いもむし男−第18章


《スクランブル-1》

ドアが閉まると、翔吾はすぐに鍵を掛け、空気が抜けるようにその場に座り込んだ。

(危なかった・・・鍋にされるところだった)撃たれた胸に手を当てると、心なしか熱かった。ベドウィン衣装を捲って見ると、ちょうど心臓の辺りの皮膚が陥没し、中に弾丸が食い込んでいる。彼は道具箱からピンセット取り、食い込んだ弾丸を引っ張り出した。こんな鉛の塊を食らったんではたまらない。不思議なことに傷は無かったが、安堵した途端に気分が悪くなった。彼はそのまま床に横たわり、問答無用で撃たれるシカやイノシシやツキノワグマを想って目を閉じた。

夕方になり、表に車のエンジン音が響いて翔吾は目を覚ました。あの音は亜輝子のシビックだな、と思う間もなくドアの開閉音がし、すぐに鍵を開ける音がした。亜輝子は慌てふためいた様子で合鍵をガチャガチャ言わせ、飛び込むような勢いで扉を開けたので、もうちょっとで戸口に横たわった翔吾を踏ん付けるところだった。

「あなたっ!生きてるっ!?」亜輝子は足元に転がる彼の体を抱きかかえた。

「大丈夫、生きてるよ・・・眠っていただけだよ」翔吾は半身を起こし体の向きを変えようとして咳き込んだ。鉤爪で口元を押さえると、マスクの隙間からウルトラマリンブルーの血が染み出した。やはり何がしかのダメージは受けていたようだ。この青い血をさっきの男に見られなくて良かった、と彼は心底思った。

亜輝子は彼から離れ、控えの部屋から枕と毛布を持って来た。それからタオルと洗面器と救急箱を持って来た。持って来たものの、何をどうすべきか自分でも良くわかっていなかったのだが。しばし逡巡の末、彼女は言った。「ゴーショが、あなたが撃たれたって言ったのよ。怪我は無いの?」

「怪我は、無いと思うけど・・・至近距離から心臓を撃たれた。痛かった」

「心臓をっ!?」亜輝子は絞り掛けたタオルを放り出した。「たいへんっ、早く診せてっ」言いながらベドウィン衣装を捲くろうとする。

「ダメだよ、見ちゃっ」翔吾は慌てて彼女の手を押さえた。「見ないでくれ、頼むから」

「どうして?」亜輝子は彼の鉤爪から手を解こうとする。「八百樹さんには見せたのに、どうして私はダメなの?」

「だって、八百樹はああいう男だし・・・君には耐えられないよ。風呂場のナメクジだって気味悪がってすぐにお湯を掛けるじゃないか」

だが亜輝子のパワーは有無をも言わさなかった。彼女は鉤爪を押し退け、抵抗する翔吾を押さえ付けて着衣を全て剥ぎ取った。そしてすぐに胸の穴を見つけてタオルに浸した水で洗い、消毒薬で消毒し、穴の中に残留物が無いのを良く確かめてからペタリと絆創膏を貼った。次いで血を吐いた口の辺りを丁寧に拭いた。「他に怪我は無い?」彼女は彼の体に顔を近づけて隈なく点検する。点検しながら6対の吸盤や3対の鉤爪やのっぺりしたのっぺらぼうの頭を優しく撫でた。それからとぐろを巻く尻尾に気付き、「あら、可愛い。これは何?」と言って指を這わせる。

「・・・あ」妻に変身した全身を見られ、ただでさえ緊張に身を硬くする彼が一層体をこわばらせた。「ダメ、そこ、触らないで」

「ここ?」亜輝子はフフンと笑って尻尾を掴み、次第にとぐろを解き始めたその先端をペロリと舐めた。「こんな風にしちゃいけないってこと?」

「ダメだ、ったらっ」翔吾は身悶えした。「前にそこから毒液が出たんだ。危ないから舐めちゃだめだよ」

「あら、残念ね・・・じゃ、こっちならいい?」彼女は吸盤の窪みに順番に顔を埋めてキスをする。花の蜜を吸おうとする昆虫のように。それから身繕いする猫みたいに鉤爪を1本ずつ丁寧に舐めた。

「亜輝子・・・そんなことしないで・・・」彼女の行為に戸惑いながらも彼は次第にリラックスして行った。真っ直ぐ伸びた尻尾は獲物を探すヘビみたいに勝手にのたくっている。鉤爪は妻を抱きしめたくてうずうずしていた。だが到底、彼女の背中には届かない。

「ねぇ・・・口はどこなの?」亜輝子はのっぺらぼうの顔を覗き込んで訊く。「まさか、唾液は毒じゃないんでしょう?」

「それは大丈夫だと思うけど・・・」彼は頭を振った。「僕にキスする気なの?こんな顔なのに・・・気持ち悪くないのかい?」

「いいから、舌を出してみて」

翔吾は躊躇したが、言われた通りにした。亜輝子はミミズみたいな頭を掌でそっと包み、ゴーショが彼にしたように優しく深く唇を重ねた。

傍らでブラウスのボタンを留める亜輝子の横顔を見つめながら、翔吾の胸は激しく痛んだ。いや、撃たれたせいではない。彼は苦しげに彼女に告げた。「ありがとう・・・こんな姿の僕に・・・とても嬉しかった」

彼女はこちらを向いて微笑んだ。「私も嬉しかったわ。1ヶ月振りにあなたと抱き合えて」それから壁の絵を見て言った。「もうすぐ完成かしら?そしたら家に帰って来るんでしょう?」

だが、彼はそれには答えず、決心したように深く息を吐いて言葉を続ける。「亜輝子、僕は君に、言わねばならないことがある」

絵の方を向いた亜輝子がビクリとした。彼女は顔を背けたまま、「ちょっと、待って」と手を上げた。

「それは、今回の変身に関することかしら?」と亜輝子は訊く。

「いや」翔吾はゆっくり首を振った。「違う」

「じゃあ、私が喜ぶこと?」と、彼女は訊く。

「いや」彼は俯く。「申し訳ないが、たぶん君が喜ばないことだと思う」

亜輝子はこちらを向いた。「じゃあ、聞きたくないわ。あなたの胸にしまって置いて」

「そうはいかないよ。僕達の関係の根幹に関わることだから」

彼女は彼の言葉をゆっくり咀嚼した。そして、少しくぐもった声で、訊いた。「それは・・・独りで絵を描くために私と別れたい、とかそういうこと?」

「まさか」翔吾は鉤爪をパッと振った。「君と別れるなんて、そんなことはこれっぽっちも考えて無いよ」

「じゃあ何も問題無いじゃない?」彼女はホッとしたように手を差し伸べて彼の鉤爪を握った。「あなたが絵に没頭したい気持ちは理解しているつもりよ。この絵が仕上がっても、引き続きここで制作したいのなら無理に家に帰る必要は無いわ。あなたが無事、人間に戻った後も、好きな時に好きなところでしたいことをすればいい。クリエイターには誰にも拘束されない時間や刺激が大切だもの。私はあなたがどこで誰と何をしていようが・・・極端な話、たとえ他のオンナとの間に子供を1ダース作ろうが、もう一切、気にしないことにしたの。最後に忘れずに私のところに帰って来てくれさえすればいい。もし仮に人間に戻れなくっても、私はあなたが生きていて私の夫であり続けてくれて、私の人生の仕事以外の核として存在し続けてくれれば満足なのよ」

翔吾は目を瞬かせて絶句した。彼女は言葉を続けた。

「私達はあの日、飯田橋の道端でたまたま出逢っただけ。それから夫婦になったけど、私もあなたも互いが互いにとって完璧な人間ってわけじゃないわ。だから私の至らない部分をあなたが他の誰かで補っても構わない。無理なことを要求されるよりはずっとマシよ。あなただって、そうでしょう?」

「・・・君は、どうして・・・」彼は乾いた咽の奥から声を絞り出した。「・・・急に、そんなに物分りが良くなったんだ?」それはおそらくゴーショの献身の賜物だ、と思いながら訊いてみる。

「まぁ、失礼ね。元からそんなに分からんちんじゃないわよ。私を何だと思ってるの?」

「ごめんなさい、優秀な建築士だと思っています。あ、それ以前に、人間として尊敬しています」

彼が謝ると、亜輝子はフフフと笑った。「あなたみたいに自分勝手で気分屋で行き当たりばったりで人の迷惑も顧みないデタラメでメチャクチャでクレイジーで、その上イモムシに変身したりする芸術馬鹿と夫婦やってるんだから、達観ぐらいするわよ」

「凄いな・・・そんなに並ぶなんて・・・光栄だな」

「・・・全くね、ゴーショがあなたの分身だなんてウソみたいだわ。顔はそっくりなのになぜこんなに違うのかしら?彼はどうして全身全霊を上げてあなたに尽くすのかしらね?」

「君にも尽くしてるだろ?」彼は思わずポロリとこぼし、慌てて言い添えた。「相手が誰でも人の役に立つことが嬉しい奴なんだよ。きっと僕の性格の裏返しなんだ。だからゴーストなんだ」そして突然気が付いた。「そういえば、ゴーショは今、どこに居るんだ?」

「ああ、そういえば・・・」彼女は今さらのように辺りを見回した。「ここへ来なかったの?」

「来ないよ。ずっと一緒じゃなかったの?」



《スクランブル-2》

亜輝子は首を横に振り、甲府の駅ビルでの一部始終を話した。ゴーショが消えた後、彼女は救急隊員に平謝りに謝り、『新月堂』の店員にクリーニング代を渡し、警察に呼び出されネチネチと事情聴取されてここへ来るのが遅くなったのだ。それなのに先に行くと言ったゴーショが行方不明になってしまった。

「あいつ、担架から消える時、どこか変じゃなかったかい?」そう翔吾に訊かれても、消え方が変かどうかまではわからない。

(半端に人間臭くなってたから、空間移動に失敗したのかもしれないな)

翔吾は最悪の事態を思い浮かべてゾッとした。ゴーストだから死なないとゴーショは言っていたが、彼はもはや完全なゴーストではないのだ。

「どうしよう・・・ゴーショにもしものことがあったら・・・」亜輝子が眉間に皺を寄せた。「家に帰っていた方がいいかしら?」

「彼はここに来ようとしてるんだからここで待ってた方がいいと思うよ」翔吾は起き上がって服を着た。見られた後とはいえ、人間離れしたこの姿はやはり隠した方が気が楽だ。彼は厨房へ行き、昨日ゴーショが作り置いた料理を温めた。「とりあえず飯でも食おう。腹が減った」

「よくこんな時に食事出来るわね」亜輝子が呆れた声を上げる。そう言いながら彼女の腹の虫も鳴いていた。二人は工場の片隅に置いたテーブルに向かい、ミネストローネを啜りパンを齧った。

その数分後・・・

何かを無理矢理引きちぎるような奇妙な音と共に空中に現れた物体が、彼等の目の前の床にボトリと落ちた。亜輝子はそれを見た瞬間、ミネストローネを吹き出して顔を覆い悲鳴を上げた。落ちて来たのは人間の手首だったからだ。

翔吾はハッとして天井を見た。と、思う間もなく次々とバラバラになった血みどろの人体がボトボト降って来る。最後に頭が落ちて来た。それはゴーショの頭だった。

「い・嫌ぁーっ!」亜輝子は椅子を倒して壁際まで飛んで逃げ、ブレーキの壊れた車みたいな悲鳴を上げる。翔吾も席を立ち、彼女を覆うようにマントで包みながら落ちた体を見守った。これが人間ならどんな奇跡が起こっても生きている筈のない状態である。手足はおろか、胴体も千切れてなにがなんだかわからないような有り様だ。しかし注意深く見ていると、バラバラになった部分はそれぞれかすかにピクピク動いていた。

「ゴーショ!しっかりしろっ!」翔吾は亜輝子を抱いたまま声を掛けた。すると彼の呼び掛けに応えるように、ゴーショの頭がくるりとこちらを向き、かすかに目を開けた。

「・・・翔吾・・・無事だったの?良かった・・・」

「僕の心配より自分の心配をしろよっ!そんなにバラバラになって、大丈夫なのかっ!?」

彼が問うと、ゴーショは横目で床に散らばる自分の体を見た。「・・・すみません、お見苦しいところをお見せしました」最初に落ちた彼の手首がヒョイと立ち上がり、散らばった体を一箇所に集め始める。「・・・実はここへ来る途中でなぜか特急の前に落ちて撥ねられて・・・しばらく気絶している内に体を片付けられてしまったんです」集められた体は少しずつ合体を始めた。「それで、回収された場所から逃げ出して来るのに手間取りました・・・遅くなってすみません。あなたに借りている服も、ダメにしてしまいました」

見ている内に体は立ち上がり、胴体は自分で腕をくっつけ、その先に手首をくっつけ、最後に床から頭を拾ってヘルメットでも被るみたいに首に戻した。接合箇所はすぐに馴染んで継ぎ目も残らない。流れていた筈の鮮血もいつの間にか消えていた。

「亜輝子、もう大丈夫だよ、見てごらん」翔吾はマントの陰から彼女を押し出した。顔を覆って泣いていた亜輝子は恐る恐るゴーショを見る。目の前には何事も無かったかのような彼の笑顔があった。傷一つ無い美しい裸身。亜輝子はしばし彼の全身を凝視し、それから飛びついて抱きしめ、愛しそうに頬を撫で擦った。

「ごめんなさい、亜輝子さん、驚かせて。気持ち悪かったでしょう?」ゴーショは彼女の髪を撫でた。「私はゴーストだから絶対に死にません。ミキサーで粉々にされても平気ですからどうか心配しないでください」

「本当?本当になんともないのね?あんなになっても平気なのね?凄いわ、ゴーショ・・・」

「凄くはありません」彼は唇を寄せようとする彼女をそっと押し留めた。「私は生き物ではないのです。そもそも生きていないから死なないだけです。自慢出来るようなことではありません」

「生き物じゃないなんて・・・私にとってあなたは血の通った人間よ」

亜輝子は自分を押し留めるゴーショの手を握って体を引き寄せ、半ば強引にキスをした。



ふと、背中に視線を感じ振り返ると、いつの間にかスケッチブックと鉛筆を手にした翔吾がこちらをじっと見つめていた。亜輝子はゴーショから離れ、上目遣いで彼を見る。「・・・ごめんなさい、あなた・・・だって、私・・・ゴーショが可愛いくって・・・」

翔吾は鉛筆を持った鉤爪を振る。「僕は、まだ、何も言って無いよ」

「でも今から、何か言うんでしょ?」

「まぁね」彼は指揮棒を構えるみたいに鉛筆を上げた。「・・・そう、こう言おうと思ってた。『ディーゼン・クス・デア・ガンツェン・ヴェルト』」

亜輝子は怪訝な顔をする。「なに、それ?・・・魔除けの呪文?」

「『全世界にこの接吻を』・・・シラーの詩だよ。クリムト先生のベートーベン・フリーズ『歓喜』のテーマでもある。抱き合い接吻する男女は美しい」翔吾は上げた鉛筆の先を亜輝子に向ける。「君に頼みがある。今さらだけど、君のヌードを描きたくなった。もう一度、服を脱いでくれないか?」

「ここで?今?」彼女は辺りを見回す。当然のことながら隣に立つゴーショと目が合った。「・・・ゴーショが居るのに?」

「ゴーショは僕のゴーストだ。恥ずかしがることはないよ・・・どうしても嫌だって言うなら無理にとは・・・」

「わかったわ、脱げばいいんでしょ?それぐらいどうってことないわよ」覚悟を決めた彼女はついさっき着たばかりの服を脱ぎ始めた。次々に床に放り投げられるそれをゴーショが黙々と拾ってきちんと畳む。

「ありがとう。ご協力、感謝するよ」翔吾は頷いてスケッチブックのページを開いた。「じゃ、二人で今みたいに抱き合って、キスして」

彼に言われ、亜輝子は半ばヤケクソに、ゴーショは全く無表情のまま、抱き合い、キスをする。

「違うな。心が篭ってない。真剣さが無い」翔吾は鉛筆を振る。「さっきのは感動的に美しかった。頼むから真面目にやってくれ」

「真面目に、というのは」亜輝子が確認する。「ポーズを上手く、ということ?それとも迫真の演技で、ということ?それとも、本気で、ということかしら?」

翔吾は深く息を吸い、当然だろと言いたげに吐き出した。「・・・本気で、だよ」

それからゴーショに言った。「僕に気兼ねするな。僕は今、君達が愛し合う姿を見たいんだ。嫌がらせをしてるんじゃない、抱き合う君達を描きたいだけだ。次の絵の構想が浮かんだからデッサンに描き留めて置きたいんだよ。僕の頼みを聞いてくれるね?」

ゴーショは何も言わず、目を伏せて静かに頷いた。それから、躊躇する亜輝子を抱き寄せ、激しく熱烈なキスをした。驚きもがく彼女の手からすぐに力が抜けて行き、全身から歓喜のオーラが立ち昇り始める。翔吾の記憶中枢から学んだレシピは効果絶大なのだった。

「いいね、その調子だ、素敵だよ」翔吾は目を二人に向けたままハイスピードで鉛筆を走らせた。スケッチブックは瞬く間に新しいページへと移る。抱き合う全裸の男女をデッサンするチャンスなんて滅多に無いのだ。しかも、普通、モデルは本気になってはくれない。彼は目の前で一つの炎のようになりながら唇を重ね合わせる二人の姿に全神経を集中してデッサンを続け、次々とページを捲った。

暫くして、翔吾は言った。「はい、じゃ、次ね。そのまま本番、行ってくれる?」

(え?)と目を見開いた亜輝子の体を、ゴーショは躊躇わず押し倒した。



彼等が創造的且つアダルトな夜を過ごしている頃、私立探偵七尾八百樹は四国へ向かう飛行機の中から電話を掛けていた。八百樹は翔吾と異なり、木の天辺は苦手だが飛行機なんぞは屁とも思っていない。「俺の乗る飛行機は絶対に落ちない。なぜなら、俺が乗っているからだ」というのが彼の気迫理論だからだ。

「おう、俺だ。夜中に悪いが、ちょいとメモを取ってくれたまえ」掛けた先は『21世紀アート』の記者・槍杉一平の携帯だ。若者は経験不足の分、適応力がある。いきなり用件を切り出されるのにも、もう慣れた。

「イイジマ化繊の会長の飯島白水氏にアクセスして貰いたい。チャペル美術館建設の大口カンパ候補だ。今多野翔介の子孫と思われる天才芸術家の作品を収める美術館だと言ってな。イマダノは未野と読みは同じだが字が違う。今昔の今に多い少ないの多で野は同じだ。翔介は翔吾の翔にスケベエのスケ、じゃねぇ・・・」

「ナントカノスケの介ですか?介助の介」

「ああ、それだ。先祖まで日本のカサノヴァとは限らんからな」言いながら八百樹は人差し指を鼻の穴に突っ込んだ。



《ムシシン-1》

「日本のカサノヴァ・・・?」電話の向こうで槍杉が一瞬首を傾げ、それから気を取り直して言う。「それにしても、未野先生のご先祖様が見つかったなんて凄いですねぇ」槍杉は八百樹の言葉を鵜呑みにした。この辺りはまだまだ鍛錬が必要だ。

「本当に先祖かどうかはわからん。とりあえずそういうことにする、ってことだ」

「あ、はぁ・・・」

「ところでそっちはどういう按配だ?」鼻の穴から引き抜いた指先を見つめながら、八百樹は問う。

「はい、『摩天楼』での展覧会は会場の準備が整いましたので、予定通り今週の金曜日がオープニングです。出来ればオープニングパーティーには先生にもご出席いただいてご挨拶願いたいところなんですが・・・」槍杉の声が閉園間際のテーマパークの噴水みたいに勢いを失くした。「・・・未野先生は、きっと、パーティーはお嫌いなんでしょうねぇ・・・」

(実は必殺宴会男だったとしても出られる状態じゃねぇよな)八百樹は変身した翔吾の姿を思い浮かべ、次いでそっくりなゴーショを思い出した。若干の不安要素はあるが宣伝効果を考えると居ないよりはマシかもしれない。喋らせなければなんとか使えるか・・・ 「ダメ元でパーティへの出席は俺が説得してみよう。参道美紀の方はどうなってる?」

「はい、美紀さんのマネージャーにも了解を取り付けまして、先生のアトリエで芸術をテーマにしたインタヴュー形式の対談をセッティングし、それをベースに私がチャペル美術館建設の宣伝記事を書く、という段取りになりました。記事の反応次第で、その後テレビ局も食いついて来ると思います。美紀さんにとっては少々スキャンダラスな・・・出生の秘密に関わることでもありますからマネージャーは難色を示していたのですが、そっくりなお兄様が美形の芸術家だというのはイメージアップにはなってもダウンにはならないだろう、と最終的にはそういう判断になりまして・・・」

「・・・なるほど」美形ね、4週間前まではな、と彼は顔をしかめる。「日程は?」

「それなんですが、先生のご都合もおありでしょうけど美紀さんのスケジュールも立て込んでいらっしゃって、マネージャーが言うには今週中であれば融通が利くが来週からはロンドンでロケがあるので調整は困難だろう、ということでして・・・」

「今週中か・・・」八百樹はまだ逢っていないムシシンのことを考えた。(これは正に神頼みだな)だが、上手く行けば人間に戻った本人をパーティーに引っ張り出すことも出来る。「じゃあな、なるべく猶予を付けて、土曜日はどうだ?俺は仕事でこれから四国なんでな。戻ってから未野にこの件を伝える。先生は気紛れだからその気にさせるのに時間が掛かるかもしれねぇ。気が乗りゃあ即決OKだしヘソを曲げたら百年待ってもNOだろう。だからギリギリ、土曜日だ」

「わかりました。その線で参道さん側と調整します」

頼んだぞ、と言って八百樹は電話を切った。



翌朝、八百樹は四万十川の支流のひとつ、『虫水川』の川岸に立っていた。水虫川ではない、虫水川なので間違えてはいけない。昨夜の宿屋の主にムシシンのことを訊ねたが有益な情報は何も得られず、宿を出てから道で最初に出逢った老婆に訊ねたが訛りのせいで何を言っているのか理解出来なかった。「ここらぁで虫ちゅうたらぁなんぼぉでもなぁ虫ちゅう言うようがやきにこればぁ虫ちゅうてもよう言わんがで嫌ちやがよぉ」ってな具合だ。八百樹は諦めて、白根博士に教えられた自然公園を真っ直ぐ目指した。

ムシシンの住む山寺は『虫水川』から急な崖をググッと登った剣呑な斜面に建っていた。だが苦労して斜面を登ったところで、反対側にさり気なく整備された公園が広がっているので少々拍子抜けする。八百樹は「ふんっ」と鼻を鳴らし、こめかみをポリポリ掻いてから山門をくぐった。飯島彦左衛門の言い伝え通り、そこに社は建っていない。

八百樹は白根博士の話を思い出しながら寺の周囲を偵察した。天然樹林はそのままに、遊歩道だけが整備された美しい自然公園だった。美しすぎて、彦左衛門の嵌った沼はもうどこにも見当たらない。これではどうやってムシシンを呼び出せばいいのか?

暫し思案の末、彼は山門の前に戻って野太い声を張り上げた。「頼もうーっ!」

だが、応える声は無い。

(引越しでもしやがったかな?)八百樹は頭を掻き、ポケットに手を突っ込み、もう一度言った。「頼もうーっ!」

だが、かすかな風に木々の葉擦れが聞こえるだけで何の反応も無かった。

「おいっ!出て来やがれっムシシンっ!ここに居るこたぁわかってるんだっ!」苛立つ八百樹は大声で怒鳴った。「俺は未野の変身の件でここへ来たっ!とっとと現れねぇと寺に火ぃ点けるぞっ!」

八百樹は内ポケットからピストル型ライターを取り出し、引き金を引く。シュポッと音を立てて銃口に火が灯った。それを構えたまま寺に一歩、また一歩と近づく。そして小さな本堂の軒先まで来た時、突然誰かに襟首を掴まれ放り投げられた。

(うわっ!)一瞬、天然樹林が自分の足元に見えた。だが伊達に体を鍛えているわけではない。八百樹は空中でくるりと回転し、見事に足先から大地に着地した。ちなみにこの着地は「秘伝・猫の恩返し」と言う。

さて、振り向くとそこには黒装束の小山のような大男が居た。白い薄絹を纏った美女ではない。これではあまりに話が違う。

「な・なんだ、てめぇはっ?」八百樹は肩で息をしながら訊いた。訊いてから念を押した。「おいっ、答えるなら標準語で頼むぜっ」

大男は身構えたまま、あるんだか無いんだかわからないぐらい小さな目玉で八百樹を観察する。そして標準語で言った。

「無礼な奴め、お前こそ名を名乗れ」

「俺か?」八百樹は内ポケットから煙草を取り出し、ピストル型ライターで火を点け勢い良く煙を吐き出す。「俺は天才私立探偵、七尾八百樹だ。覚えとけっ」

大男は煙草の煙にゲホゲホとむせた。「馬鹿者っ!境内と自然公園内は禁煙だっ、知らんのかっ!?」

「おっとそうかい、そいつぁ悪かったな」八百樹は携帯灰皿を出して吸殻をしまい、ポケットに手を入れたついでに青い『I』の文様のカラーコピーを引っ張り出した。「ところで俺はこの通行手形みたいなのを貰ってここへ来たんだが」言いながらコピーを大男に見せる。「てめぇが、ムシシンか?」

相手は小さな目をパチクリさせてそれを一瞥し、「何が通行手形だ。こんなものは何の役にも立たん」と素っ気無く仏頂面を決め込んだ。「帰れ。ここはお前のような無礼者の来るところではない」

「ほぉー、そうかい?俺が無礼かい?」八百樹はコピーを懐へ仕舞い、腕組みをする。「俺は挨拶もしたし名乗りもしたぜ。吸殻だって片付けた。ちいっとばかりスピードは出すが16年間無事故無違反のゴールド免許保持者だ。道路に唾を吐いたこともねぇし立ちションだってしねぇ。出された食い物は飯粒一つ残さねぇし食ったものはへべれけに酔ってもケツの穴以外からは出さねぇ。お袋は敬虔なクリスチャンだが親父は熱心な仏教徒で俺は毎年武田神社に初詣して賽銭を3万円放り込んでいる。しかも25で結婚して以来ただの一度も浮気したことがねぇんだっ。この非の打ち所の無い俺のどこが無礼だってんだ?え?」

自信たっぷりに問う八百樹を大男は冷ややかに見下ろし、「愚か者め、そういうお前の神をも恐れぬどこまでも強気な態度が無礼だと申しておるのだ。神の御前だという謙虚さが微塵も見当たらん。まるで話にならん、帰れ」と言い捨てクルリと背を向けた。

「あ、待ちやがれっこの巨大黒玉野郎っ!」

その時、追い掛けようとした八百樹の靴先が小石を蹴り上げた。故意ではない、不可抗力、事故である。だが、その小石は大男の後頭部にカーンという小気味良い音を立てて命中する。

「うっ・・・」と、唸った相手はその途端に姿を消した。八百樹はハッとして辺りを見回し、次いで大男の立っていた場所に駆け寄り、地面に仰向けにひっくり返った小さな黒い虫を発見する。

(なんだ、さんざん偉そうなことぬかしやがって、正体はゴミ虫じゃねぇかっ)

八百樹は気絶したゴミ虫を靴の底で踏んづけようとした。

ところが、目に見えないバンドで固定されたように、上げた足がピクリとも動かなくなった。動かないどころかどんどん持ち上がって行く。仕舞いにはバレーダンサーみたいに片足を高く上げる羽目になった。

「痛てててて・・・」バランスを崩した彼は地面にひっくり返って股を押さえた。「お・俺が悪かったっ!やめろっ!やめてくれっ!やめてくださいっ!ごめんなさいってばっ!うわっズボンが破けるっ!俺の股が裂けるっ!」ややあって、ビリッという鈍い音が響き、股関節がグキッと嫌な音を立てた。

(あ・・・かなり、痛かった・・・かも)

地面に大の字に横たわり、苦痛に歯を食いしばる八百樹の頭の横に、彼を見下ろすムシシンの姿があった。



《ムシシン-2》

「ふん・・・」ムシシンは八百樹に向かって顎をしゃくった。「お前は本当に翔吾の友達か?とてもそうは思えぬが」

八百樹は自由になった足を恐る恐る動かしながらムシシンを見た。白い薄絹を纏った美女、言い伝え通りの姿、今度は本物らしい。

「あやつは虫を愛でておる。たとえゴミ虫といえども、いや、死肉を貪る蛆虫でさえ殺したことは無い」ムシシンはどこか遠い目をして言った。「殺さないだけでは無い。この世に於ける虫達の役割を良く理解しておるのだ。だから敬意を持って虫に接する。お前とは大違いじゃ」

それからムシシンは、痛みのためにまだ起き上がれずに居る八百樹の傍らにしゃがんで顔を覗き込んだ。

「それだけでは無いぞ。あやつは人間の虫への理不尽な仕打ちに心を痛め続けておる。まだほんのガキの頃から今日に至るまでずっとじゃ。勿論、虫に対してだけでは無いがの。生きとし生けるもの全ての抗議する声を持たぬもの達が、人間に住処を奪われ虐殺されて行くのを我が身のことのように嘆き悲しんでおるのじゃ。人間と他の生き物を分け隔てなく愛し、生物か無生物かを問わず共感する心を持っておる。千人に一人の割合でああいう人間が居るというのが他の生き物にとっての救いなのじゃ」

「・・・千人に一人?」八百樹はようやく半身を起こして訊ねた。「あんな変な奴が千人に一人も居る、ってぇのは、ちと多過ぎやしねぇか?」

「そんなことは無い。ほとんどの者は本当の想いを表に出さぬだけじゃ。変人扱いされるのがオチだからの」

「そりゃあ誰だって、死骸にたかる蛆虫に向かって謝るのを見りゃあ・・・」八百樹は股の具合を確かめながら地面に胡坐を掻いた。「まいったな。じゃあ、あんたはそういう奴が死に掛けた時はどいつもこいつもイモムシにして助けてるのか?その割にゃ、イモムシ男ってのを近所の商店街で見掛けたりしねぇな」

「誰でも助けられるわけでは無いのじゃ」ムシシンは着物の裾を翻して立ち上がった。「股の具合はどうじゃ?立てるようならお前も立て。社で茶でも淹れてやろう」

ムシシンが歩き出したので八百樹も立って後に従った。股関節は錆び付いた一輪車みたいにギコギコ鳴ったがどうにか歩くことは出来る。足を動かす度に裂けたズボンの隙間から冷たい空気が忍び込んでくすぐったい。顔に似合わずお洒落な彼は、こんな格好のまま飛行機に乗って帰らねばならないのかと思うと気が重かった。

そんな八百樹の心情を知ってか知らずか、ムシシンは社に入るなり大戸をピシャリと閉めて言う。「履物を脱げ。繕い虫を呼ぶ」

「繕い虫?」

「いいから早く脱げ。下履きもじゃ」

ズボンに手を掛けた八百樹が表情を固めた。「・・・いや、パンツは破けて無いから、結構だ」

「何をぬかすか。下履きも裂けておる。裂けたのはわしのせいじゃ。だから繕うと言うておるのじゃ。気に入らんのか?」

「いや、気に入らんとか入るとかいう問題じゃねぇんだが・・・」

「早くしろ。わしは神じゃ。恥ずかしがることは無い。恥じるならゴミ虫を踏み殺そうとした先ほどの行いの方を恥じろ」

八百樹は顔を赤くして行いの方を恥じ入った。それからズボンを脱ぎ、(えーい、こうなったらヤケクソだっ)とパンツも脱いでムシシンに差し出した。確かに言われた通りパンツも破けていた。ムシシンは全く表情を変えずに受け取った服をポイッと傍らに投げる。すると床板の隙間から白いイモムシがヒョコヒョコと何匹も顔を出し、八百樹のズボンとパンツの上を這い廻り始めた。彼等は口から吐き出した糸を使い、小刻みに頭を振って裂け目を繕って行く。

「まぁ、そこへ座れ」ムシシンは藁座布団を示し、いつの間にか湯気を噴いている鉄瓶から茶を注いだ。「お前が悪人でないことぐらいわかっておる。普通の人間なだけじゃ。普通の人間はゴミ虫など気にも留めん。虫達もとうに諦めておる」

八百樹は藁座布団の上に胡坐を掻いて座り、さり気なくシャツを被せて股間を隠した。ムシシンは白く細い腕を伸ばしてその前に湯飲みを置く。

「さっき言うた千人に一人の者どもだが、仮に死に掛けても皆をイモムシにするわけにはいかん。なぜなら幾ら虫を愛でておる者といえども・・・」そこでムシシンは鋭い視線を八百樹に向けた。深緑色の瞳が玉虫色にギラリと光る。

「そのような者であっても、自らがイモムシになることには耐えられんからじゃ。ま、おそらくはな、99.9パーセントの確率で発狂する」

「言われてみれば確かにそうだな」八百樹は湯飲みを手に取り呟いた。「もともと発狂したみたいなところのある奴だから気が付かなかったが・・・」

彼の言葉にムシシンは一瞬眉をしかめたが、すぐに元の仮面みたいな無表情に戻った。「いや、翔吾は発狂しておらんのじゃ。イモムシに化身させても発狂せん奴とわかっておったから助けることが出来た」

「だからよ、もとから発狂してたからあれ以上変になりようがなかったんじゃねぇのか、って俺は言ってるんだ」言いながら八百樹は茶を啜り、口の歪むほどの苦さに寸でのところで吹き出しそうになった。いったい何の茶なのか大いに気になったが訊くのも恐ろしい。

「お前と話していると頭が混乱するな」ムシシンは何気ない顔で同じ茶を啜り、湯飲みを床に置いた。

ふと見ると、ズボンの上で動いていたイモムシが一列に並んでムシシンにピョコリと頭を下げ、順番に床板の隙間から退場するところだった。ムシシンは八百樹の前にズボンとパンツをぞんざいな手付きでポイッと投げる。「出来たようじゃ。大事なモノが風邪をひくとイカンから、早く履け」

言われるまでも無く、彼は急いでパンツとズボンを履いた。全身ならともかく、下半身だけ生身を晒しているというのは落ち着かないことこの上ないのだ。ウソだと思うならやってみればわかる。しかも美女の前で、だ。

身支度を整えて、彼は藁座布団に座り直した。「それで、あんたが死に掛けた未野をイモムシにして助けたのはわかったが、この後、どうなるんだ?そろそろ人間に戻してやってもいいんじゃねぇか?」

「ところが話はそう簡単ではない」ここで、正座していたムシシンはやおら片膝を立て、膝小僧の上に腕を置いて身を乗り出した。当然、着物の前がはだけて白い太腿が剥き出しになる。八百樹は思わず顎を引く。

「実はな、あやつが死に掛けたのは過労のせいではないのじゃ・・・ここだけの話だが・・・本当はな、神罰が下ったのじゃ」

「神罰・・・?」八百樹は口髭をモゴモゴさせる。「・・・浮気したからか?」

「たわけっ」ムシシンはふんっと鼻を鳴らした。「浮気ごときでいちいち神罰を下すほど神は暇ではないわっ」そう言って着物の裾を捲り上げる。どうやら話している内に興奮して来たらしい。

「あやつが神の領域を侵したからじゃ。あやつはイノチの宿った絵を描いた、それがな、シヴァ神の怒りに触れたのじゃ」

「シヴァ神?」

「創造と破壊の神じゃ。ヒンドゥー教徒が名付けた神だが、神に国境は無いからの。八百万の神に混じってこの国にも目を光らせておる。だが、実際にシヴァ神を手引きしたのはギリシャから来た奴で、ミノタウロスと言う、不細工なモノノケじゃ」

(ミノタウロス?)なんだかどこかでそんなような名を聞いた気がするな、と八百樹は片方の眉毛を吊り上げ思案する。

「そやつは不届きにもタマシイの闇取引を行っておるのじゃ。シヴァ神に翔吾のタマシイを高く売り付けようと思い付いたのだろうな。創造の神はイノチを創造する人間に嫉妬する。だが、同時にそのような人間のタマシイを欲しがるのじゃ。その気持ちはわからんでもない。しかし、わしは何としてもあやつを救いたかったっ!」

興奮したムシシンは、拳でドンッと床板をぶっ叩いた。途端に驚いたムカデとゲジゲジが天井からバラバラと百匹ぐらい降って来て八百樹をギョッとさせた。

「わしはな、翔吾の心臓を締め上げて殺しタマシイを奪い今まさに天へ帰ろうとするシヴァ神のフンドシを引っ掴んでちょっと待てと押し留め、説得したんじゃっ。何と言ったかわかるか?」

八百樹は自分を取り囲み虫視、いや注視するムカデとゲジゲジに心の中で(それ以上近づくなよ)と言いながら首を傾げた。

「人間は歯止めが効かぬ愚かな生き物じゃ。だがそれゆえ面白くもある。先を見る目を持つ神なら馬鹿馬鹿しくて絶対やらんようなことをやるのが人間じゃ。だから時に神業を超えたものを創り出す」

なるほど、と八百樹は頷いた。

「そう言ってな、シヴァ神に、この者のタマシイを戻し、この者の視点から人間による創造を楽しんでみてはどうか?と持ちかけたのじゃ。一度死んだ心臓は、わしがイモムシに変えてやれば蘇らせることが出来る。そこへ巨大なシヴァ神の一億分の一の分身を住まわせる。小さいシヴァじゃ。豆柴みたいなもんじゃ」

(うっ・・・)と八百樹は詰まった。今のは笑うべき冗談なのか何なのか判断に迷う内にムシシンは話を先へ進める。

「シヴァ神はわしの提案に乗って来た。彼とて伊達に創造の神をやっとるわけではないからの、根がポジティヴ思考の奴なんじゃ。もし俺を充分楽しませたら、イノチの宿る絵を描くのを許してやろう、と言いおったわ。逆にもし翔吾が己を悲観して創作を止めたりすれば、シヴァ神は退屈してあやつを再度殺そうとするじゃろう。今のところその心配は無用のようだがな。特に昨夜は面白かったと言っておった」

うーむ、と八百樹は腕を組んだ。いつの間にか彼の膝の上にムカデとゲジゲジが這い上がって来ていたが、それも気にならないぐらい真剣に考え込んでいた。「・・・ということは、あいつの心臓に住み着いてるのは寄生虫じゃなくて創造の豆柴で、そいつはずっと居座ってあいつはずっとイモムシで、絵を描くのを止めた途端にもう一度死ぬ、ってことなのか?」

「シヴァ神がいつまで居るかはわからん。神は気紛れだからの」ムシシンは胡坐を掻き、太腿の上に頬杖を突く。「いずれにしても、翔吾が人間の姿に戻るには一端サナギにならねばならん。その後、羽化する。いわゆる完全変態じゃ」

「完全変態・・・完全な、正真正銘の、疑う余地の無い、変態・・・」八百樹の眉間の縦皺が2本追加される。

「その変態ではない。サナギの中で体が全て溶けるのじゃ。そして新しい体になって羽化する。その時、シヴァ神が去るか、共に溶けて翔吾に同化するか、それはわからん。気に入れば同化を望むかもしれん」

八百樹の頭の上でムカデとゲジゲジがとぐろを巻いて昼寝を始めた。だが、彼はそれどころではなかった。「待ってくれよ、サナギになって羽化するだとぉ・・・するってぇと、つまり、それはいつ頃になるんだ?」

「そうさな、当初の予定では来年の春だったのだが・・・」ムシシンは目を伏せた。「昨日受けた衝撃のせいで変化が早まっておる。この分では今月末にはサナギになるだろう・・・羽化は真冬だ。条件は厳しいが止むを得まい」

「昨日受けた衝撃・・・ってのは?」

「猟銃で心臓を撃たれたのじゃ。5メートルの距離からな。あやつは4メートル吹き飛んだ」

「なんだと、撃たれただとぉっ!?」驚いた八百樹が飛び上がるように立つと虫達もバラバラ落ちて目を回した。「あの馬鹿、外に出やがったなっ!?」

「心配無用じゃ、怪我は無い」ムシシンは微笑んだ。「撃たれたのがシヴァ神の居る心臓で良かった。わしの結界も張ってあるしな。神に弾丸など通りはせぬわ。ただ、衝撃で変化は早くなる。身の危険を感じると成長が早まるのが自然の摂理じゃ。幼虫は弱いからの」


飯島彦左衛門の時は一度に一つのことしか教えなかったムシシンが自ら率先して翔吾変身の真実を明かしたのは、自分を信頼したからというよりは、おそらく「気分」だろうなと八百樹は思った。神は気紛れだ、と本人が(人ではないけれど)言っていたのだ。気紛れに貧乏神や疫病神に取り付かれたのではたまらないが、芸術家が創造の神に住み着かれたのなら本望だろう。大歓迎の筈である。だがムシシンは、このことは決して誰にも言うなと念を押した。

「住み着いたシヴァ神はただの観客なのじゃ、創造を手伝うわけではない。だがもし翔吾がそれを知れば、あやつは自分の創作力は神が宿るためかと思い自信を失くすだろう。もし創意を失えば今度こそ命取りじゃ。それを忘れてはならん」



社を後にした八百樹は県道に出て携帯でタクシーを呼び、待つ間に槍杉に電話した。

「おう、俺だ。参道美紀との対談の件だがな、とうぶん無理だ。パーティーも出れん」

電話の向こうに怪訝な空気が流れる。「何か、あったんですか?・・・先生に・・・」

「ああ、それがな、実はな・・・誰にも言うなよ」八百樹は額をポリポリ掻く。口止めされたのはシヴァ神のことだけだ。

「はい、誰にも言いません」槍杉は緊張してゴクリと唾を飲んだ。

「実はな・・・先生は只今、変身中だ」

「変身中、ですか?」槍杉は鸚鵡返しにしてから暫く考えた。「変身中、というのはつまり、クラーク・ケントがスーパーマンになる途中とか、不動明がデビルマンになる途中とか、一文字隼人が仮面ライダー1号になる途中とか、諸星ダンが・・・切りがありませんが、だいたいそういう状況ということなんでしょうか?」

八百樹は口髭をモゴモゴさせる。「あんた、若い割には一世代前のヒーローに詳しいな」

「いやぁ、それほどでも・・・」謙遜した槍杉は、しかしすぐに頭を戻した。「そうですかぁ、変身中ですか。となると、パーティーはともかく対談だけでもなんとか実現出来ませんかねぇ?写真は別に撮ればいいですし、何なら前に撮ったものを使って合成することも出来ますから、たとえ変身中でも引越し中でもお話さえ伺えれば後は私が責任を持って良い記事に仕立ててみせますよ」

(こいつは話をわかってるのかわかってないのかわからんな)八百樹は髭を捻って唸る。

「参道さん側には今週末ということですでにOKをいただいているんです。美紀さんがもの凄く楽しみにしていらっしゃるんですよ。お話したいことやお訊きしたいことがたくさんあるんだそうです。とてもホットな対談になると思うんですがねぇ・・・」




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