いもむし男−第16章


《不可逆性-1》

何か変だと思ったら頭の天辺の突起が無くなっていたのだ。だから帽子も被らずに外から帰って来れた。いやそれだけじゃない、なんだか血色も良くなって昨日よりずっと人間らしい。これなら電車に乗って甲府まで買い物に行っても不思議は無い。

「実は・・・」翔吾に問われて、ゴーショはポリポリと頭を掻いた。「昨日、『禁』を犯しました。それで角を外されました」

「『禁』?・・・『禁』って、何をしたんだい?」

ゴーショは言い辛そうに後ろを向いた。「私は・・・うっかり忘れていたんです。私の世界には幾つか決まり事があって、例えば・・・人間と交わってはいけない、とか」

翔吾は唸った。「・・・それは・・・僕の体に、『気』を入れたこと?」

ゴーショはゆっくり首を左右に振った。「違います・・・実は」彼はこちらを向いて俯いた。「私は昨夜・・・亜輝子さんと交わりました。人間が行うのと同じように」

(なっ・・・)翔吾は背もたれにめり込むぐらい仰け反った。驚いて声も出なかった。まさか、こんなことになるとは、予想出来たような出来なかったような、町内最下位の弱小チームに9回裏の逆転満塁ホームランを放たれたようなショックである。

「亜輝子さんは、あなたがこのようなことになったので精神的に参っていたのです。それで昨夜は泥酔して、八百樹さんが心配して私に面倒を見るようにと言いました。初めは添い寝するだけのつもりだったのですが・・・亜輝子さんの望むことがわかりましたので・・・あなたからいただいたデータを参考に、チャレンジしました」

ゴーショは椅子に腰掛けた。どうやら少し疲れているらしい。溜息をつき、紙袋から『バリの昼』のチョココロネを取り出してテーブルに並べ、そのひとつを口に運んだ。

「途中で亜輝子さんは完全に目を覚まし、あなたではなく私だと気付きました。でも、今だけあなたになり切ってくれと言われたので、そのまま、フィニッシュまで・・・ですから、私はあなたの代理で彼女と交わったに過ぎません。ただ、そのために罰として角を外されました」

翔吾はチョココロネを食べるゴーショを訝しげに見て、それから自分もそれを手に取った。甘い物は苦手だが、『バリの昼』のチョココロネはパン生地が香ばしくて美味いのだ。何を考えたらいいのかわからなくなった時は、とりあえず物を食うに限る。「・・・それで、角を外されたお前は、これからどうなるんだ?」

ゴーショは、角のあった辺りを撫で擦った。「あれが無いと、元の世界に帰れません。つまり、追放されました」

「追放されたっ!?」翔吾の鉤爪から、チョココロネがポロリと落ちた。「じゃ、じゃ、お前は、それで、つまり、いったい、どうなっちまうんだい?」

「さぁ・・・?」

「さぁ、って・・・」鉤爪をテーブルに力無く下ろすと、ゴトッという生き物らしからぬ音がした。

「身近に追放された者の前例が無いのでわからないのです。わかっているのは元の世界に戻れないということだけです。自覚症状としては」ゴーショはチョココロネをもう一つ口に運んだ。「腹が減ります」

「ゴーショ、もしかして・・・」翔吾は恐る恐る考えを口にした。「お前、人間になったんじゃないか?」

「まさか」ゴーショは肩をすくめる。「ゴーストが人間になったりしたらたいへんですよ。私はあなたのゴーストなんですから、もし私が人間になったらあなたが二人居ることになってしまいます。宇宙の摂理に反します」

「だけど・・・」翔吾は落としたチョココロネを拾い上げてじっと見つめた。「だけど、それなら、僕は人間なんだろうか?」

ゴーショは真剣な目付きで翔吾を見た。真剣な目付きになると、どこか悲しげな表情になる。それは自分の顔だ、と翔吾は思った。角も無くなり血色も良くなった彼は、どこからどう見ても自分だった。イモムシになった自分よりどこからどう見ても人間らしかった。

「人間とゴーストの決定的な違いは、何だと思いますか?」と、ゴーショは訊いた。

翔吾が首を傾げていると、彼は言った。「それは、煩悩があるか否か、です」



ゴーショはチョコレートの付いた手を洗い、キッチンに立って二人分のコーヒーを淹れた。それをカップに注ぎ、椅子に戻って一つを翔吾の前に置く。昨日まで飲まず食わずだったゴーショが飲んだり食ったりするのを見るのは奇異だった。今の彼を見て、いったい誰がゴーストだと思うだろう?

「私には煩悩がありません」ゴーショはコーヒーを啜りながら説明する。「誰かを愛したり、憎んだり、欲望に身を焦がしたり、さまざまなことに思い悩んで苦しむことも無い。だから、あなたのように、絵を描くことが出来ません。私の居た世界には、戦争はありませんが、芸術も無いのです」

それから、彼はテーブルに飾った花を見た。「この花は美しい、それはわかります。この花を誰かに贈りたいと思った。これは私がここ数日で学習した感情です。私はあなたを手助けしたいと思い、ここへ来ました。最初はあなたの命を救うために、命のある絵を描くのを止めに来ましたが・・・忠告を無視するあなたを見る内に、何がそうまであなたを駆り立てるのかたいへん興味が沸きました。あなたのやろうとしていることを見届けたいのです。そういう意味では、あちらに帰れなくなったというのもそれほど問題ではありません。もともと、執着するものも執着という煩悩も無いのですから」

キッチンの窓の向こうを、一羽の鳥が啼きながら飛んで行った。ゴーショはそれを目で追い、もう一度翔吾を見つめた。

「昨日、体を調べて、あなたの心臓に何かが入り込んでいることがわかりました。おそらくそのせいで、イモムシみたいな体になってしまったのです。でも、あなたはどんな姿になっても人間です。だから芸術を生み出せる。私には出来ません。ゴーストですから」

ゴーショは身を屈めて紙袋から帽子と手袋を取り出した。そして他の袋からリボンのついた包みを取り出しテーブルに置いた。リボンのついた包みは3つあった。彼は包みの皺を丁寧に伸ばし、リボンの形を整えてそれらを並べる。

「・・・これは、なんだい?」

翔吾の不審な表情に、ゴーショは上目遣いになって言い訳するように言った。「これも、さっき言った、ここ数日で学習した感情の表れです・・・亜輝子さんへの、プレゼントです」

「プレゼント・・・」

「昨夜、亜輝子さんと接触している時に、彼女の心がどっと流れ込んで来ました」ゴーショは目を伏せた。「彼女はあなたのことで心を痛め、疲れ切っています。だけど私はあなたを責めません。あなたはあなたでたいへんな思いをして耐えていらっしゃるから・・・だから、せめて、あなたの代わりに、私が彼女を慰めるのを許してください」

テーブルの上で、翔吾の鉤爪がカタカタと音を立てた。頭を冷やして何かを考えるべきなのはわかっていたが、どうしても考えることが出来なかった。彼は深く息を吸い込み、低い声で訊いた。「・・・お前、亜輝子を好きになったのか?」

ゴーショは目を上げた。「好き、というのは良くわかりません。ただ、痛んだ心を知ると癒さずにはいられない、それが私という存在です」

「・・・そうか」翔吾はもう一度息を吸い込んだ。「・・・わかった、出て行け」

ゴーショは顔をこわばらせた。激しい怒りの感情が自分に押し寄せて来る。地震の後の大津波だ。ゴーショが硬直しているのを見て、翔吾は大声で怒鳴った。「聞こえないのか?出て行けと言ってるんだっ!!」

ゴーショは椅子から飛び上がり、壁を抜けようとしてぶち当たった。それからフラフラと立ち上がり、玄関から外へ飛び出て行った。


翔吾はテーブルの上の包みを長い間見つめていた。鉤爪がカタカタと音を立てる。

(くそっ!)

彼は椅子を降り、玄関まで這って行った。玄関の土間には見慣れない物があった。折り畳みの車椅子だ。まだ包装が残っているところを見ると、さっきゴーショが買って来たばかりらしい。こんなものを甲府から担いで来たから疲れていたのだ。それにしても、なぜ車椅子なんか・・・

(あいつ・・・)彼は突然悟った。テーブルの上の帽子と手袋。ゴーショは自分を少しでも人間らしく見せて、車椅子に乗せ、外へ連れ出そうとしていたのだ。家に篭るしかない自分の姿に、心を痛めて・・・

「ゴーショッ!」翔吾は玄関から身を乗り出して叫んだ。だが、もうどこにも彼の姿は無かった。



《不可逆性-2》

翔吾は焦る心に痙攣する鉤爪に苛々しながら電話番号を押した。

「おうっ、未野か」電話に出た八百樹もどことなく焦っていた。「今ちょっと手が放せねぇんでな、後にしてくれねぇか?」

「ダメだっ!待てないっ!」

「そう言うな・・・しょうがねぇな・・・」受話器の向こうに水の流れる音がした。「・・・ったく、小便ぐらいゆっくりさせろよ。で、なんだ?」

「・・・ゴーショを探してくれ」翔吾はマスクで涙を拭い、洟を啜りながら言った。「僕が追い出した。早く、早く探してくれっ」

「なんだとぉ?自分で追い出しといて探してくれとはまた手前勝手な話だな。何があったんだ?」

「あいつ、昨夜、亜輝子とやって、ゴーストの世界から追放されたんだ。だから帰るところも無いし、人間みたいになってるのに自覚が足りないから死ぬかもしれない。早く連れ戻さないと・・・」

受話器の向こうにしばしの沈黙があった。「・・・亜輝子さんと、やったぁ?」八百樹は3秒考えて、翔吾が一端追い出した心情を理解した。この件に関しては幾らか自分にも責任があることも。「わかった、探しものなら俺に任せろ」

八百樹は石和のショッピングセンターのトイレから出るとすぐに土下部警察署の巡査部長である三浦友和に電話した。

「ああ、七尾だ。ちょいと急ぎでな、行方不明の放送を頼む」八百樹の電話を受けた三浦は内容をメモした。あちこちに知人が居るのも私立探偵の必須条件だ。間もなく、翔吾の住む地域を中心に防災放送が流れた。

「こちらは防災甲州です。土下部警察署から行方不明のお知らせです。県外から甲州市内の知人宅を訪れていた34歳の男性が、今日午後3時半頃、家を出たまま行方がわからなくなっています。特徴は、身長176.5cm、やや細身のイケメン、服装は白いシャツにカラシ色のズボンで靴を履いていません。見掛けた方、心当たりのある方は土下部警察署までご連絡ください。繰り返します・・・」

それから八百樹は甲州市まで車を飛ばし、大楯木工所の裏に住むサッチャンに声を掛けた。サッチャンはここらの野良を束ねる姐御肌の三毛猫で情報通だ。彼女は八百樹の顔を見るとニャーと笑って挨拶した。

「今の放送を聞いたか?そいつを探してるんだ、急ぎで頼むぜ」

サッチャンはもう一度ニャーと鳴いてすぐに塀の向こうへ消えた。彼はその後勝沼方面のヨノキチ、牛奥方面のギュウコ、茅野方面のチヨジなどなど、各地域のボス猫に捜査を依頼した。こんな時のために、日頃カツオ節を配って廻る心遣いを怠らないのだ。

およそ10分後、土下部警察署の三浦友和から電話が入った。「七尾か、行方不明者、見つかったぞ」

「おうっ、さすがに早いな、どこに居た?」

「笛吹川の河川敷に倒れているのを白黒の猫が発見した」

「ほぉー、そいつぁ、サンペイだな。サッチャンの傘下の奴だ」

「今、署で保護してる。腹が減って倒れてたらしい。何も無いから俺の弁当の残りをやったら全部食った」

「そいつぁ悪かったな。すぐに迎えに行く。逃げないように捕まえといてくれ」

次いで八百樹は翔吾に電話を入れ、ゴーショの無事を伝えた。

「良かった、ありがとう・・・」翔吾は安堵の息を吐いた。「ところで八百樹、昨日頼んだ絵を描く場所は見つかった?」

「おいおい、昨日の今日だぜ。もっとも心当たりはあるがね、そんなに急ぐのか?」

「うん・・・僕の方が、家を出ようかと思って」

八百樹は少し考え、咳払いした。「まぁ、落ち着け。その話はゴーショを連れ帰ってからにしよう」そして電話を切る前に付け加えた。「おい、変な気を起こすなよ。いいか、とにかく俺がそこへ行くまでそこに居ろっ」



土下部警察署に着くと、近頃めっきり太めになった三浦友和が出迎えた。彼は八百樹の顔の前に人差し指を立て、「あの男は、お前のどういう知り合いなんだ?」と訊いた。

「ああ、あいつか。あれはダチの双子の弟なんだ。ちょいとワケがあってな」

「ふーん」三浦は何か言いたげに横目で八百樹を見る。

「なんだ、どうかしたのか?」

「いや・・・まさかとは思うが」三浦は出っ張った腹を撫でながら相手の耳にボソリと呟く。「参道美紀の親戚か何かか?」

八百樹は肩をすくめた。「さあな、そういう話は聞いたことがねぇな」こいつにバレルとうるせぇからな、と頭を掻く。

案内された個室(取調室とも言う)の隅で、ゴーショはポツリと座っていた。八百樹が部屋に入ると、一端顔を上げたが、また下を向いた。八百樹はゴーショの前に立ち、出口を示して顎をしゃくる。「おい、帰るぞ」

やがて、消え入りそうな声が、「・・・どこへ、ですか?」と返って来た。

「どこへ、って、未野の家に決まってるだろ?」八百樹はポケットから手を出して左右に広げる。「あいつが心配してる。泣きながらお前を探してくれって俺に電話して来たんだぜ」

「・・・でも、出て行けと言われました」

「ああ、そんなもんは良くある奴だ。兄弟喧嘩みたいなもんだ。味噌汁が豆腐に嫉妬するなんざお笑い草だぜ」八百樹はゴーショの腕を掴んで無理矢理立たせた。「とにかくお前がここで化石になるわけにゃいかねぇんだ。引き摺ってでも連れて帰るからな。引き摺られて3千年日干しされたイカみたいになりたくなかったら自分の足で歩け」

八百樹は廊下で待つ三浦に「世話になったな」と礼を言って署を出、ミニクーパーの助手席にゴーショを押し込んでドアを閉めた。

エンジンを掛けるとカーオーディオに入れっ放しのマリア・カラスが『アヴェ・マリア』を歌い出した。八百樹は止めようとしたが、ゴーショがそれを制した。

「・・・美しい歌声です。聴かせてください」ゴーショの声は震えていた。

「お前、泣いてるのか?」八百樹は意外さに顔を歪める。「ゴーストってのは感情が無いのかと思ってたぜ」

ゴーショは俯き、手の甲で涙を拭う。「・・・私も驚いています。こんなことは初めてです・・・とても、怖い」

八百樹はアクセルを踏みながら訊いた。「怖いってのは、未野が、か?」

「それもあります。凄く怒っていました。私には彼がなぜそんなに怒るのかわかりませんでした。私は亜輝子さんの望みに応えただけなのに・・・」

「まぁ、そうだろうがな」八百樹は鼻の穴を広げた。「あいつは妬いたんだ。自分が今、逆立ちしても出来ねぇことをお前がやったから」

「・・・はい、外に出てから少し考えて、それに気付きました。私は翔吾に言うべきではなかった。彼を傷つけてしまいました」ゴーショは両手で顔を覆った。「今、とても怖いのは私自身の変化です。翔吾に怒鳴られ家を出て歩きながら色々考えました。とても苦しい時間でした。だけど何が苦しいのかわからなかった。でもだんだんわかって来ました。私はなんのためにここに存在しているのか、誰のためにこの世界に留まっているのか、その意味を見失おうとしていることが何より苦しかったのです。その意味について尚も考えて行った時・・・私は、『愛』というものを初めて理解しました」

「ふんっ」八百樹は勢い良く鼻を鳴らした。「亜輝子さんに惚れちまったのか?」

ゴーショは掌から顔を上げて八百樹を見た。「・・・いいえ、違うのです」

デジタル表示は7時36分を差していた。八百樹は時計を見て頷き、路地に車を入れた。案の定、亜輝子はまだ帰って来ていない。彼は車を停め、エンジンを切ってゴーショにハッパを掛ける。「着いたぞ、頑張れよ」

助手席で身を縮めるゴーショは上目遣いになって呟いた。「・・・八百樹さん、私、やっぱり、怖いです」

八百樹は舌打ちをして車を降り、助手席のドアを開けてゴーショを摘み出す。「大の男が甘ったれるなっ、昨日、この俺を素っ裸にした勢いはどこへ行ったんだっ、それでもお前はゴーストかっ?」

「私は、自分がもう何なのかわからなくなって来ました」

「情けねぇことを言うんじゃねぇっ!」八百樹は捕虜を連行するみたいにゴーショの腕を掴んでグイグイ歩く。「自分が何なのか、じゃねぇんだ、俺は何々だ、ってぇ自覚が肝心なんだっ!少しは未野を見習えっ、あいつはイモムシになっても絵描きなんだぞっ!人間やめても芸術家はやめねぇ、こういうクソ根性が明日の世界を開くんだっ!」

「・・・誰が、クソ根性だって?」

ふいに暗闇から声がして、八百樹はギョッとした。辺りを見回すが、人の気配は無い。

「ここだよ。銀杏の木の上だ」

確かに玄関の脇には銀杏の大木が生えていた。決して広いとは言えない庭にもうどうしましょうかというぐらいに育ってしまったその太い幹の天辺に、彼は居た。夜の帳に紛れ、マスクもマントも着けずに銀杏に張り付く影は巨大なイモムシそのものだ。八百樹は顔をしかめて木を見上げた。「・・・で、お前はそこで何やってんだ?」

「月を見ていた」翔吾は揺れる木の上から答えた。「気持ちいいよ、八百樹も登って来ないか?」

「ふん、ジジイじゃあるめぇし柄にも無く風流しやがって・・・俺は高いところは苦手だっ」

八百樹が(冗談じゃねぇ)という顔で内ポケットから煙草を取り出した時、彼の脇をすり抜けたゴーショが銀杏の幹に手を掛けて登りだした。

「・・・ゴーショか」翔吾は微笑んで鉤爪を振った。彼が動くと枝が大きくしなる。虫のようでも体重は人間のままだ。二人分は無理がある。

「おい、危ねぇぞっ」

八百樹の心配をよそに、ゴーショはあっという間に翔吾の尻尾まで辿り着いた。彼はそのまま天辺まで登り、翔吾の頭に腕を廻して抱きしめる。「・・・ごめんなさい、私はひどいことを・・・私にとって一番大切なあなたに・・・」

翔吾は首を振った。「僕こそ悪かったよ。お前が居なくなったら困るのは自分の方なのに・・・これからも、これに懲りずに僕を助けてくれるかい?」

ゴーショは潤んだ瞳で彼を見つめた。「もちろんです。あなたが許してくださるなら・・・あ、でも」と、ふと顔を曇らせる。「亜輝子さんのことは、どうしたら良いですか?」

「ああ、それはね・・・」翔吾は頭を傾け、月を見ながら出した結論を告げた。「僕は、何も知らないことにする。彼女が望んだら、僕の代わりに彼女が望むことをしてやって欲しい・・・彼女が望むことなら、何でも、ね」

「それで、いいのですか?・・・本当に?」

「それで、いいよ。そういう愛があったって構わないだろ?」

ゴーショは下を向いて考え込んだ。愛について理解出来たような気がしていたが、まだまだナゾの部分が多いようだった。翔吾は再び月を見上げ、顔を撫でる夜風に目を細めた。木の下に居る八百樹の携帯電話が着信音を立てる。「・・・ああ、俺だ。ん?いや、ちょっとな。わかった、すぐ帰る」

「八百樹、僕達ならもう大丈夫だよ。今日はありがとう」翔吾が声を掛けると、煙草の火が揺れた。

「おう、じゃあな。くれぐれも頭で石を割ったり地面に抱きついたりするんじゃねぇぞ」と言い置いて、彼は帰って行った。



《不可逆性-3》

「八百樹さんは、とてもいいお友達ですね」

庭を出て行くミニクーパーのテールランプを目で追いながらゴーショがそう呟いたので、翔吾は思わず吹き出した。「どういうわけか最近は、ね。あれでついこの間まで、何だかんだ理由をつけては僕を殴ったり蹴ったりばかりしてたんだ」

「あなたを殴るなんて・・・どうしてそんなことをしたんでしょう?」ゴーショは目を瞬かせる。

「さあね、どうしてだろうね。うっかり理由を訊くのを忘れていたよ」言いながら、彼は木を降り始めた。「中学校で出逢って以来、ずっとそういう調子だったから・・・だけど僕が隣のクラスの凶暴な奴に取り囲まれた時は、八百樹がそいつらを片っ端からやっつけてくれたんだ。喧嘩にかけてはとにかくメチャクチャ強いから、先生も怖がって3メートル以上近づかなかった」

「その時はあなたを守ってくれたんですね」ゴーショも翔吾の動きに合わせて降り始める。

「一概にそうとも言えない。未野を殴るのは俺だけだ、俺以外は殴るんじゃねぇっていう理屈だから」

「でも、あなたは彼から逃げなかった」

「逃げようにも、家が隣だったんだ」地面に降り立った翔吾は、何か言いたげなゴーショの胸に鉤爪を押し立てた。「お前は僕の心を読めるんだろう?だったら読めばいいじゃないか。僕の口からはこれ以上言わないよ」



家に戻るとゴーショは汚れた服を着替え、鼻歌を歌いながら夕食の支度を開始した。口ずさんでいるのは八百樹の車で聴いて覚えた『アヴェ・マリア』だ。歌詞の意味はわからなかったが、(愛を感じる)と彼は思った。

「なんだかずいぶんご機嫌だね」服を着ながら翔吾は苦笑した。昨日までほとんど無表情だったゴーショが鼻歌を歌うようになるなんて。

「とても嬉しいんです、私」包丁を持ったまま、ゴーショは踊るような仕草で振り向く。「嬉しい、ということがわかるようになったのも、嬉しいです」

「感情は、厄介ではあるけれど愛しいものだよ」翔吾はテーブルの上の花を見た。そういえば、僕は亜輝子に花を買って来たことなど一度も無かったな、と思いながら。

暫くして、ちょうど翔吾とゴーショが食事を終えた頃、亜輝子が帰宅した。彼女はテーブルの花を見て驚き、リボンの付いた3つの紙包みを見て「今日はいったい、何のお祝いなの?」と訊いた。

「ゴーショから君への、プレゼントだそうだ」翔吾はフフッと笑った。「出どころは僕の財布で、大元は君の給料だけどね」

「まぁ・・・」彼女は目を丸くして、可笑しそうに口元を緩めながら頬を染めた。「何かしら?ここで見てもいい?」

亜輝子はクリスマスのプレゼントを開ける子供みたいに顔を輝かせてリボンを解いた。ゴーショが何を選んだのかは翔吾も興味があった。それはそのまま、彼女が欲しいものである筈だ。

最初の包みはお洒落な銀色のパッケージに入ったヴェネチアングラスだった。金のストライプと白いレース模様が優雅で上品なワイングラスだ。亜輝子は夢見るような目付きで儚げなグラスを見つめ、それから溜息混じりにゴーショに訊いた。「どうして、私が欲しかったものがわかるの?」

ゴーショは黙って首を傾げてみせる。

彼女はやや複雑な表情になって次の包みを開けた。が、途中で「きゃっ」と言って手で隠し、「ゴーショ、あなた、良くこれを買って来れたわね?」と言いながら苦笑した。「なんだったの?」と翔吾が問う。仕方なく彼女が広げて見せたのはブラジャーとTバックのセットだった。朝靄のような淡いラベンダー色の物憂げなレースが適度にクールでセクシーだ。翔吾は「なかなかいいじゃない、君に似合いそうだ」と感想を述べる。亜輝子は呆れたように首を振りながら仔細に眺めた。「・・・サイズもぴったりだわ。どうして・・・」と言い掛けて口を噤む。

さて、三つ目の包みにはトルコ石をあしらったブレスレットが入っていた。

「へぇー、君、トルコ石が好きだったんだ?」翔吾は意外そうに呟いた。「ちっとも知らなかった」

「実は私も今まであまり意識したことは無かったんだけど・・・」亜輝子はブレスレットを手にゴーショに歩み寄る。「彼の角を見たら、ターコイズブルーって綺麗だなって思って・・・」

だが、色を見比べようと掲げた先に角は無かった。

「どうしたの?」亜輝子はビクリとして手を止めた。「あれは・・・脱着可能なものだったの?」

ゴーショは翔吾をチラリと窺って、「・・・実は」と言い掛けた。が、それを遮るように翔吾が続けた。

「賞味期限が切れたから無くなったんだよ。ラクダのコブみたいなもんさ。角に養分を蓄えてあっちの世界からこっちの世界に旅をする。でも、所詮は携帯食料だからね、いつかは使えなくなるんだ。だから今日からゴーショは飯を食う」

「ホント?」亜輝子は腕を組んで頭を傾ける。「あなたって、時々物凄いデタラメ言うんだから」

「創意に富んでいる、と言って欲しいな・・・ああ、それから」翔吾は亜輝子に見えないように吸盤を使ってテーブルの足元からスケッチブックを取り出した。その1枚をパリッとリングから外してテーブルに置く。「こっちは僕からのプレゼントだ」

亜輝子は絵を覗き込んで首を振る。「・・・これは?」淡い色を重ねた柔らかく優しい絵だった。だが、あいにく何が描いてあるのか彼女には見当もつかない。

「君の背中だよ」翔吾は鉤爪を弧を描くようにゆっくり動かす。「このうなじから肩甲骨と背骨にかけての微妙なカーヴが特に美しい」

彼女は両手で頬を覆い、久し振りに『ムンクの叫び』の顔をしてみせた。「・・・ど・ど・どうして、これを、あなたまで、私に?」

翔吾は静かな、囁くような声で言った。「思い浮かべて描いてみたんだ・・・君の体の中でも、僕が一番、好きなところだから」

(僕が一番好きなところだから・・・)目を閉じて、亜輝子は彼の言葉を胸の内で繰り返す。抑えたトーンで話す時の、翔吾の声が彼女は大好きだった。優しいけれど甘過ぎない、少しハスキーな深みのある独特の声が、空気を震わせて自分の鼓膜にそっと届く。くすぐったいような、悪戯天使のノック・・・彼女は微笑み、それからポセイドンの目覚めのようにスカッと目を開けて、訊ねた。

「わかったわ。二人とも、何か企んでるのね?」

鋭い指摘を受けた二人は互いに顔を見合わせた。ゴーショは「実は」とだけ言って翔吾に先を譲った。

「君に、頼みがあるんだ」翔吾は顔の代わりの感情表現としての鉤爪をパッと広げてみせる。「僕は明日から縦5メートル×横15メートルの絵を描くために、八百樹が借りてくれた夫目高原の空き工場に移る。インク会社の建物だけど今は使ってなくて中はガランドウなんだそうだ。でも暖房装置は生きてるし厨房もシャワー室もある。そこへの引越しと、2日に一度のゴーショの送り迎えを頼みたい」

亜輝子は微笑んだ顔のまま、意味がわからないという感じに瞬きを繰り返した。翔吾は説明を加えた。

「引越しと言っても画材と寝具とわずかな身の回りのものを運ぶだけだけどね。工場まではここから車で40分ぐらいだから、2日に一度、君は出勤の時にゴーショと食料を工場まで送り届けて、帰りにまた彼を拾いに来て欲しいんだ。ゴーショは工場に居る間に2日分の食事の支度をしたり洗濯をしたりして君と一緒に家に帰る。2日に一度というのは、家のこともしなくちゃならないし、その間に買出しに行ったり庭の草むしりもしなくちゃならないからね」

「絵を描くのに広い場所に行きたいのはわかるけど・・・」彼女は眉間に皺を寄せた。「なぜ、ゴーショだけ帰ってあなたは家に帰らないの?」

「僕まで家に帰ったら、君は毎日送り迎えしなくちゃならなくなるじゃないか」

「別に、毎日したっていいわよ」亜輝子は唇を尖らせる。「早起きは辛いけど、未来永劫続くわけじゃないんでしょ?」

「そりゃそうだけどさ」翔吾は鉤爪でテーブルをコツコツ叩いた。「上手く言えないけど・・・僕は、絵を描ける内に描いておきたいんだ。こんな状態で、いつまで持つかわからないし。今度の絵だって、最後まで仕上げられるかどうか・・・わかってくれよ」

亜輝子は尖らせた唇をくるりと丸めて噛み締めた。「・・・でも、あなたを独りにすると、またのべつ幕なしに絵を描いて、体を壊すかもしれないわ」

「これ以上、どう壊れるって言うんだい?」翔吾の声が大きくなった。ゴーショはビクリとして反射的に首をすくめる。

「前も言っただろう?僕にとっては長生きすることより今この頭にあるイメージを描き上げることの方が重要なんだっ!」

彼は鉤爪をテーブルに振り下ろした。ゴンッという鈍い音がし、一呼吸置いてヴェネチアングラスがゆっくり倒れた。




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