いもむし男−第20章


《完全変態-1》

そしてあっという間に1ヶ月が過ぎた。

12月24日は今にも雪でも降り出しそうな憂鬱な雲が垂れ込める寒い朝だったが、突然隙間から顔を出したお天道様があれよあれよと思う間に雲を蹴散らし暖かな陽射しを燦々と投げ掛ける青天の霹靂みたいな師走晴れとなった。

「ごめんくださぁい」

昼前に玄関に声がして、ゴーショは風呂掃除の手を止め鍵を開けに行った。ドアを開けると、そこに立っていたのは織美である。

「いきなり来て、ごめんなさい」彼女は辺りを窺うように声を潜めて訊ねる。「・・・今、奥様はお留守?」

「はい、お仕事に行っています」ゴーショは戸惑いながら招き入れ、素早くドアを閉じて鍵を掛ける。「急に、どうしたのですか?」

すると織美は真剣な表情でゴーショの耳元に囁いた。「実は今朝、未野さんの夢を見たんですけどぉ・・・ちょっと胸騒ぎがして・・・」

「胸騒ぎ、というのは、どういう騒ぎでしょうか?」織美のコートをハンガーに掛けながら、ゴーショは首を傾げた。

「あ、いえ、わたしの思い過ごしかもしれないんですけどぉ・・・」織美は廊下の奥の部屋に目を向ける。「未野さんは?」

ゴーショは彼女の目を見つめ、そこにテコでも動かぬ決意の色を認めた。ゴーストの自分にもわからない彼の変化を彼女は感じているらしい。それはなぜかを知りたくて、ゴーショは彼女の手を握った。次いで、空いている方の手で彼女の下腹部に触れた。織美は驚いて「あっ」と小さな声を上げたが、じっと身動きせずに居た。

「・・・子供、が居る」ややあって、ゴーショがポツリと呟いた。「翔吾の、子供?」

織美はゴーショを上目遣いに見つめ、頷いた。ゴーショは彼女の瞳を覗き込み、それから手を握ったまま奥の部屋へ導いて扉を開けた。 中を覗くと、ベッドの上にカラシ色の毛布が盛り上がっていた。咄嗟に(ゾウがこなれるまでじっとしているウワバミの絵みたいだ)、と織美は思った。だがそれはウワバミなどではない。膝を抱え体を丸めた姿勢の白い翔吾が横たわっているのだ。織美は顔を近づけて真剣な表情で見つめた。サナギになったという連絡は八百樹から貰っていた。年内に羽化するかもしれないという話も。それが今日だとなぜわかるのかは自分でもわからない。指先でそっと彼の額に触れてみる。そこにあるのは人間の皮膚とは異なる、合成樹脂のような奇妙な感触だった。

「・・・ゴーショさん、少し、二人だけにして貰えませんか?」

切実な目付きの織美にそう乞われれば、勿論彼は拒否など出来ない。頷いて後ずさり、部屋を出て扉を閉じる。どこか共犯者になったような後ろめたさを感じながらキッチンに戻り、テーブルの周りをうろうろした。こういう場合はコーヒーを淹れてもてなして良いものかどうかも悩む。決して織美が嫌いなわけではないが、亜輝子のことを考えると彼はどうしたら良いのかわからなくなった。

ふと棚の上の電話機が目に止まり、反射的に八百樹の携帯番号を押していた。翔吾に変化があったら電話しろと言われていたのだ。

「おう、お前か、何かあったか?」八百樹は撃てば響くといった調子で訊いて来た。

「まだ変化は無いのですが、今から何か起こるかもしれません」ゴーショは一呼吸置いて、告げた。「・・・織美さんが、来ました」

その一言で、八百樹の野生の勘がゴビ砂漠で花笠音頭を踊るカンガルーみたいに飛び跳ねた。「・・・よし、すぐ行く」という簡潔な返答の後、彼は電話を切った。

その日、八百樹はたまたま『Le'z』の会議室で槍杉一平と打ち合わせ中だった。槍杉が腕を振るった記事が功を奏してかチャペル美術館建設の寄付金は順調に集まり、おまけに飯島白水は巨大壁画購入に意欲を示していたのだ。このまま話が纏まれば作品『or-M』はイイジマ化繊のロビーの壁を埋めることになる。白水は翔吾との面談を望んでいたが、サナギの状態ではにっちもさっちも行かないのだった。

「先生がお目覚めらしい」上着に袖を通しながら八百樹は席を立った。槍杉もすぐに反応した。二人が通路に出るのと入れ違いに華子が部屋に入った。「あれ?八百樹、出掛けるの?」

「ああ、ちょっと彼と打ち合わせがてら飯を食って来る」

「ふーん」華子は槍杉をジロリと見たが、すぐに会議室のドアを閉めた。クリスマス商戦真っ只中の『Le'z』は忙しい。オトコどものタヌキ会議に付き合ってる暇などないのだ。

「奥様、相変わらずお綺麗ですねぇ」ミニクーパーの助手席に乗り込んだ槍杉が開口一番、感想を述べた。だがそんな感想は聞き飽きている八百樹は相槌も打たず、エンジンを掛けると勢い良く車をバックさせる。槍杉はシートベルトを掴んだままもう少しでダッシュボードの硬さを確かめるところだった。

「前に先生は変身中と言ったのを覚えているか?」県道をしばらく走ってから、八百樹が唐突に口を開いた。

「はい、火傷の治療中のことですよね?」槍杉は降りたシャッターばかりの商店街を眺めながら言った。

八百樹は横目でチラリと隣を見る。「火傷は方便だ。本当はあの時イモムシだった。今はサナギだ」

「はぁ、イモムシですか・・・」槍杉はレトロな構えの店が閉まっているのは惜しいな、と考えていた。「それで、今は、サナギ・・・と」そしてゆっくり八百樹の方を向く。「・・・ええっ?な・なんですって?」



《完全変態-2》

その頃、織美はサナギの翔吾の隣に横になり、頬を撫でながら話し掛けていた。

「先週、マリアはイタリアへ帰ったんです。わたしの心が未野さんで一杯になっちゃってるのがバレて、コンビを解消しようってことに・・・だから、この子をマリアと二人で育てるっていうプランは白紙になりました」

話し掛けてもサナギは何も応えなかった。合成樹脂みたいな体はピクリとも動かない。だが織美には、彼が話を聴いているように思えた。「それでわたし今後のことを色々考えてみたんですけど、東京だと近すぎて頼ってしまいそうなので、遠いところへ引っ越した方がいいかな、なんて思ったんです。とても遠いところへ行って、未野さんの御迷惑にならないように、この子と二人で生きて行こうか・・・それとも、いっそ・・・もっと、遠いところへ・・・」

織美は俯いて、唇を噛んだ。「・・・ごめんなさい。こんなことを考えてはいけないのはわかっているんです。立派なミケランジェロに育ててみせるってあなたに宣言したのに・・・でも、わたし、とてもとても辛いんですぅ・・・」彼女の頬を涙が伝って落ちる。

「未野さん・・・わたし・・・あなたと暮らしたいなぁ・・・」


翔吾の寝室の閉じた扉を窺いながら、思い余ったゴーショは亜輝子の携帯に電話する。

「何かあったの?」何か無ければゴーショが電話するわけがなかった。亜輝子の胸が早鐘のように鳴る。周りのスタッフの好奇の目を逃れ、彼女は急いで事務所の外に出た。

「すみません、上手く言えないのですが・・・」ゴーショは何を言うべきで何を言ってはいけないか慎重に吟味しながら伝えた。「もしかすると、今日、生まれるかもしれません」

「生まれる?」亜輝子は髪を掻き上げる。「それは、翔吾のこと?」

「すみません、間違えました。子供はまだ生まれません」吟味し過ぎたゴーショは混乱を来たしていた。「生まれるのは翔吾の子供ではなくて、翔吾のサナギです。子供はまだ当分、織美さんのお腹の中です」

「ゴーショ・・・」亜輝子は溜息をつく。「な・に・が、あったの?」

「えーと、ですね」彼女の口調が強くなるのと正比例して混乱は増した。「子供が来たのです。だからサナギから生まれます。翔吾を起こすのです、彼の、愛人が」

(な・なんだとぉ・・・?)亜輝子の握る携帯が、ピシッと音を立てた。


「イ・マ・ダ・ノ・さぁぁぁんんん・・・」

一方、次第に感極まった織美はセーターを捲くり上げ、サナギを抱くようにして顔に胸を摺り付けた。彼女の素肌の体温と高鳴る鼓動がサナギの額をノックする。目覚めろ目覚めろと言うように。ついでに彼女は片足を上げてサナギの腰に引っ掛け、体を密着させて赤ん坊をあやすように優しく揺り動かした。

(・・・オ・・・リ・・・ミ・・・)

やがて、合成樹脂のようなその殻の中で、スウッと息を吸い込む音がした。


うっとりと目を閉じていた織美は一瞬、何が起こったのかわからなかった。危うくベッドから落ち掛け、かろうじてマットにしがみ付く。目を瞬かせて前方を見るが眩しくて何も見えない。聞こえるのはカミナリオコシを噛み砕くみたいなバリバリという派手な音だけだ。 「い・・・未野さんっ」織美は顔の前に手を翳して呼び掛けた。「ハ・ハイ・ビームは、止めて・・・」

だが勿論それはハイ・ビームなんかではない。羽化の途中は最も無防備なので身の安全のために周囲に目くらましを掛ける仕組みになっているのだ。だから光が弱まった時には、すでにそこに新生翔吾の姿があった。

顔も体も逆立つ髪も羽化直後のセミみたいに真っ白な彼は、ベッドの向こう側に立ち、ゼイハアと荒い呼吸を繰り返しながら自分の両手を見つめていた。次いで両足がそこにあるのを確認し、恐る恐る足踏みした後、掌で体をあちこち撫で擦って感触を確かめる。最後に額と鼻と唇と耳に触れ、シャッターの具合を試すみたいにゆっくり瞬きした。

それから、ギョッとしたように織美に顔を向けた。彼女を凝視する瞳は金色だった。

「織美さんっ、どうしたのですかっ!?」

物音に飛んで来たゴーショは扉をノックする。が、鍵が掛かっていて開けられない。以前のように壁や扉をすり抜けることも出来ない。「鍵を開けてくださいっ!」と頼んでも中からは何の返答も無い。どうしたものかと廊下をうろうろする内に表に車の音がした。八百樹が着いたのだ。

「様子はどうだっ?」ゴーショが玄関ドアの鍵を開けるのと八百樹が上がり込むのがほとんど同時だった。ゴーショは八百樹に突き飛ばされながら寝室を指差し、鍵が掛かっているのだと伝える。遅れて家に入った槍杉はゴーショと鉢合わせし「あれっ、先生?」と呟いたまま硬直した。

「ああ、言い忘れていたが」八百樹が振り向いて紹介した。「彼はゴーショだ。先生の双子の弟だ」

「はぁ、弟さんですか」槍杉はびっくり顔のまま内ポケットから名刺を取り出した。「初めまして、私、『21世紀アート』の槍杉一平と申します。未野先生にはたいへんお世話になっておりまして、この度はまた、完全変態ということで、お日柄も宜しく誠におめでとうございます」

「おい、時候の挨拶はいいからこっちを手伝ってくれ」八百樹はドアノブの鍵穴に細い針金を突っ込んでグルグル廻していた。が、ふいにカチャッという音が聞こえ、開けようとしていた扉が自主的に開く。

「ん?」と、八百樹が顔を上げると、開いた扉の向こうに素っ裸の翔吾が立っていた。真っ白だった皮膚は幾らか肌色に近づいたが、尻まである長い髪は白いままで逆立っている。まるで喧嘩の最中の雄鶏か歌舞伎役者みたいだ。八百樹を捉えた金色の瞳は一瞬大きく見開かれ、虹彩に七色の光が点滅した。顔立ちは確かに翔吾だったが、これではまるで別人だ。彼は僅かに唇を開いて何か言い掛けたが、言葉に至らずに口を結び、そのまま八百樹の前を通り過ぎてキッチンへ向かった。

「あ・・・どうして、七尾さん?」翔吾に次いで寝室から出て来た織美は八百樹に驚き、廊下に居た槍杉に気付いて思わず両手で顔を覆った。驚いたのは槍杉も同じだ。なんせ翔吾はすっぽんぽんだったし、織美の髪は乱れていたし、である。

だが今はそれどころじゃない。「七尾さん、未野さんが・・・変、なんです」織美は真っ赤になりながらも泣き出しそうな声で訴えた。「なんにもわからないみたい・・・わたしのことも覚えて無いみたいなんですぅ・・・」

「落ち着くんだ」八百樹は諭すように言い、織美の目をじっと覗き込んだ。「未野が変なのは元からだ。あれ以上変になったら後はまともになるしかねぇ」

「もしかしたら、寝起きのせいなんじゃないでしょうか?」槍杉がキッチンの方を窺いながら口を挟んだ。「1ヶ月も寝ていたんじゃ、頭がボーッとしてても不思議は無いですよ。きっと腹ペコでしょうし・・・」言いながら足音を忍ばせてキッチンへ向かう。残りの3人もつられて忍び足になった。行って見ると、翔吾はカウンターの前に立ったまま1リットル入り『タカナシ低温殺菌牛乳』を紙パックから直に一気飲みしていた。飲み干すと冷蔵庫に頭を突っ込んで物色し、発見したゴーダチーズの大きな塊に齧り付く。

「翔吾、昨夜のシチューで良かったら温めますよ」

ゴーショがそう言って傍に寄ると翔吾はチーズを齧りながら頷いた。が、ガスコンロが派手な点火音を立てたのに驚いて飛び退り、テーブルの向こう側にひらりと着地する。それを見た八百樹と織美と槍杉が同時に声を上げた。

「あっ、羽があるっ!」

薄氷みたいな羽は用が済むと自動的に小さく畳まれて背中にピタリと収まった。甲虫の羽と同じ仕組みだ。尻まで覆う長い髪のせいでそれまで誰も気付かなかったのだ。無意識で飛んだらしい翔吾は何事も無かったかのようにチーズを齧り続けていた。八百樹は眉間の皺を指で摘んで盛り上げる。

(なんで羽なんかあるんだっ?完全変態後は人間に戻る筈じゃなかったのか!?)



《明日への飛翔》

確かにムシシンは「羽化する」と言った。その単語に感じた嫌な予感が的中したわけだ。八百樹は頭を抱え、隣に立つ槍杉の方を見た。彼はびっくり顔の仮面でも付けているみたいに目を見開いたまま反応保留状態(思考停止状態とも言う)だった。無理も無い。

一方、彼等の困惑など構っていられない態の翔吾は、ゴーショが運んで来たシチューを見てようやく笑みを浮かべた。よほど腹が減っているらしい。素っ裸で立ったまま、スプーンを使うのももどかしそうに器の縁からガツガツ食べる。ゴーショがフランスパンを持って来ると、見るが早いか奪い取り、50センチぐらいある奴をたちまち平らげてしまった。

「おい、未野・・・」頃合いを見て、八百樹が話し掛けた。「あんまり急激に食うと、腹を壊すぞ」

「・・・うん・・・」4個目の温泉玉子を飲み込みながら、翔吾は返事した。「・・・だけど腹が減ってるんだ」

「喋れるのか?」八百樹はホッと息を吐いた。このまま無言の餓鬼になるのかと心配だった。「俺が、わかるか?覚えてるか?」

デザートのリンゴとバナナと肉まんとヨーグルトとムギギ屋の鯛焼きを順番に口に運びながら、翔吾は八百樹を見てフフッと笑った。「わかるよ・・・というか、思い出した。さっきまでは腹が減りすぎて何も考えられなかったんだ」

ハッとして、織美が傍へ飛んで行く。「じゃ、じゃ、わたしのことも、覚えていますかぁっ!?」

翔吾は最後に鯛焼きの尻尾をゴクリと飲み込んで手の甲で口を拭い、金色から栗色に変化してだいぶ人間らしくなった瞳を織美の顔に向けた。「勿論だよ、織美。起こしてくれてありがとう。君の話は全部聞こえていたよ」

「あ・あ・あ・・・」織美は火照る頬を押さえる。織美と呼び捨てにされたのが妙に嬉しかった。(なんだか恋人同士みたい・・・羽のある恋人なんて、なんて素敵なんだろうっ)基本的に楽天的な彼女は夢見心地で翔吾の胸にしなだれかかる。完全変態後の新しい肌は以前に増してスベスベで気持ち良いから思わずあちこち撫で擦ってしまう。刺激された翔吾は我慢も限界といった溜息をついて左手を彼女の背中に廻し、右手で頬に触れて訊いた。

「ねぇ、鯛焼き食ったばかりでこんなこと言うのはなんだけど・・・キスしてもいい?」

織美は顔を上げ、頷く代わりにうっとりと目を閉じた。

「良かった、断られたらどうしようかと思った」翔吾は彼女を腕の中に包んで唇を重ね、ちょっと離れて「この2ヶ月の間、ずっと君にキスしたかった。ずっとずっと我慢してたんだ。イモムシになって何が辛かったって、それが一番辛かった」と言ってもう一度キスをし、それから5分ぐらい掛けてじっくりゆっくり熱い熱い接吻をした。

びっくり顔が戻らなくなったらしい槍杉は馬鹿みたいに口を開けたまま二人を指差し、八百樹の方を向いて無言の問い掛けをした。口をへの字に曲げた八百樹は(まぁ、そういうことだ)と無言で頷く。


と、その時。

バンッという大きな音がして玄関ドアが開き、師走の冷ややかな外気がヒョオオオオッとキッチンに流れ込んだ。次の瞬間、振り向いた八百樹と槍杉が揃って「おわっ!」と声を上げる。流しで鍋を洗っていたゴーショが顔を上げ、「あ、お帰りなさい」と微笑んだ。

戸口に立っていたのは亜輝子だった。

異様な気配に目を開けた織美は横目で彼女を捕捉し、(ひぇぇっ!)と心の中で悲鳴を上げて翔吾を押し戻した。キスを続けようとしていた翔吾は押し戻されてようやく亜輝子の出現に気付く。

「あれ?」と、彼は妻に顔を向けたが左手はまだ織美に廻したままだった。大きな目をさらに見開き口を半分開けた亜輝子は怒っているのか笑っているのか呆れているのか、それともただ単に驚いているのかわからないような表情だ。翔吾はそんな彼女の顔を15秒間見つめ、それからにっこり微笑んで右手を差し伸べた。

亜輝子は黙ったまま彼の右手を見つめた。もう鉤爪ではない、出来たての、暖かく柔らかな人間の手だ。だが生まれ変わった翔吾の手は亜輝子が良く知っている彼の手と少し違っていた。どこがどう違うのかはっきりとはわからないが、どことなくニュアンスが違う。いや、これまでと何より違うのは、左手が見知らぬ女を抱きかかえている点だろう。

コホンと咳払いをして、亜輝子は翔吾に顔を向けた。「おめでとう、無事、人間に戻れて良かったわ。でも・・・」彼女は翔吾の右手を握る代わりに自分の手を伸ばして彼の頬に触れた。

「なんだか、あなたじゃ無いみたい。髪が白くて長いせいかしら?」

「うん・・・完全変態したんだから、少しは前と違ってるかもね」翔吾は頬を撫でる亜輝子の手に自分の手を重ねて握る。

「だけど、中身は僕のままだよ」そう言って彼女の掌に唇を寄せた。

亜輝子は翔吾の傍らで蒼ざめ俯く織美をちらりと見て手を引っ込めた。

「そういえば、一昨日、美濃田さんがいらして保険金が支払われることになったって・・・」言いながらさり気なく彼女を観察した。愛人と聞いて想像していたより遙かに平凡な外見なので拍子抜けする。(絶対、私の方が美人だ)と亜輝子は思った。その揺ぎ無い自信からか、とんでもない局面の割には自分でも呆れるほど冷静で居られる。立場から言えば針のムシロ状態に違いない彼女が気の毒にすら思えて来た。

「え?あ、そう?」すで保険のことを忘れ掛けていた翔吾は意外に思い、目を瞬かせた。「で、入金を確認してみた?」

「確認したわよぉ」亜輝子は罰が悪そうな顔で押し黙る八百樹と槍杉をぐるりと窺い微笑を浮かべる。「どんな裏ワザを使ったのか知らないけど税金は差し引かれて無かったわ。私の口座に、3億円ぴったし、振り込まれていたわよ」

おい待てよ唐突に3億円ってなんなんだその話は?と顔を見合わせる八百樹と槍杉を余所に、翔吾は安堵の溜息をついた。「それは良かった。全部、君のものだ。経緯はどうあれ、君への感謝をせめてもの形にすることが出来て本当に良かったよ」

亜輝子はバッグをテーブルに置いて腕組みをした。「どういう保険金なのかは美濃田さんから聞いたわ。それも含めて、今後のことをあなたと二人きりで話し合いたいんだけど・・・」

「僕もそうしようと考えていたところだ。じゃあ、早速、出掛けよう」

「出掛けようって、何処へ?」亜輝子は複雑な笑顔を向けて問う。

「二人っきりになれるところさ」翔吾は肩をすくめた。「先に外に出て待っててくれる?僕もすぐ行くから・・・あ、落とすといけないからバッグは置いていってね」

(だって免許証が入ってるのに?)と怪訝な表情になった亜輝子が手ぶらで玄関へ向かい、バタンとドアを閉じるや否や、翔吾はくるりと織美に向き直って素早く抱きしめた。「ごめんっ、びっくりしたよね?でも大丈夫だからね」彼は急いでそう言い、もう一度短くキスをする。「頼むから馬鹿なことを考えちゃダメだよ。君は僕達と一緒に生きるんだ。何も心配しないで、僕を信じて」

それから戸口に立つ二人に目配せし、「八百樹、悪いけど高原のアトリエに織美を連れて来てくれないか?僕達は先に行ってるから。必ず、頼んだよっ」と早口で言いながら家を出て行った。

八百樹は槍杉と顔を見合わせる。「先に行ってるだとぉ?」

「どういうことでしょうね?」槍杉は頭を掻き、突然重大な問題に気付いて再度びっくり顔になった。「あっ、先生、すっぽんぽんのまま行っちゃいましたよっ!」

これにはさすがの八百樹も慌てた。なんせ日本晴れの真昼間である。全く関係ないがクリスマスイヴでもある。幾ら田舎とはいえ公然わいせつ罪で捕まるために出掛けたようなものだ。しかも翔吾には羽がある。

(・・・羽かっ、まさかっ!?)

八百樹は靴も履かずに表に飛び出し空を見上げた。

「えっ!?ウソッ!キャーッ!!」と悲鳴を上げる亜輝子を抱きかかえ、翔吾はすでに空高く舞い上がっていた。ホバリングする羽は光に透け、生身の人間が宙に浮いているように見える。白くたなびく長い髪は浮力を保つ帆のように風を孕み、方向を定めた翔吾は見る間に青空に溶けて行った。

「行ってらっしゃーい」と嬉しそうに手を振るゴーショと呆然と佇む八百樹の隣で、口をポカンと開けて見送る織美が呟いた。

「・・・うわー空飛ぶ芸術家だぁ・・・未野さん、サイッコウですぅ・・・」

その隣で、槍杉は額に手を翳して所見を述べる。「凄い、本当に飛んで行っちゃった、カッコイイ・・・でも先生、せめてパンツを履いて欲しかったですねぇ」


さて、折りしも夫目高原へ続く山林では山梨ディアハンター友の会の面々が自慢の甲斐犬を従え獲物を探していた。その内の一人が空を見上げて反射的に銃を構え、「おっ!ありゃ何ずら?へぇドデカイ鳥が飛んで来るじゃんけ」と、引き金に掛けた指に力を込める。

「馬鹿っ、やたら撃っちょって言っつらっ!」咄嗟に隣の男が仲間の銃身を押し下げた。「鳥にも言い分はあるっ。問答無用でぶっ放すもんじゃねぇだっ」

「へぇ、こいつぁたまげたな」止められた男は目を丸くした。「土からタケノコが顔出してもぶっ放してたお前が、いってぇどうした風の吹き回しずら?」

「おい、もめちょる場合じゃないで、ありゃ鳥じゃねぇずらっ!見ろしっ人間みてぇな手足があるっ!」

そんな馬鹿言っちょしとざわめきながらディアハンター全員と5匹の甲斐犬が一斉に空を見上げた。だが真昼のお天道様と重なる位置にある飛行物体は眩し過ぎて詳細が確認できない。

その内誰からとも無く「あれは山の神かもしれん」と言い始め、なんとなく有難い気分になったところで今日の猟はオシマイにしようと話が纏まった。




                                          『いもむし男』・完




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