いもむし男−第19章


《アトリエにて-1》

そして結局、11月21日の抜けるような秋晴れの土曜日、参道美紀とマネージャーと付き人と槍杉一平は特急あずさのグリーン車に乗って塩山駅に到着した。言うまでも無く美紀は濃いサングラスを掛け帽子を被って人気女優の顔を隠している。迎えに来た八百樹は肩をすくめ、いかにも申し訳無さそうな顔で告げた。「先生のアトリエには親しい人しか入れねぇんで、マネージャーさんと付き人さんは塩山観光をして時間を潰して貰いたい。ウチの従業員が御案内する」

金に細かそうな男のマネージャーと性別不詳の付き人は互いの顔を見合わせ一瞬難しい表情になったが、八百樹の隣に立つ『Le'z』の従業員が若く美しい女性だったためか意外にあっさり従った。彼女は用意した車に二人を乗せ、八百樹に会釈してあっという間に塩山観光に連れ去った。

「じゃ、我々も行きますかね」

八百樹は真っ黒いジャガーの後部ドアを開け、参道美紀が乗り込むのを見届けてから慎重に閉めた。(言われてみれば良く似てやがるが、まさか未野の妹とはな・・・)気が強いんだか弱いんだかわからない微妙な顔立ちに惹かれて実は密かなファンだった彼は、複雑な心境で首を振り、口の両端を下げて頭を掻き、運転席に身を沈めた。

「槍杉君から訊いていると思うが・・・」八百樹が切り出すと、美紀はこっくり頷いた。

「はい、なんでも怪我をされたとか・・・?重症なのでしょうか?」

八百樹はルームミラーをチラリと見て、眉毛を八の字にする。「デカイ絵を描いていて脚立から落ちたんですよ。その時ボトルごとひっくり返したシンナーを服に被って、運悪く静電気から発火し全身に火傷を負いました」

「そんな、ヒドイ・・・」美紀は両手で頬を覆う。

「だが御心配なく。実は山梨にはブラック・ジャックの残りの毛も真っ白になるぐらいの名医がおりましてね、ちゃっちゃっちゃっと切って繋いでハイ一丁上がり、元の顔より綺麗に治るという保証付きです。ただ、今しばらくはミイラ男みたいになってるんで、驚かないように、というわけです」言ってから、八百樹はもう一度ルームミラーを見た。「そうですか・・・」と答えた美紀は、どうやら話を信じたらしい。ちなみにこのデタラメ話は翔吾の創作だ。

彼等は塩山を北上し、田畑と電柱と僅かな民家の他は山ばかりの道をうねうねと走り、唐松林の広がる夫目高原に入る。インク会社の空き工場に着いたのは午後2時を少し廻った頃だった。車の音に気付いた翔吾は、いつかゴーショが買って来た車椅子に乗って彼等を出迎えた。思わぬものが思わぬ時に役立つものだ。顔を覆うマスクとベドウィン衣装の模様はともかく、白い手袋で鉤爪を隠し、車椅子移動で吸盤が見えるのを防げばとりあえずなんとか怪我人に見える。怪我人でないなら何かの宗教に嵌った人に見える。いずれにしてもこの場合は人間に見えることが肝心なのだ。無闇に人を驚かせるのは百害あって一利無し、とどこかの誰かも言っていた。

だが、悪気は無くても相手が勝手に驚く場合もある。

「うわぁーっ!」屋内に入るや否や、3人が一斉にどよめいた。彼等は翔吾の有り様には目もくれず、目の前の余りにも巨大な壁画に呆気に取られてしばらく口が閉じなかった。くどいようだが、なんせ縦5メートルに横幅が15メートルもある絵なのだ。それが一面、血潮みたいな朱赤なのである。絵のサイズだけは聞いていた八百樹もこれには度肝を抜かれた。彼はようやく我に返ると「槍杉、写真を撮れっ」と指図し、振り返って翔吾に訊いた。「こいつは、これで完成か?」

「ああ、そうだよ」翔吾はマスクの中で微笑んだ。「一昨日、仕上がった。今はこっちのを描いてる」翔吾が頭で示した反対側の壁には3メートル四方のカンヴァスが3枚、立て掛けられていた。3人は再びどよめき、次いで感嘆の息を漏らす。

「・・・綺麗・・・」美紀が思わずそう呟いた。言ってから、あまりにも凡庸な感想だと思ったのか顔を赤くしたが、他の形容詞が荷物を纏めて逃げ出すぐらい綺麗なのだから仕方が無い。

それは輝く絵画だった。金箔を使っていないのに、金よりも光輝く祝祭の矩形なのだ。その中に描線が絡み合い、じっと見つめていると抱き合う男女の姿が浮かび上がる。1枚は立ったまま抱き合い接吻する姿であり、次の絵は交接を、3枚目は昇天後の安息を描いていた。

「ああっ・・・」槍杉が悶えるような溜息を付いた。「何か、こう、体の芯にグッと来ますねぇ。こう申しては何ですが、先生の作品は一作ごとにどんどんハッピーになって行くような感じがしますです」

(ハッピー、か)翔吾はフフッと諦めたように笑った。

「それにしても凄ぇ勢いで描いてるな」八百樹はもう一度、朱赤の壁画を眺める。「間抜けなことを訊くが、全部、お前が描いたんだよな?」

「下塗りと絵具の用意と掃除と買出しはゴーショに手伝って貰ったよ」

「そういえば」八百樹は辺りを見回した。「あいつは、今日は居ねぇのか?」居たら話が面倒になるが、と思いつつ問う。

翔吾は手袋の指をヒョイと上げる。「今日は亜輝子と東京に行った。ナントカって言う建築家の展覧会を観るんだそうだ。ここへ来るのは明日の朝だ」

「そうか」と、相槌を打つ八百樹の眉間に皺が寄る。彼が何を言いたいのか翔吾にはわかる。その件は後で、というように翔吾は上げた指をスッと下げた。

「ところで・・・」車椅子をクルリと美紀の方へ向け、なるべく明るい声を出した。「今日はこんな格好で失礼。それと、前回はお相手出来なくてごめんなさい」

「あっ」と声を上げたまま、美紀はしばし固まった。絵に目を奪われて何をしに来たのか忘れるところだった。改めて相手の奇妙ないでたちを見つめ、可能な限り平静を装って挨拶をする。「とんでもありません。アトリエにお招きいただいてありがとうございます。でも、体調の方は、大丈夫なのでしょうか?」

「うん、それがね」翔吾は首を振った。「絵を描いてる時は頭が冴えてるんだけど、描くのを止めると眠たくなるんだ。だから申し訳ないけどインタヴューは迅速に願います」

「わかりました」それはきっと長く喋ると疲れるという意味だろう、と彼女は理解し頷いた。全身火傷の治療中なのだ、無理も無い。

「では、早速、フリートークで始めてください」槍杉はポケットの中の高性能デジタルレコーダーをONにする。「私が編集しますから好きなように喋っていただいて構いません。インタヴューだからといって、今まで考えたことも無いような心にも無いことを無理して喋る必要はありません」

彼等は部屋の隅のテーブルに移動し、美紀と槍杉が椅子に腰掛けた。八百樹は椅子を持って反対側の隅へ行く。彼は椅子に座って足を組むと手帳に何やら書き込みを始めた。そうして聞かないふりをしながら、耳はしっかり彼等の方を向いているのが私立探偵の習性だ。

「まず、一番最初に私がお訊きしたかったのは」美紀は背筋をしゃんと伸ばし、緊張した面持ちで切り出した。「お兄さん・・・あなたにとって、絵を描くこと、即ち創作とは、何でしょうか?」

「人生そのもの、ですね」翔吾は即答し、それから少し頭を傾げ「僕が僕であるために必要な活動だからね」と付け加えた。

「もう少し、詳しくお答え願います」彼女は身を乗り出す。

翔吾は内心(面倒臭いな)と思ったが口調には出さなかった。「人にはそれぞれ人生で最も重要だと思うことがある。ある人にとってはカネ儲けだし、別の人にとっては地位や名声や権力を得ることだし、また他の人にとってはささやかな暮らしであっても家族や友達と情愛に満ちた日常を送ることでしょう。僕にとっては他のどんなことよりも創作が重要なんです。これを止めたら僕が生きる意味を失うことになる。だからいつも創作を最優先に考える。そのために他の全てを犠牲にし、人の心を傷つけてしまうこともある。その経験は僕に苦いものを残すけれど、その苦さも創作の糧となる。僕の毎日では何を見ても何を聴いても何を感じてもまたどんな新しい知識や見聞を仕入れても、その全てが創作のための糧となるんです」

彼は一端言葉を切り、ゆっくり首を振った。「まぁ要するに、僕は芸術の奴隷なんですね。カネ儲けに夢中な人がカネの奴隷なのと同じで、あまり褒められたことじゃないよね」

「そ・そんなことは・・・」美紀は少し驚いてチラリと槍杉の方を窺った。槍杉は少し口を開けたまま食い入るように翔吾を見つめていた。

「でも、僕は喜んで奴隷をやってるんだ」翔吾は言葉を続けた。「勿論、一度しかない人生を捧げるだけの価値が芸術にはあると、少なくとも僕はそう考えているからだけれど。創作は苦しみであると同時にこの上ない喜びで、他のどんな行為より僕を興奮させ充足させる。おそらく作品を観た人にとっても、興奮させ充足させるものなんだと思う。もしかしたら人間にとっての最高の快楽なのかもしれない。僕は自分が創作する人間に生まれたことを、芸術の奴隷になったことを嬉しく思っている。僕の中に住んでいる創造の神をこの世の誰より愛し、心から感謝しているんだ」

離れた場所で手帳を睨んでいた八百樹が、(ん?)という表情で顔を上げた。



《アトリエにて-2》

「今おっしゃった創造の神というのは、いつからあなたの中に住んでいるのですか?」

「さぁて、いつからだろうね?」翔吾は記憶を辿るように視線を泳がせた。「・・・物心着いた頃からか、あるいは生まれた時からか・・・僕の一番古い記憶は2歳半ぐらいの頃に庭でスズメの死骸を見つけた時なんだけど、精巧な足の形にひどく興味をそそられてね。でもその時はまだ表現の手段を持たなかったから一生懸命目で記憶したんだ。なぜだかわからないけれど、いずれそれを描いたり創ったりしたいと強く思った。だからその時にはすでに創造の神が居たんだと思う。紙と鉛筆を与えられるようになると、僕は床に這いつくばって一日中絵を描く子供になった。奴隷化が始まったわけだ」

美紀はここでスウッと息を吸った。「・・・子供の頃のお話が出ましたけれど、御家族のことについてお訊ねしても構いませんか?」

「家族は今は妻が一人居るだけで、子供は居ません。それだけです」

「いえ、現在のご家庭のことではなく、あなたが育った家のことをお訊きしたいのです」

彼女が上目遣いで見ると、翔吾はピンで留められた標本みたいに身動き一つせずに考え込んでいた。ややあって、彼は手袋に包まれた指を1本立て、「父は寡黙で母は厳しく兄は乱暴で僕は泣き虫でした。以上です」と答えた。

美紀は槍杉と顔を見合わせた。槍杉が助け舟を出す。「では実の妹さんであり女優としてご活躍中の美紀さんに、お兄様としてのアドバイスをいただけますか?」

「それは・・・」立てた指をピッピッと振る。「あいにく兄妹だという実感が無いのでわかりません。ごめんなさい」



そんな調子で1時間程度のインタヴューは終わり、彼等は帰って行った。あれで記事になるのかと心配する八百樹に槍杉は自信に満ちた笑顔を返す。「お任せください。私には執筆の神様が住んでいますから」

「そうか」八百樹は口髭をモゴモゴさせた。未野のせいであっちこっち神様だらけになりそうだ。

さて、ほろ酔い加減のマネージャーと付き人を駅に連れ戻し4人を『あずさ』に押し込んだ八百樹は、『いちやまマート』で馬刺しと肴と幾つかの食材とワインを買い、再び夫目高原へ車を走らせた。アトリエに戻ると車椅子に座ったまま翔吾は居眠りしていた。鍵も掛けずに無用心なことだ。

八百樹は巨大な壁画の前に立って腕組みをした。こんなにドデカイ作品は美術館に入れるのも難しい。描いたはいいがいったいどうするつもりなのか?何か考えがあるのか?いや、たぶん何も考えていないに違いない。

「・・・ああ、八百樹か」気配に目を覚ました翔吾が欠伸しながら言った。「なんだか眠くて仕方が無いんだ。もうじきサナギになるせいかな?」

「あるいはな」八百樹は床の上に買って来た食材を広げ、「グラスはあるか?」と訊きながら早くも厨房に向かう。戻って来た時は2つのグラスと皿と箸やらスプーンやらを抱えていた。それから彼は床に毛布を敷き、「そいつから降りて、ここへ横になれ」と翔吾に言った。「眠りたかったら眠ればいい。食いたかったら好きなものを食え。俺に話したいことがあるなら話せ。何も言いたくなければ言わんでもいい」

翔吾は言われたとおりに横たわり、ベドウィン衣装の裾から吸盤を覗かせて伸びをした。とぐろを巻いた尻尾も一端伸びて、またクルクルと元に戻った。

「飲むか?」八百樹はワインの栓を抜き、グラスに注ぐ。

「ありがとう」翔吾は手袋を外し鉤爪でグラスを取った。久し振りに飲んだためか、冷えた赤ワインは咽の奥で熱い炎となった。彼はそれをゆっくり飲み込み、深く息を吐きながら告げた。「・・・八百樹、僕は、怖いんだ」

「だろうな」八百樹は皿に馬刺しを取って下ろし生姜を乗せ、醤油を一滴垂らして翔吾に差し出す。「人類初の完全変態経験者になるわけだからな。だがムシシンはそれで人間の姿に戻れると言ったんだ。後少しの辛抱じゃねぇか」

「そうなんだけど」翔吾は差し出された馬刺しを摘んだ。食べ始めると目が覚めて来る。

「サナギの中で体が全部溶けた時、記憶はどうなるのかなと思って」

グラスを傾けた八百樹の手がピタリと止まる。「・・・記憶、か」

「どうなるか予想が付かない場合は最悪の事態を考えて置くのが妥当だと思う」言いながら翔吾はパンを指差した。八百樹はそれを半分にちぎって彼に放る。「もし記憶を全て失ってしまったら、周りの君達だけが頼りだ。僕が誰で、ここで何をしていたのか、君達とはどういう間柄なのかといったことを、面倒だけど一から僕に教えて欲しい」

「そんなもんはお安い御用だ」八百樹はサラダを突付きながら、ふと眉間に皺を寄せる。「もっとも、ガキの頃の記憶までは教えられねぇけどな」

「それは仕方が無いよね。一度死んだのを蘇ったんだから、そこまで贅沢は言えないよ」

八百樹は空になった翔吾のグラスにワインを追加した。「お前が人間の姿に戻ったら、ゴーショはどうするんだ?」

「ゴーショには感謝してる」翔吾は水でも飲むみたいに注がれたばかりのワインを飲み干す。「彼が僕の代わりに亜輝子を支えてくれたんだ。僕達二人しか居なかったら、今頃心中してたかもしれない。だから今後のことは彼の判断に任せるよ。僕達と一緒に居たければ、ずっと一緒に居ればいいし・・・」

「そりゃマズイだろ?」八百樹は空になったグラスに反射的にワインを注ぎながら顔をしかめた。「お前と亜輝子さんの・・・夫婦の関係がおかしくなっちまう。もう、なってるかもしれねぇが」

「もともとどうかしてるような夫婦だから、間にゴーショが入ったって、どうってことないよ」翔吾はグイッとワインを一気飲みした。「亜輝子はゴーショを気に入ってる。なんでもやってくれるし、時々トンチンカンなことを言ったりするけど、場合によっては僕より節度があるしね。だけどゴーショは僕ではないということを亜輝子はちゃんとわかってる。その違いに価値を見出せなくなった時、彼女が僕を必要としなくなる時がもし来たら、僕達はコンビを解消するしかない、それだけだ。僕は夫婦という形にこだわりは無いからどっちだっていいんだ。亜輝子に捨てられても彼女への感謝は変わらないし、彼女と過ごした日々は何よりも大切な人生の収穫だよ」

翔吾はゴロリと横になって高い天井を見上げた。

「僕は良いパートナーでは無かった。いつも自分のことしか考えていなかった。たまたま亜輝子が仕事人間だから上手く行っていたけれど、やはり淋しい思いをさせていたんだと思う。だけどわかっていても他の生き方は出来ない。芸術の奴隷に結婚生活は無理なのかもしれないね」

それから、ふと思い出したように八百樹を見た。「織美からは、何か、連絡は無い?」

八百樹は肩をすくめる。「何も。一応、妊娠がはっきりしたら連絡しろ、とは言ってあるがね」そして携帯を取り出した。「電話してみるか?」

「いや、いいよ」翔吾は欠伸した。「逢いたいけど、この姿じゃどうしようも無いし、我慢するのも辛いし」

「そうだな」ポケットに携帯をしまいながらさり気なく訊いてみる。「彼女は、本当に一人で子育てするつもりなのか?」

「織美には恋人が居るんだよ・・・女性の、だけどね」翔吾は鉤爪で床をコツコツと叩く。「女どうしじゃ子供は作れないから、僕の子供を産みたいって言ったんだ」

「なるほど」八百樹はワインを一口飲み、口の端をへの字に曲げた。

翔吾は横を向いて目を閉じた。「・・・もしそうでなかったら、つまり彼女がフリーだったら・・・僕は放って置かない」

「ふむ」と相槌を打った八百樹の耳に、翔吾の静かな寝息が聞こえた。


いつの間にか眠ってしまった八百樹は、翔吾の呻き声に飛び起きた。灯りを点けたままの工場アトリエの床を布の塊があっちへこっちへと転がっている。八百樹は転がる翔吾を押さえて声を掛けた。「どうしたっ?苦しいのかっ!?」

「熱いっ・・・」翔吾は鉤爪で八百樹の手を掴む。「これを脱がせてくれっ、熱くて死にそうだっ!」



《脱皮》

要求どおりにマスクとベドウィン衣装を脱がせた八百樹は、彼の体に異変が起こりつつあるのを悟った。

(まさか、もう、サナギになるんじゃ・・・?)熱を帯びた翔吾の体を擦りながら、唐突にムシシンの言葉が脳裏を過ぎる。

「衝撃で変化は早くなる」・・・しまった、ワインを飲ませたのがマズかったか?と気付いた時はもう遅い。

ビリッというような奇妙な音を立てて、ミミズみたいなのっぺらぼうの頭の天辺に亀裂が入った。目があると思しき箇所から涙が溢れる。だが「しっかりしろっ!」と鉤爪を握る他にはもはやなすすべも無い。

「目がっ・・・何も見えないっ!」翔吾はパニックになっていた。「・・・や・八百樹っ・・・助けてっ!・・・」

「助けろったって、どうすりゃいいんだっ?」

「側に居て、怖いから、君も怖いだろうけど、僕を見守っててっ」

「俺はちっとも怖かねぇっ、側に居るから安心して脱皮しろっ」言いながら、なんだか出産に立ち会うみたいだな、と思う。

その内、握る鉤爪の感触が怪しくなった。中身が無くなったらしい。

「あ・あ・あ・あ・・・」

「何だっ?何が言いたいんだっ?落ち着いて喋れっ」

「あ・亜輝子に・・・愛してる、って・・・伝えといて・・・」

「わかったっ、大丈夫だっ、何も心配するなっ」

「や・や・八百樹っ」

「今度は何だっ!?」

「き・君のことも・・・あ・愛してるよっ・・・」

「わ・・・」一瞬、八百樹は詰まった。「わかっとる、そんなこたぁ紀元前から自明のことだっ」

「き・君は・・・どうして・・・あの時・・・」

「え?何だ?あの時ってぇのは、いつの話だっ?」

「ちゅ・中学の文化祭の時・・・どうして、僕の白い衣装に・・・赤い絵具を・・・ぶっ掛けたんだ?」

こんな時に何を言い出すのかと思ったが、人間、最期かと思う時は案外そんなものかもしれない。(そういえばそんなこともあったな)八百樹は当時の状況を思い浮かべた。白いドレスに赤い絵具を被ったせいで、翔吾はそれ以後何かに付けて「未野は生理中だから」とからかわれる羽目になったのだった。(やはり根に持ってやがったか)しばし逡巡の後、八百樹は次第にブヨブヨと輪郭のぼやける頭を両手で抱え、耳があると思しき箇所に向けて怒鳴った。

「あん時ぁ悪かったよっ!絵具を掛けたのはなっ、お前のシンデレラがっ、はまり過ぎだったからだっ!」

鼓膜を突き破るような野太い声に、翔吾は一瞬震えを止めた。「・・・耳が痛いよ、八百樹・・・怒鳴らなくっても聴こえるよ」

「そうか」彼は髭をモゴモゴさせる。「あのな、俺は間違えたんだ、お前のシンデレラを、女の子と。それをクラスの奴らに笑われて頭に来てお前に絵具を掛けた・・・すまなかった。シンデレラは、とても可愛かった」

「・・・なぁんだ・・・そうだったのか」翔吾は再びガクガクと震えだした。震えながら微笑んだが、外れかかった頭部からはそれとわかるはずも無い。「・・・僕はてっきり・・・似合わなかったのかと・・・思った・・・」

そう言ったのを最期に、彼は口を閉ざして激しく痙攣した。そして、景気良くソバを吸い込むみたいな音がしたかと思うと、ゴム風船が弾けるようにイモムシの皮が一気に破けた。

「うわっ!」

中から現れたサナギを見て、八百樹は目を瞬かせた。サナギと言われて彼が想像していたのはなぜか蛾のサナギだったのだ。だがこれはどちらかと言えばカブトムシやクワガタのサナギに近い。何が違うかというと後者は完全変態後の姿とほぼ同じ形をしているという点だ。

つまりそこには、白くはあるが人間の姿をした翔吾が、膝を抱え体を丸めた格好で横たわっていたのである。



翌朝、食料と着替えを手に何も知らずにやって来た亜輝子とゴーショは、表に停まる真っ黒いジャガーに一瞬ギョッとした。それが八百樹の車であることは推測されたが、アトリエで一泊したというのが気になる。合鍵を使ってそっと扉を開けると、部屋の真ん中に寝転ぶ二つの塊が目に入った。その内の一つが、外気の流れ込む気配にガバッと飛び起きる。

「・・・八百樹さん・・・どうして?」

亜輝子は寝癖で頭のグシャグシャになった八百樹に苦笑しながら足を踏み入れ、ハッとして立ち止まった。

「・・・翔吾?」彼女は恐る恐るそれに近づき、身を屈めて覗き込んだ。それは翔吾の姿をしていたが、全体が蝋で出来たように白くかすかな光を放ち、眉も睫毛も髪の毛も脱色の途中みたいに白く覆われていた。とりわけ髪は不思議な形で固まっている。オールバックに纏められた前髪、それを含めて背中で鬣のように盛り上がって波打つ髪の長さはなんと尻まであった。

「昨夜、サナギになった」寝起きの八百樹がようやく口を開いた。「俺は、たまたまそれに立ち会ったんだ」

「サナギ・・・」傍らにしゃがんだ亜輝子が呆然と呟く。

「ムシシンの話では真冬に完全変態して羽化するらしい。だが変化が早くなってるから羽化は年内かもしれん」八百樹は鼻の頭を掻いた。「この、『羽化』ってのがどうも気になるんだがな」

「彼は、どんな様子だったの?」彼女は手を伸ばし、そっとそれに触れてみる。「その・・・何か、言ってました?」

「ああ」八百樹は顎を撫で、次いで頭を掻く。「完全変態する際に記憶を全部失くすんじゃないかと心配していた。それで、あなた宛に伝言を頼まれた」彼は咳払いして一呼吸置き、彼女の目をじっと見つめ、伝えた。

「・・・愛してる、と」

亜輝子は瞼が裏返るほど目を見開き、大きく息を吸い込んだまま吐くのを忘れた。ゴーショが素早く側に寄る。と、突然彼女は「あーっ!!」と大声を上げて床に突っ伏した。肩に添えられるゴーショの手を振り払い、激しく頭を振り乱して泣き喚く。良く聞くと、ごめんなさいごめんなさいと謝っているのだった。

八百樹は黙って亜輝子が落ち着くまで待った。経験から、高ぶった感情を鎮めることの出来るのは時間だけだと知っていたからだ。ゴーショも彼に倣い、何も言わずに待機した。八百樹はさり気なくゴーショとサナギになった翔吾の顔を見比べた。ゴーショの顔が元の翔吾そっくりだとすれば、生まれ変わる翔吾は本人と顔付きが少し違うようだった。それがサナギの状態だからなのか髪型のせいなのか変身のためかはわからない。

「・・・ごめんなさい」顔を起こした亜輝子は、今度は八百樹に謝った。「彼が死んだわけでもないのに・・・取り乱して、恥ずかしいわ」

「喚きたい時は我慢しない方が健康のためだ。おそらく、美容にもいい」八百樹はネクタイを締め直し、ズボンの裾を払って立ち上がると翔吾の周りをぐるりと歩いた。

「問題はこいつだ。羽化がいつなのか正確には予測出来ない。どういう状態で羽化するのかもわからないから当分目を離せねぇ。家に連れ帰った方が安全だと思うんだが・・・」

「そうね」亜輝子はゴーショをチラリと見る。「私もそう思うわ」

その日の正午のサイレンが鳴る頃、巨大な壁画と描き掛けの3枚の絵を残したまま、サナギの翔吾は自宅のアトリエに帰って来た。ちょうど1ヶ月振りである。

彼はベッドに横たえられ、毛布を掛けられ、昼はなるべく日光を浴びるように、夜は凍えないようにと配慮された。髪が白く固まっていなければ普通に眠る人のようにも見えた。ゴーショは心への呼び掛けを懲りずに試みたが、こちらは全く応答無しだった。

翔吾は厚い鎧戸を下ろしたように外界とのコンタクトを全て閉ざして眠り続け、その心を読むことも出来なかったのである。




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