを見てしばらく考え、それからトーストにバターを塗りチーズを乗せてコーヒーを淹れた。

壁の時計が2時を知らせ、ハッと我に返る。彼は鉤爪にコーヒーカップを持ったまま、1時間以上ボーッとしてたのだった。亜輝子は仕事に出掛けたに違いなかったが、ゴーショはどこへ行ったのか?昨日、あの後、何かあったのか?まさか、出張手当を出さないからとヘソを曲げて、あちらの世界へ帰ったんじゃ・・・

その時、玄関ドアの鍵の開く音が聞こえ、大きな紙袋を幾つも抱えたゴーショが部屋に入って来た。翔吾は心底ホッとしたが、と同時に首を傾げる。「・・・ゴーショ、お前・・・買い物に行ってたの?」

「はい、電車に乗って、ちょっと甲府まで遠征していて遅くなりました」ゴーショは紙袋を床に置き、翔吾のジャケットを脱いで椅子の背に掛けた。「お食事は、済みましたか?」

「うん、だいたいね」翔吾は紙袋の中を覗き込む。「何を買って来たんだい?」

「色々です」ゴーショはその内の一つからラッピングされた花束を取り出した。白いバラと淡いピンクのスイトピーにトルコキキョウ、それに真っ赤なガーベラとマーガレットまで混じった賑やかな花束だ。彼はそれをテーブルに置いて花瓶を探しに行った。だがこの家には仏壇用以外の花瓶が無かった。やむを得ず、アトリエから筆の洗い桶を持って来る。

「これを、使っても構いませんか?」翔吾が頷くと、彼は洗い桶に色とりどりの花を活け、テーブルの真ん中に飾った。

「綺麗でしょう?」と、ゴーショは悦に入って微笑む。その様子をしばらく見つめていた翔吾は、突然、それに気付いた。 「・・・ゴーショ、頭の角はどうしたんだっ!?」




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