いもむし男−第17章


《虫神伝承-1》

11月15日は日曜日だったが、私立探偵七尾八百樹に祝祭日は関係なかった。彼は『光石荘』の玄関ドアの前で煙草に火を点け、深く吸い込んだ煙を勢い良く吐き出す。そして、山梨から移築再生したという民家の下屋を見上げた。下屋は、漆喰の外壁からニョッキリ突き出た腕木に支えられ、来訪者を囲うように雨風から守り屋内へと招き入れる。いや、雨からは守ってくれるが風を防ぐのはあまり得意では無かった。那須連山から吹き降ろす情け容赦ない風が田畑を撫で『光石荘』に吹き付けるのはどうしようもない。那須高原の冬は近い。八百樹は眉を寄せて目を細め、周囲に広がるところどころ土肌の剥き出た田畑を見渡した。

暫くして、唐突にドアが開き、白髪の初老の男が顔を覗かせた。男は八百樹を見て3秒ほど考えてから「ああ」と頷き、中へ入るように促す。男は八百樹の後ろですぐにドアを閉め、鍵を掛けた。途端に、風の音は遠い昔のざわめきの記憶のように密閉されて閉め出される。

「こちらへ、どうぞ」

男は玄関ホールの大きなステンドグラスの前に立ち、居間へ続く扉を開けた。扉にもステンドグラスが嵌り、床は全て磨き仕上げの御影石張りだ。ああそれで『光石荘』なのかと納得しながら居間へ入れば、一角では大理石の暖炉に赤々と薪が燃えている。八百樹は示されたソファに腰掛け、黙って炎を見つめた。中ほどに重ねられた薪が、コトッとかすかな音を立てて灰の上に横たわった。

「七尾、八百樹さん、とおっしゃいましたか?」男は嗄れ声で確認しながら、黄ばんだ古伊万里の湯飲みに番茶を注いだ。それからテーブルの上の春慶塗の箱を開け、そのまま指で押して八百樹の方に差し出した。「・・・あいにく、たいしたものはありませんが、宜しかったら摘んでください」

箱の中を覗くと賞味期限の怪しい和菓子が2つ、申し訳無さそうに身を寄せ合っていた。八百樹は首を振り、「こちらには、独りでお住まいで?」と訊ねた。

男はゆっくり頷き、膝の上で皺の寄った手を擦り合わせる。「ええまぁ・・・独りを噛み締めて、ゴクリと飲み込む瞬間が好きなものですから」

「なるほど」八百樹は口をへの字に曲げて頷いた。「じゃ、あんまり独りの時間の邪魔をしちゃ悪いから、社交辞令は省略して手っ取り早く用件を済ませましょう。俺はコイツの正体を知りたいんだが・・・」そう言って、内ポケットから取り出した紙切れを男の前に広げて見せた。

男はそれを見て、8秒ほど考え、首を傾げて八百樹を見つめ、それからもう一度それに目を落とした。そしてさらに25秒ほど沈黙した後、ようやく口を開いた。「・・・これを、どこで?」

「これは、いわば見取り図で、本物は・・・」八百樹は自分の胸を指差す。「俺の親友の心臓に貼り付いている。コイツのせいでそいつは今、どえらい目に遭ってるんだ。だから一刻も早く俺はコイツの正体を突き止めて退治せにゃならん。そのためにここへ来た」

彼の言葉に男はにわかに落ち着きを失い、湯飲みを手に取って掌の上で3回廻した後、飲まずにテーブルに戻した。

八百樹は相手の様子を注意深く観察しながら紙切れを内ポケットにしまう。「4週間前、俺はこの見取り図だけを手掛かりに捜査を開始した。といっても正直最初の2週間は手も足も出なかったがね。文様や暗号に詳しい奴らに片っ端から当たってみたが皆目見当も付かなかった。しかも、捜査のためにあちこち歩き回ってるのに女房はウロウロしてるなら『いちやまマート』でカツオの叩きを買って来てくれなんて電話をよこしやがる。俺の女房は飛び切りの美人だが少々わがままでな、言い出したら聞かねぇんだ。仕方が無いからマーケットへ行って、魚売り場へ直行しようとしたら俺の3倍ぐらいあるオバサンが通路をデカイケツとショッピングカートで塞いでテコでも動かねぇと来たもんだ。頭に来たが、俺はオバサンとバアサンとは喧嘩しねぇことに決めてるんだ。下手すりゃそれで半日潰れちまいかねねぇからな。だからレジの反対側から魚売り場へ行くことにして途中で薬売り場を突っ切ったわけだ。そしたら今度はしゃがんで引き出しを整理していたド近眼の薬剤師がいきなり立ち上がって俺にぶつかりやがった。その時、偶然、棚から落ちたのが『I製薬』の強心剤だったってぇわけなんだ」

八百樹は一端言葉を切り、湯飲みに手を伸ばして番茶を啜った。番茶は冷めたのか最初からぬるかったのか、空気みたいに味も実感も無いシロモノだった。彼は口の端を下げてそれを飲み込み、湯飲みを戻して先を続けた。

「『I製薬』の登録商標を見て俺はピーンと来た。青い『I』の文字がこの文様に似ていたからな。それで俺はその強心剤を買い、すぐに『I製薬』の本社へ向かったんだ。いささか慌てていたんで女房に頼まれたカツオの叩きはすっかり忘れちまったが、それだけの収穫はあった。亀戸天神の本社ビルで4時間粘り、その甲斐あって・・・」

八百樹はそこでグッと厚い胸板を反らせた。「・・・白根博士、あんたに行き着いたからだ。名前がシラネだからって、何もシラネェとは言わせねぇぜ」



強心剤『タスカル』は『I製薬』の目玉商品だった。というか、実はそれしか製造・販売していなかった。『タスカル』は強心剤という名の万能薬で、滋養強壮から動悸・息切れ・めまい・頭痛・神経痛・起こり・ひきつけ・差し込み・プラグなどなどの諸症状の緩和にたいへん良く効くという噂のヒット商品だ。強心剤など全く必要としない八百樹は知らなかったが、巷では正露丸に次ぐ家庭の常備薬とされていた。『I製薬』の糠漬けキュウリみたいな顔の営業部長は確かな効能についてたっぷり1時間、自慢げに喋り続けた。が、八百樹が成分中の『芋精』について問うとピタリと口を閉ざし、それから2時間半、黙秘権を行使した。

「薬事法に触れるような物質ではありません。人体に無害であることは治験で証明済みです。例えば、熊の肝とか、朝鮮人参とか、そういった漢方系の天然成分でございます」

ようやく口を開いた営業部長は、冷や汗を掻きながらそれだけ言った。

「じゃあ質問を変えよう」八百樹は髭を捻った。「お宅の会社の登録商標は、何を表してるんだ?」

「は?弊社の登録商標でございますか?」営業部長は怪訝な顔をした。「それにつきましては、シラネ・・・」

「ナニ、知らねぇ、だとぉ?」

「あ、いえいえ、そうじゃありませんっ」営業部長は慌てて手を振った。「35年前に『タスカル』の開発に携わりました白根博士の考案により、採用された商標でございまして・・・」

「白根博士?」八百樹は手帳にメモを取る。「そいつは、今、どこに居るんだ?」

だが『I製薬』が把握している住所に白根博士は居なかった。博士は10年の内に都内のマンションを6度転居し、退職を期に隠居生活に入って行方不明だったのだ。極端に人間嫌いの人物らしく、関係者の中で隠居場所を知らされた者はひとりも居なかった。

八百樹は学者仲間を訪ねてほうぼう歩き回った後、神保町の交差点で眉根を寄せて思案した。それからふと目に付いた書店に入り、トイレを借りた。トイレに行くと閃きがあるのだ。用を足した彼は雑誌売り場へ向かい、発売されたばかりの『月刊・男の隠居家』を手に取りページを捲る。

(なぁにが人間嫌いだ、そういう偏屈な野郎に限って実は人一倍注目されたがりだったりするんだぜ)

果たして、口をへの字に曲げて捲った先には「那須高原に移築再生民家で隠居する、医学博士S氏の優雅な生活」という見開き写真入りのページがあった。



暖炉の薪の爆ぜる音がした。長い沈黙の後、白根博士は大きな溜息をつき、続いてかすれた咳払いをして、口を開いた。

「私の知っていることをお話する前に、ひとつ、伺ってもよろしいかな?」

八百樹は相手を鋭く見据えたまま頷いた。

「・・・その、あなたのご親友が遭われている、どえらい目、というのは具体的にどういった症状なのですか?」

彼は博士の質問に頷きながら再び内ポケットに手を入れ、プリントアウトした写真を1枚取り出しテーブルの上に置いた。身を乗り出してそれに目を落とした博士の顔に、たちまち驚愕と憐憫の色が広がった。

「信じられねぇだろうが、そいつは4週間前まで人間だったんだ。それも、道ですれ違ったオンナが一人残らず振り返るような美男子だった」八百樹は肩をすくめた。「だが、ちょいと色々張り切りすぎて過労で心筋梗塞を起こしてな、死に掛けた挙句にイモムシみてぇになっちまったんだ。ザマアミロと言いたいところだがそうもいかねぇ。俺の親友だからな。何とか助けてやりたい。あんたの知ってることを教えて欲しい」

博士は顔を上げ、落ち窪んだ目で八百樹をじっと見つめ、床下の悪霊に聞かれまいとするかのように声をひそめて訊ねた。「この方は、普段、何をなさっている方なので?つまり、ご職業は?」

「ああ、こいつは絵描きなんだ」八百樹は空中で絵を描く仕草をする。「毎日毎日、バカの一つ覚えみてぇに飽きもせず絵ばっかり描いてる奴だ。だが才能もある。まだ無名だが、発掘されたての天才と言ってもいい」

彼の言葉に博士は深く頷いた。「なるほど・・・わかりました」そう言って席を立ち、一端部屋を出る。が、すぐに戻って来て一冊の古びた書物をテーブルに置いた。それは古本屋の一番奥の棚のそのまた奥から引っ張り出されたばかりというようなカビ臭さと辛気臭さと因縁臭さを纏った古書だった。博士は今にも崩壊しそうなページを注意深く捲り、それから本を八百樹の方に向けた。

そこには『今多野翔介芋虫化身ノ図』という題字の下に、変身した翔吾の姿に酷似した墨絵が描かれていた。

八百樹は瞬きするのも忘れて『今多野翔介芋虫化身ノ図』に見入った。見れば見るほどそっくりだ。その上、『イマダノ』という苗字の読みと名前まで似ている。図も書物も相当古いものだが、これは未野の先祖なのだろうか?彼は首を何度か振り、眉間に深い皺を寄せて顔を上げる。そこには白根博士の落ち窪んだ目が待っていた。

「この本は、私が東大医学部の助教授時代、奇病の研究をしていた頃に神田の古本屋で偶然見つけたものです」博士は皺だらけの手を擦り合わせ、遙か彼方の時間を呼び戻すように目を細めた。

「本自体は昭和初期に民族史家の本田勝義が纏めたものですが、元になった文献は江戸末期のもので、この図を描いたのは飯島彦左衛門という絵師です。今多野翔介は彦左衛門の親友にしてライバル、つまり、彼も絵師だったのです」

博士は八百樹の目を覗き込んで反応を待つ。八百樹がようやく瞬きをすると、先を続けた。

「文献によれば、今多野翔介は下級武士今多野明之伸が蝶々という芸者に産ませた子で、母親に似てたいへんな美男で才能もあったが境遇に恵まれず、赤貧洗うが如しという生活から苦労して絵師となった。一方、彦左衛門は裕福な商家に生まれ、絵が好きで当代随一の絵師の元で学んだが才能は今ひとつだった。二人は互いに互いを羨ましがったが、それでも親友であり且つ良きライバルだった・・・状況が一変したのは彼等の間に花子という美しい女性が現れた時です。二人は同時に彼女に恋をし、花子は男前で才能のある翔介に惹かれながらも金持ちの彦左衛門と夫婦になる。失恋した翔介は今まで以上に狂ったように画業にのめり込み、遂に『心の臓』を患って血を吐きながら果てた。ところが急を聞いた彦左衛門が駆けつけると、この図のようにイモムシになり蘇っていた・・・というわけなのです」

白根博士はそこで言葉を切り、コホコホと乾いた咳をした。

「・・・それで」八百樹は先を促した。「それで、あんたはこの図を発見した後、どういう経緯であの文様まで辿り着いたんだ?」

博士は再び湯飲みに手を伸ばし、今度は一口飲んで息を継いだ。

「当時、私はこの図を見ても本当にこんなことが起こるとはとても信じられませんでした。人間がイモムシになるわけがない、それが常識ある人間の真っ当な反応です。しかしこの本の他の部分の記述は信憑性のあるものばかりなのです。そこで、文献の裏を取ろうと考えました。本を纏めた本田勝義氏はすでに故人でしたから、私は飯島彦左衛門の子孫を探すことから始めました。もし当時の記述が他にも何か残っているなら、調査は第一次資料に当たるのが基本だからです」

博士の言葉に、今度は八百樹が深く頷いた。

「彦左衛門の子孫を探すのはさほど難しいことではありませんでした。家柄は受け継がれます。本家を継いだ飯島白水氏は成功した実業家としても知られる方で、芸術にも造詣が深く、幾つかの私立美術館建設に出資者として関わっているほどの美術愛好家でした。私が訪ねると快くもてなして下さり、彦左衛門の残したもう一つの図を見せて下さいました。それが、あの青い『I』の文様だったのです」

「あ、ちょっと待ってくれ」八百樹は手帳を取り出してメモを取った。「飯島白水ってのはイイジマ化繊の会長やってる人かい?」

「そうです。今は次男の飯島緑水氏が跡を継がれましたから」博士は手の甲を擦って皺を伸ばしながら先を続けた。

「彦左衛門の図と彼が子孫に残した言い伝えは飯島家に伝わる家宝となっています・・・他人から見ればいささか奇妙な家宝ではありますが、飯島家の人々にとってはこれは『実質的な家宝』なのです。ですから白水氏は、あまり広範に他言しないで欲しい、と前置きして話してくださいました」

博士が聞いた言い伝えはさらに奇妙な話だった。

翔介を哀れんだ彦左衛門は「せめて盛大な弔いをしてやりたい」と懇意にしている僧侶に頼みに行った。ところが僧侶は「化け物の葬儀は出来ない、そんなことをしたら貴方の家運も下がる」と断る。仕方なくあまり懇意で無い寺も廻ったが、どこへ行っても断られてしまった。道端で途方に暮れていると、見たことも無いぐらい身なりの薄汚い僧が通り掛かり、「どうしたのか?」と訊く。事情を話すと、その僧は翔介の亡骸を見に来て、一筋の涙を零し、半日あまりも掛けて熱心に経を上げてくれた。終わると布施も受け取らずに帰ろうとするので、彦左衛門は破れそうな袈裟を掴んで引き止め、「どこの寺から参られたのか?せめてお名前を」と訊ねた。しかし僧は「名乗るほどの者ではありませぬ」と答えて表へ出ようとする。彦左衛門が尚も袈裟を掴んでいると、サッと身を翻して消えてしまった。その時、彼の手に残った破けた袈裟の切れ端にあったのが、青い『I』という文様だったのだ。



《虫神伝承-2》

彦左衛門はその文様を頼りに消えた僧を探す旅に出る。その僧こそが、翔介がイモムシに変身したワケを知る者と直感したからだ。とはいえ当時は新幹線もインターネットも無いからたいへんな旅である。およそ5年後、土佐藩が高知県へと名を変える頃になってようやく、四万十川の支流から森林へ分け入った道なき道の傍らに佇む崩れかかった小さな山寺の山門にその文様を発見した。だが幾ら声を掛けても山寺に人気は無い。辺りを探索する内に、泥濘に足を取られた彼はズルズルと沼へ落ちてしまった。這い出ようにもヌルヌル滑るばかりでどうにもならない。「もはやこれまでか」と思ったところへ、どこからともなく白い薄絹を纏った美女が現れ、彼の襟首を片手で掴んでヒョイと救い上げた。怪力の美女である。彦左衛門は助かったことと美女の薄絹と怪力とに目を丸くして言葉も出なかった。すると美女は訊いた。

「お前は、どうやってここへ来たのじゃ?」

どうやって?って、歩いて来たのだ、と驚いて声の出ない彦左衛門は自分の足を指差した。その時、彼の懐から僧の袈裟の切れ端がポロリと落ちた。美女は素早くそれを拾い、文様を見てゆっくり頷いた。「なるほど、これのせいか」

「こ・こ・こ・これ、という、貴女の持つ、それの意味を、貴女は、わかっ・わかっ・わかって・・・」

しどろもどろの彦左衛門に美女は微笑み、「まぁ、せっかく来たのじゃ。まずは泥を落としてくつろぐが良い」と言い、彼を山門の脇にある社に招いた。

社の木段の上がり端で草履の紐を解きながら、彦左衛門は首を傾げた。さっき山門の前を通った時、そこに社は無かったからだ。彼の懸念を読み取るように美女は教えた。「わしは静かに暮らすのが好きなのだ。だから家は人目につかぬように普段は土に隠しておる。もっとも普通の人間はここへは入れぬのだが・・・お前はこの文様を持っていたので、結界を越えることが出来たのじゃ」

それから美女は社の奥からタライを持って来て彼の前へ置き、タライへ入るように促した。彼が指示通りにすると、頭の上に手を翳した。すると白い掌から清い水がほとばしり、あっという間に彦左衛門の泥を洗い落とした。

「貴女は・・・いったい、どういう方なのか?」ずぶ濡れのまま、目を瞬かせて彼は問う。

美女はニッと微笑み、「礼儀知らずな男よな。名を問うなら、まず自らが名乗るものじゃ」と言った。

彦左衛門はハッとして、顔を赤くし俯いたが、気を取り直して名乗った。「わ・私は、江戸、いや東京から参った、彦左衛門と申す、織物業を営む飯島屋の三代目でござる」

「お前が彦左衛門か・・・」美女はふふふと笑った。「翔介は気の毒なことをしたな」

「な・なんとっ、貴女は今多野翔介を御存知なのかっ!?」彦左衛門は顎が外れるぐらい驚いた。

美女は尚もふふふと笑う。「そう、驚かずとも良かろう。お前が知りたいのはわしの正体か?それとも、翔介が変化したワケか?」

「そ・そ・それは・・・」彼は少し思案した。「出来れば、両方、お教え願いたい」

「欲張るな、教えるのはどちらかひとつじゃ」美女は少し悪戯っぽい目付きになる。「どうも人間は、欲張りでいかんな」

彦左衛門は目を閉じて考え込んだ。そして選んだ。「それなら、貴女がどういう方なのかを、伺いたい」

「良かろう」美女はこっくりと頷いた。

話が長くなるので割愛してお伝えすると、薄絹の美女は『ムシシン(虫神)』といい、八百万の神々の内の一人、虫の神なのだった。それを知った彦左衛門は色々合点して東京へ帰った。彼が帰る時、ムシシンは翔介を哀れみ遠く四国まで旅した彦左衛門の心に感謝してお土産をくれた。それは小さな木箱に入った一束の細い糸だった。飯島家の3つ目の家宝が、この『虫糸』なのだという。

「『虫糸』ってのは、絹のことかい?」仔細にメモを取る八百樹が口を挟んだ。

「彦左衛門も初めはそう思ったようです」白根博士は手の中で空の湯飲みを廻した。「彼の家業は織物業ですからそもそも絹とは縁が深い。美女が虫の神と知った時、毎年大量に蚕から絹を採り、蚕の命を奪う産業の担い手である彦左衛門はゾッとしたことでしょう。しかしムシシンはそれを咎めはしなかった。飯島屋には蚕を弔う祭壇があり、家の者は皆、蚕への感謝の気持ちを忘れなかったからだと思われます」

「・・・と、いうことは、『虫糸』は、絹じゃねぇんだな?」

「はい」博士の落ち窪んだ目の奥が、キラリと光った。「インセクトファイバー。僅か数ミクロンの細さでありながら1本で10トントラックを牽引出来るほどの強さとしなやかさがありその上伸縮自在。人体の細胞に溶け込んで拒絶反応も経年変化も無く患部の治癒を助ける・・・魔法の『糸』です」

八百樹の手からペンがポロリと落ちた。曲がりなりにも薬学部を出た彼はその存在を知っていたからだ。イイジマ化繊が開発実用化し、現代医療の現場では当たり前のように使われているインセクトファイバー。「インセクト(虫)」と付くワケがこれでわかる。

「もっとも彦左衛門が持ち帰った当時はまだ、その真価は誰にもわかりませんでしたが」博士は湯飲みを置いて額を掻いた。「私が、飯島家の『実質的な家宝』と言ったのはそういうわけだからです」



八百樹は床からペンを拾い上げて頭を整理した。昔話は興味深いが枝葉に囚われると到着点を見失う。

「・・・で、あんたはどうしてその、青い『I』の文様を『タスカル』の登録商標に使ったんだ?」

彼が問うと、博士は額を掻く指をそのまま後ろに廻し、かなり寂しくなった頭を撫でながら言った。「白水氏の話にいたく興味をそそられた私は、実際に四国の山寺へ出掛けてみたのです。そこで、『ムシシン』に逢いました」

八百樹は、今度はペンと手帳を同時に落とした。「・・・逢った、だとぉ?本当かっ?」

「本当です」博士はそこで初めて、乾いた唇の端をほんの少しだけ持ち上げて笑った。「彦左衛門の図のカラーコピーが、『結界』を超えさせてくれたのです」

ムシシンの住む山寺は一層荒れ果て、ただの朽ち掛かった倒木と見紛うばかりの有り様だった。探し当てたのは奇跡とも言える。ともかく博士はそこでムシシンに面会し、彦左衛門が訊ねなかった方の問いを投げ掛けた。今多野翔介はなぜイモムシになったのか?奇病を研究する者としてはどうしてもそこを知りたかったからだ。

「ムシシンが言うには、イモムシに化身させることで翔介の命を救ったのだ、ということでした。しかし一命は取り止めてもイモムシの姿になったのでは人間社会で生きて行くことは出来ません。同じ救ってくれるのなら、もっと別の方法はないのでしょうか?と訊ねたところ、ムシシンはそれならこれはどうだと『芋精』を出してくれたのです」

「『芋精』・・・『タスカル』の中の得体の知れねぇ天然成分だな?そりゃ、何なんだ?」

白根博士は肩をすくめた。「『芋精』、読んで字の如し、『芋虫』の『精気』、です」

八百樹の眉間に5本の深い縦皺が寄った。

「これは非常に優れた強心作用のある成分でした。私は小さな製薬会社を立ち上げたばかりの友人と共に『芋精』を主成分とする『タスカル』を開発し、記念に青い『I』の文様を登録商標にしたのです。そして利益の一部を使ってムシシンの山寺の修復を行いました。その後、飯島白水氏の協力を仰いでその一帯が自然保護区となるよう行政に働き掛けました。現在は天然樹林の残る、美しい自然公園となっています」

話し終えると博士は深く息を吐き、満足気にソファに身を沈めた。放って置けばそのまますぐにでも寝息を立てそうだ。八百樹は声のヴォリュームを上げて話し掛けた。

「あんたの話はわかったが、なんで俺の親友が翔介と同じようにイモムシになっちまったのかがわからねぇ。二人には共通点があるがね。絵描きだということと、美男子だということ、それに過労で心筋梗塞を起こした、ということだ。この3つが揃うとムシシンはそいつをイモムシにしてまで助けたくなるってわけかい?いったい全体、どういう論理でそうなるんだ?」

「ムシシンは神です。神に論理などありませんよ」博士は眠たそうな顔で答えた。「女性の神ですし、面食いなのかもしれません」

「面食いなら尚更、イモムシはミスキャストだな。同じ虫にするんでも、せめてクワガタとか・・・」

「クワガタも幼虫時代はイモムシです」博士は目を瞬かせて欠伸する。「あなたの親友も、いずれ、クワガタになるかもしれません」

八百樹は口をへの字に曲げた。「そんなもん、待ってられっかよ」そして首を左右に振る。「あいつは売り出し中の天才芸術家なんだ。とっとと人間に戻ってバリバリ稼いでもらわにゃならん。女房と愛人と子供のためにもな」

彼は手帳とペンを拾って立ち上がった。「邪魔したな博士。俺は今からムシシンに逢いに行く。逢ってあいつを人間に戻すように掛け合ってみる。神様ならそれぐらい出来る筈だからな」

「それなら・・・」白根博士は大儀そうに席を立ち、一端部屋を出て、すぐに戻って来た。「これをお持ちなさい」

皺だらけの手の中には青い『I』の文様があった。「あなたも見取り図をお持ちだが、これは一度『結界』を越えられた保証付きのカラーコピーです。効能は確かですからな」

「そいつぁ、どうも」八百樹は礼を述べて部屋を出た。が、思い直してもう一度顔を出した。

「ひとつ訊くのを忘れていたが」そう言ってポリポリとこめかみを掻く。「今多野翔介は化身によって一命を取り止めたのに、その後どうして死んじまったんだ?」

「ああ、それは・・・」博士は眉をしかめて首を振った。「通りすがりの浪人に姿を見られて斬り倒され、それでも生きている有り様を見て恐れ慄いた隣近所の人々の手によって、48の部分に切り刻まれたからです」



《ハンター-1》

その頃、マスクとベドウィン衣装に身を包んだ翔吾は夫目高原の唐松林を歩いていた。今日はゴーショが来ない日だ。日曜日だし、珍しく亜輝子も休みを取ったので二人で気晴らしに出掛けると言っていた。自分と違ってゴーショは付き合いがいい。家事の他に特にすることも無いのだから当然と言えば当然だが、結局は背景の理由より前景の行動が全てである。二日に一度、ゴーショと食料を送り届ける亜輝子の様子からもそれは伝わって来た。滅私奉公的に尽くす彼に亜輝子の心が移るのは川の水が上流から下流へ向かうみたいに自明のことだ、と翔吾は思った。そうやって片付けた心をしまい込むための引き出しはもう満杯で、どこにも入る余地など無かったのだけれど。

八百樹が借りてくれた工場の居心地はまずまずだった。翔吾は木枠に張った5メートル×15メートルのカンヴァスを壁に固定し、脚立を上ったり降りたりしてハイピッチで制作に励んだ。下塗りやバケツに何杯もの絵具の用意をゴーショに手伝わせたこともあって、巨大な『or−M』の絵はすでに完成間近である。秋から冬に掛けての夫目高原は人気も無く、翔吾は誰にも邪魔されずに絵を描くことが出来た。いや、制作の邪魔をされることより、事情を知らない第三者にこの姿を見られることの方が問題だ。この3週間余り、彼は用心して工場の窓のブラインドを全て閉ざし、施錠も怠らなかった。そして一日中、工場の中に閉じ篭り続けて制作に没頭した。

ところが昨日の朝、窓ガラスをコツコツ叩く者が現れたのだ。用心しながらブラインドをほんの少し上げて見ると、それは一羽のシジュウカラだった。鳥はブラインドの隙間から不思議そうに彼を観察した。

「なんだい、僕が珍しいのかい?」

翔吾が窓を少し開けると、鳥は工場に入って来た。そして高い声で囀りながらあちこちへ飛んでは止まり、カンヴァスの上や、彼の頭の上で羽を休めた。しばらく鳥の動きを眺めていた彼は、スケッチブックと鉛筆を手に取った。すると気配を察した鳥は、椅子の上で上体を反らせてポーズを決めた。

「そう硬くならなくても大丈夫だよ」翔吾は微笑んで紙に鉛筆を走らせる。「自然に動いてくれてていい。僕は描くのが早いから」

その鳥は今朝もやって来て、今度は一端屋内に入った後、外へ出て窓の周りで囀った。

(あなたも、たまには外へ出たら?)鳥はそう誘っているのだ。翔吾は躊躇した後、周囲に人間が居ないのを確かめて、そっとドアを開けた。

考えてみれば、この姿になってからゆっくり外気に触れたのは庭の銀杏に登って月を眺めた時だけだった。そう思いながら、明るい朝の陽射しの中で翔吾は深呼吸した。久しく日光を浴びていなかったのだ。大好きな太陽の光を。瞼を閉じても神々しく眩い、全身に降り注ぐ恵みの光を。

「ああ・・・」

彼は思わず溜息を漏らし、木が倒れるようにその場にパタリと寝転んだ。体を包む布を介して下生えの植物の弾力とその下の大地を感じる。大地の中には無数の生き物がひしめき、植物の生育と環境保持のために働いているのだ。彼は小さな生き物達のことを想った。子供の頃、ひっくり返した動物の死骸の下で蠢いていた働き者の虫達のことを。地球を動かしているのは人類ではなく虫や微生物だ、今でも彼はそう考えていた。

ふと、目を開けると、体の周りにフワフワと白く光るものがたくさん舞っていた。それは大地から立ち昇り、彼を取り囲むようにフワフワ動き、次第に空中高く舞い上がって唐松の梢の先辺りで見えなくなる。大小さまざま、良く見ると色も光り方も微妙に違う。

(なんだろう?)

翔吾は身を起こし、光るものに鉤爪を差し伸べた。フワフワ動くそれのひとつが、鉤爪の上に留まった。するとそれは何かに共鳴するようにボワッと輝きを増し、それからスウッと消えた。

(あれ?今、僕の手が・・・)フワフワが輝きを増したその僅か数秒の間、鉤爪の中に本来の5本の指が見えたのだ。心臓の鼓動が早くなる。(確かに、僕の指だった)翔吾はもっとフワフワを捕まえようと林の中を歩き始めた。だがそれは、追い掛けると風に流されるシャボン玉のように手の届かない高みへ逃げて行く。

(待ってくれっ・・・もう一度・・・もう一度、僕の指を見せてくれ・・・)

そうして彼が唐松林の道筋を左に曲がり、空中に消えて行く最後のひとつを残念そうに見送った時、背後に木の枝を踏み折る音がした。

振り向くと、ハンチング帽にポケットのたくさんあるチョッキを着た男が猟銃を構えていた。男は翔吾の鉤爪と、下生えに引っ掛かって少し持ち上がったベドウィン衣装の裾から覗く吸盤を見て顔をしかめ、ほんの僅かな躊躇の後、引き金を引いた。



「きゃあっ!」という悲鳴とどよめきが甲府駅ビルのレコードショップ『新月堂』に広がった。悲鳴を上げたのはレジの店員だ。彼女は顔面に真っ赤な血を浴び、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせながら目の前の客を見つめた。客は『アベ・マリア』のC.D.を手に持って呆然としたまま左胸から血を吹き出し続けている。ややあって、彼は突然事態に気が付いたように「たいへんだっ!」と叫んだ。

「だっ・大丈夫ですかっ!?す・す・す・すぐに救急車を呼びますからっ!」店員がそう言うまでも無く、他の誰かがすでに救急車を呼び、別の誰かが救命救急セットを持って駆けつけた。が、使い方が良くわからないので他の者を呼びに行った。そうこうする内にたまたま近くの『スタバ』で休憩していた救急隊員が飛んで来て、血だらけの彼を担架に横たえようとする。

「あ、いいんですっ、私は大丈夫ですからっ」などと言っても誰の目にも大丈夫には見えない。なにしろ心臓から掘り立ての油田みたいに血が吹き出ているのだ。彼はあっという間に止血帯でグルグル巻きにされ、担架に乗せられ運ばれて行く。

「ちょっと待ってくださいっ!私をどこへ運ぶつもりですかっ!?」

「どこって、救急救命センターに決まってるでしょうっ!あなた、死にたいんですかっ!?」

「私は死にませんから降ろしてくださいっ!」彼は担架の上で半身を起こし訴えた。「早く行かないと彼が・・・私はここで簀巻きになってる場合じゃないんですっ!」

彼の訴えはトイレから出て来た亜輝子の耳にも届いた。彼女は人だかりを掻き分けて担架まで辿り着き「ゴーショッ!」と叫んで目を剥いた。身を起こした彼は担架から降りようともがき、救急隊員に押さえつけられている。血を吹き出しながら逃げようとする怪我人に戸惑う隊員は混乱した表情を亜輝子に向け、「お知り合いですかっ?」と訊く。

「あ、はい・・・」亜輝子はコンマ1秒の間に全神経を集中して状況判断した。血は流れているがゴーショは死なない、ゴーストの彼を救命救急センターで治療したらエライ騒ぎになる、だからなんとかこの場を「一件落着」に持って行かねばならない、と。そして咄嗟に翔吾のことを思い出した。彼ならこんな時、どんなデタラメを言って切り抜けるんだろう?

「亜輝子さんっ」その時、ゴーショが彼女の腕を掴んで言った。「たいへんですっ、翔吾が撃たれましたっ」

(ええっ!!??)

亜輝子は声も出せずにさらに目をひん剥いた。ゴーショは続けた。「私は夫目高原に行きますから後を頼みますっ。さっきそこの店員さんの服を汚しちゃったので謝っといてくださいっ」彼はそう告げてから目を閉じ、眉間に皺を寄せた。かと思うと次第に輪郭がぼやけ、間もなくフッと消えた。

担架を持っていた救急隊員は互いの顔を見合わせ、空になった担架に目を落とし、それから亜輝子の方を見た。周りを取り囲む野次馬も一斉に彼女を見た。

亜輝子はコホンと咳払いをして髪を掻き上げる。「お騒がせしました。彼は修行中のマジシャンなので、ちょっとコントロールが下手でして・・・予告無く芸を見せるな、っていつも言ってるんですけどねぇ・・・」



《ハンター-2》

轟く銃声と共に、至近距離から撃たれた翔吾は4メートル後ろへ吹き飛んだ。男はすぐに走って来て、今度は彼の頭に銃口を突き付けた。「化け物めっ」男は低く呻くように言い、引き金に掛けた指に力を込める。男の腕はガクガクと小刻みに震えていた。

「なぜ僕を撃つんだ?」翔吾は仰向けに倒れたまま訊いた。「僕が、あんたに何をした?」

男はギョッとして、銃口を少し下げた。「な・な・な・なんだっお前っ、喋るのかっ!?」

「当たり前だ」翔吾は少しだけ身じろぎした。「僕は、人間だ。言葉ぐらい喋る」

「に・人間っ!?」男の顔色がサッと蒼褪めた。「う・う・う・ウソだろっ?に・に・に・人間なら、な・な・な・なんなんだっその体はっ!?」

「ああ、これか・・・」翔吾は捲くれた裾から覗く吸盤をピクリと動かす。「・・・これは、着ぐるみだ」

「着ぐるみ・・・?」男の顔にクエスチョンマークが広がる。「着ぐるみ、ってのは、あれか、ウルトラマンに出て来る怪獣が着てる奴か?」

「そうだよ。ウルトラマンだって着ぐるみを着てる。だけど中には人間が入ってる。僕だって同じだ」

そう言って体を起こそうとした翔吾の頭を、男は銃口で押し戻した。「動くなっ、まだ信じたわけじゃねぇっ!」男は彼の胸に目をやる。弾の当たった痕が布の上に黒焦げのように残っている。そこにはしかし、一滴の血も流れていなかった。

「・・・その、お前の着ぐるみは・・・防弾仕様か?」

翔吾も自分の胸を見た。撃たれた衝撃は痛みを残したがそこに傷は無い。至近距離から心臓に命中したのだから間違いなく即死の筈だった。「・・・そういえば・・・品質表示に防弾仕様って書いてあったかもしれないな」

男は眉間に皺を寄せて少し考え、銃口をずらして今度は心臓に突き付けた。「よし、試しにもう一度撃ってみよう」

「おいっ止めろよっ!」翔吾は思わず顔を背けた。「幾ら防弾仕様でも直に撃たれたんじゃ助からないよ、あんた人殺しになりたいのかいっ?」

「そうじゃねぇ、お前が本当に人間かどうか怪しいから・・・」男は銃を下ろして顎をしゃくった。「人間だと言うなら立てっ。それからその服と着ぐるみを脱いでみろっ」

翔吾は相手から目を逸らさずに反動を付けて立ち上がった。

「さぁ、それを脱げっ!全部だっ!早くしろっ!」男は威圧的に銃を動かして指図する。

「脱げって、ここで?」翔吾が問うと男は苛々した顔で頷いた。

「それは困るよ。着ぐるみの下には何も着てないから、ここじゃ寒いし、公然ワイセツ罪で捕まるかもしれない。どうしても見なきゃ信じないって言うんなら、せめて、あそこの建物の中で脱がせてくれないか?」

男は工場の方へ目をやった。「あれはインク会社の空き工場だ。勝手に入るわけにゃいかねぇ」

「それは知ってる。今は僕の友人が借りてくれて、僕はあそこで絵を描いてるんだ」

彼の言葉に男は節穴みたいな目を丸くした。「絵を描いてるだとっ?化け物のくせに絵描きだとぬかすかっ!?」

「僕は化け物みたいに見えても人間なんだ」彼は相手を促し、二人は互いに警戒しながら工場へ向かった。

工場内はだだっ広く、中へ入ると遮るもの無くすぐに巨大な絵が出迎える。なんせ縦5メートル×横15メートルもの大作なのだ。絵なんだか壁なんだかわからないぐらいだ。男は入り口で「うわっ」と言って立ち止まり、恐る恐る中へ入って完成間近の作品と対峙した。

「・・・なんだ、これは?お前が描いてる絵ってのは、これか?」

男は銃を持ったまま暫く呆然と立ち尽くしていたが、その内絵に近寄ったり遠ざかったりして眺め始めた。『アンナの光』の特大バージョンのようなその絵は、全体が明るい血潮を思わせるオレンジ色に覆われ、その中に無数の小さな命の萌芽が飛び交いさながら万華鏡の如くである。スケールも手伝って見る者はその中に吸い込まれる感覚を抱く。吸い込まれた先は甘く暖かくけだるい至福の子宮だった。全ての命が、そこでは存在を祝福され、大らかな愛情の揺り篭に安らぐことが出来た。

男は床にペタリと腰を下ろし、傍らに猟銃を置いた。そしてゆっくり頭を振った。「・・・凄ぇ絵だな・・・参ったな、こりゃあ・・・」それから翔吾の方を向いて訊いた。「もしかすると、あんたは、有名な芸術家さんかい?」

芸術家さん、と聞いて彼はプッと吹き出した。「全然有名じゃないけど、絵描きだよ。この絵は家のアトリエじゃ描けないから、ここで制作してるんだ。住まいは塩山駅から徒歩8分、線路沿いの一軒家。妻の実家だ。隣近所には『多加さんち』って呼ばれてる」

「塩山の多加さん?」男は頓狂な声を上げた。「多加さんって、市役所の多加杉作さんの家ってことかいっ?」

翔吾が頷くと相手は自分の膝を叩いた。「なんだよ、それを早く言えよ。多加さんなら俺の先輩だ。奥さんが早くに亡くなったんで良く一緒に晩飯を食った。確か娘さんが一人居たが、そいじゃ、あんたは多加さんちの婿さんってわけか?」

翔吾はもう一度頷き、訊ねた。「化け物嫌疑は晴れた?」

「じょ・冗談じゃねぇよ」男は銃を持って立ち上がった。「危うく人殺しになるところだったぜ。だいたい、あんたが着ぐるみなんか着てるから悪いんだ。そこの道の向こう側はシカやイノシシやツキノワグマの狩猟地域なんだから、紛らわしい格好してると撃たれて鍋にされちまうぞっ」

「暖かくて着心地がいいもんで、つい、ね」翔吾は鉤爪を広げて自分の体を見た。「これから気をつけるよ」

「そうした方がいい」男は屋内を横切って戸口に立った。「いきなり撃って悪かったな・・・俺があんたを誤射したことは内密にしといてくれよ」

「幸い死ななかったから内密にしておけるよ」翔吾は相手の目を見た。

「あんたも問答無用で撃つのは止めた方がいい。シカやイノシシやツキノワグマにも言い分はある」

彼がそう言うと、男は黙ったまま顎をしゃくり、肩をすくめて帰って行った。




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