いもむし男−第3章


《捕獲三原則?》

このようにして彼等は出逢い、運命と生活を共にするようになった。

亜輝子には翔吾を「捕獲した」という自覚があった。散歩に出掛け、目の前をヒラヒラと舞う蝶を眺めるのは楽しいが、捕まえなければいずれどこかへ飛んで行ってしまう。これまでも心惹かれる男は居たが、彼女が眺めている内に皆どこかへ飛んで行ってしまった。

「今度は逃がさない」そう心に決めて、まずは翔吾に同居を提案した。

幸か不幸か、当時の彼の住まいは凄まじい状態だった。木造老朽アパートの部屋は4畳半一間しか無く、申し訳程度の玄関に幅60cmの流し台が付いているだけで風呂も無く、トイレは共同だった。彼の絵はただでさえ狭い部屋を占拠していたので、押入れの上の段がベッド、下の段が居間と食堂を兼ねていた。家具といえば絵を整理するためのスチールラックが1つあるだけで、これは彼が環状7号線の高架の下に不法投棄されていたのを拾って来たものだ。幾冊かの本はアパートの廊下と階段にはみ出ていた。

亜輝子のワンルームマンションは20畳ほどの広さがあり、清潔なキッチンと風呂とトイレと洗面所と明るい陽射しの満ちるバルコニーが付いていた。彼女の父親が家賃を払っていたので、彼は彼女に家賃を払った(家賃は彼女が7,500円と決めた)。ベッドは一つしか無かったが、寝相の悪い彼女が翔吾を突き落とすので、ほどなく彼は床に寝るようになった(それでも押入れで寝るよりは遙かにマシだ)。

「僕はどこでも寝られるタイプだけど」彼は毛布から目だけ出して呟いた。「君のお父さんに無断だから寝付きが悪いんだ」

「今はまだ知らせなくていいのよ。物事を進めるには内容より言い方とタイミングが重要なんだから」と彼女は答えた。

亜輝子は大学へ行き、翔吾はマンションの部屋で午前9時から午後3時まで絵を描き、3時半から夜の9時半まで『Jin-Jin』で働く毎日を送った。仁丹ピアスの雨月が時々どこかへ消えるので、翔吾はウェイターと洗い場を兼任し、ジミー片岡に習って調理もこなし、客から注文があると似顔絵を描いた。似顔絵を描くのは本意では無かったが、臨時収入としては有難かった。絵画はまだまだ勉強中だったし、当然ながら自分のスタイルの確立には程遠かったから贅沢は言えない。

だが亜輝子が優秀な成績で大学を卒業し、大手の設計事務所に勤め着実にキャリアを積んで行くのを目の当たりにして、焦燥感は次第につのって行った。彼は時々、自分が分不相応な戦いを挑むドン・キホーテのように思えた。自分には学歴が無いだけじゃなく才能も無いんじゃないか?こんなことを何年続けていてもどこへも到達出来はしないんじゃないか?だったら今すぐ諦めて、「もっと真っ当な職業」を選んだ方が良いのではないか?親父があの時言ったように・・・

(いや、絵を捨てることは出来ない)彼は弱気を追い払うように頭を振った。絵を描く以外の人生は考えられなかった。自分から絵を取ったら、後には役に立たない燃えカスしか残らないじゃないか。他に選択肢は無いのだ。しかし、このままでは展望が開けそうにないのもまた確かだった。

そうこうする内に10年が経ち、2005年3月、ふいに最初の転機が訪れた。亜輝子の父、多加杉作が交通事故で瀕死の重傷を負ったのだった。



《結婚狂想曲-1》

山梨に住む叔母から連絡を受けた亜輝子は、取るものもとりあえず特急「あずさ」で甲府へ向かい、県立病院の集中治療室へ急いだ。

杉作はスクーターを運転中に左折トラックに巻き込まれ、即死は免れたもののかなりの重症を負っていた。集中治療室を出た後も長期の入院が必要とされ、退院の見込みも立たない状態だ。病院は完全看護ではあったけれど、いつどうなるかわからない事態では山梨に留まるしかない。彼女にとってはただひとりの肉親だし、話はほとんど噛み合わなかったけれど大切な父親だった。

亜輝子は決意して大手の設計事務所を辞め、山梨の実家に戻ることにした。するとどこかで噂を聞きつけた大学の先輩が、さらに先輩で吉祥寺にアトリエ系設計事務所を構える建築家、織田一雅に彼女を紹介してくれたのだった。織田一雅設計事務所は甲府に支所を開いていたのである。亜輝子のキャリアと人柄を気に入った織田は、彼女を支所長として採用した。

「100パーセント喜ぶことじゃないけれど、条件が揃ったわ」と、亜輝子は翔吾に告げた。「一緒に山梨に行きましょう」

彼は躊躇いなく頷いた。彼女の提案を断る理由も特に見当たらない。東京に住むことに固執する理由も無かった。彼女の実家はかなり老朽化していたけれど、少々の地震にはまだ耐えられそうだったし、父親が退院しても3人で住むのに充分な広さがあった。何と言っても家賃が掛からない。亜輝子はさらにこう提案した。

「あなたが私と結婚して、家事を全部担当してくれたら、その分、私が事務所でバリバリ働けるから、あなたはどこかでアルバイトしたりしないで毎日ずっと絵を描いていられるの。どう?いいアイディアだと思わない?」

「夢みたいなアイディアだと思う」と、翔吾は同意した。「それで、僕はこれからどうすればいい?」

「まず父に会って。それから父が抜き差しならない状態になる前に籍を入れて、友達と親戚を集めて結婚式をするのよ、すぐにね」

「すぐに?・・・良くわからないけど、籍を入れるのと結婚式が重要なんだね?」

「そう」と言って彼女は眉間に皺を寄せた。「あなたには重要じゃなくても世間的には重要なの。少なくとも、私の親戚は私が実家にヨソの男を連れ込んで勝手に同棲するのを黙って見逃してはくれないわ・・・余計なお世話だけれどね」

「何だか恐ろしい話だね。黙って見逃さないでどうするんだろう?」

「従妹の郁子がカナダ人のバックパッカーを連れ込んだ時は、叔父さんがライフルで威嚇射撃して追い出したそうよ」

「ライフル・・・」

「叔父さんは猟友会の支部長だから、毎年山で熊や鹿やイノシシを撃ってるの。慣れたもんよ」

「山梨に行くのがちょっと怖くなって来たな」翔吾は撃たれる熊と鹿とイノシシと自分を想像して眉をしかめた。

「平気よ、籍さえ入れれば」彼女はにっこり笑ってウィンクした。「私の夫に手出しはさせない」

翔吾は目を瞬かせながら亜輝子の顔を見つめた。彼女がハードボイルドのヒロインみたいに頼もしく見えた。




それからの亜輝子の行動は素早かった。彼女は病室で管だらけになっている父親に翔吾を紹介し、一人娘はキチンとした青年と結婚して幸せな家庭を築くのだということを示して安心させようとした。杉作は目を開けて彼を見たが、喋ることが出来なかったので安心したかどうかまではわからなかった。二人はその足で市役所へ向かい、婚姻届を提出した。結婚式は二週間後だ。その間に市ヶ谷のマンションを引き払い、実家を片付けて生活環境を整え、新しい勤務先である織田一雅設計事務所への挨拶と、甲府支所での顔見せも済ませた。支所には30代のスタッフが男女1名ずつと20代の青年が1名居て、彼等は新任の支所長が30歳になったばかりであることに戸惑いを隠さなかったが、押しなべて好意的に迎えてくれた。

「困ったな」案内状を前にして翔吾は唸った。「僕の側は、結婚式に呼ぶ人が居ない」

「御両親とお兄さんは?」と、パソコンに宛名を打ち込みながら亜輝子は訊いた。

「呼んでも来ないと思う。家を出てから一度も会ってないんだ。きっと僕の存在自体を忘れてるよ。他の親戚とのつきあいも無いし、兄貴は音信不通だし」兄、未野敏郎は、百年に一度万里の長城に現れるという天女の写真を撮ろうと中国へ向かったまま行方不明になっていた。「・・・万里の長城は、長いからなぁ」

「じゃあ、お友達は?・・・ほら、いつか言ってた、私立探偵になる予定のお友達が居たじゃない、高利貸しの」

「あいつか・・・」彼は一層難しい顔をして黙り込んでしまった。

やむを得ず連絡を取ると、相手の両親は新しい電話番号を教えてくれた。意外にも市外局番は山梨市だった。その男、七尾八百樹(ななおやおき)は予定通り私立探偵になり、銀座で宝石泥棒を突き止め(犯人はカラスだったが)事件を解決した縁で、甲府に本社を持つ宝飾会社『Le'z』経営者の令嬢と結ばれ山梨市に豪邸を構えていたのだった。恐る恐る電話するといきなり本人が出たのでびっくりしたが、相手はすんなりと出席を承諾してくれた。さらに他に翔吾関係の出席者が無いのなら、華を添えるために夫婦で行くと申し出た。

「なんせ、俺の女房の名前は華子だからな」と言って、八百樹は豪快な笑い声を上げた。翔吾は彼に電話したことを一瞬後悔したが、もう遅い。

果たして、まだ22歳の『Le'z』令嬢華子は、この界隈では有名な「常識外のお嬢様」だった。七尾夫妻は南国の絞りたての太陽みたいなマンダリンオレンジのスポーツカーで結婚式場に乗り付け、降り立った華子の噴火口のように輝く真っ赤なドレスは亜輝子のシックなウェディングドレスの数倍も華やかだった。加えて、華子は溜息が出るほどの美貌とプロポーション(少々小粒だったが)の持ち主だ。立食パーティ式の披露宴では、花の周りに虫が集まるように彼女を囲んで人だかりが出来る。これでは結婚式の主役は誰なのかわからない。

「ごめん」翔吾が亜輝子に頭を下げた。

「あなたが謝ることはないでしょ?」と、毅然として彼女は微笑んだ。「私は平気よ。むしろ、あなた側の出席者が他に居ないことが目立たなくて良かったわ。彼女は一人で百人分ぐらいの迫力あるもんね」

確かにそうだった。亜輝子の親戚は誰一人として(ストレッチャーに横たわり酸素マスクを付け点滴を4つぶら下げたまま看護師付きで出席した杉作までも)、翔吾の両親が来ていないことを問題にしなかった。そればかりか、翔吾がどういう素性と経歴の持ち主かということすら問題にならなかったのだ。有名な宝飾会社『Le'z』の令嬢を射止めた七尾氏の幼馴染みである、というだけで全ては「御意見無用」になった。

「凄いな。何だか良くわからないけど助かったよ」と、傍に寄って来た八百樹に翔吾は声を掛けた。

「おう、ヒマダノ君、久し振りにお前のツラを見るが・・・」と八百樹は口髭を撫でながらこざっぱりと正装した彼をジロジロ見る。「相変わらず、時代遅れの二枚目俳優みたいなヤサ男ヅラだな」

「時代遅れで悪かったね。君こそ相変わらず気迫が服着て歩いてるみたいじゃないか」

「おうさ、一に気迫、二に気迫、三四が無くて五に気迫ってな。気力と気合いが足りなくなっても気迫があれば人生なんとかなる。ところでどうだ、俺の女房はイイオンナだろう?」

「うん」翔吾は少し離れたところで人に囲まれている華子を眺めた。「とても綺麗でチャーミングな奥さんだね」

「そうだろ?ところがあいつには、ひとつ困った癖があってな」八百樹は眉間に深い皺を寄せ、真剣な目付きになって言った。

「・・・色男に、目が無いんだ」

「え?でも、君と・・・」と言い掛けて、翔吾は堪え切れなくなって爆笑した。しかし八百樹は笑い転げる翔吾の襟首を掴んで睨みつけ、「笑うんじゃねぇこの野郎っ、俺が言ってるのはそういう意味じゃねぇんだっ!」と怒鳴った。そして襟首をつかんだまま彼の耳に小声でささやいた。「いいか、良く聴け。華子に近づくな。あいつに手を出したら、俺はお前を、殺す」

「こ・殺すって・・・日本は法治国家だろ?」

「いや・・・」華子がこちらへ近寄って来たので、八百樹はパッと手を離した。「俺の周囲、半径3メートル以内は治外法権だ」

「治外・・・そんな馬鹿な」翔吾はネクタイを直し、咳払いをした。華子は真正面まで来ると真っ赤なドレスの裾をひるがえして立ち止まった、かと思うとさらに一歩、大きくズイッと近寄って彼を見上げた。




《結婚狂想曲-2》

「はじめまして、未野さん・・・翔吾さん、って呼んでいい?」そう言って華子が微笑むと、彼女の周りの空気が甘い香気を放って盛んにイオン交換を始めるかのようだった。亜輝子が頼もしい女神なら、華子はさながら可憐な妖精だ。彼女の大きな瞳には月が3つ4つ入りそうな底知れぬ神秘的な深みがあり、小さな鼻は子猫のように愛らしく、唇は朝露に濡れてたった今開いた花びらのようにデリケートで妖しく美しい造形物だった。じっと見つめていると、その官能的な曲線の行方に肉体と精神が酔い始め、目の前の半開きの唇にキスをしたいという強烈な衝動に駆られる。

翔吾はハッとして我に返り、「あ、あ、あ、はい、いいです。翔吾でもジョウゴでもジョウロでもなんでも好きに呼んでくださいっ」と真っ赤になって答えた。

「うふふふっ、翔吾さんって面白い人」と華子は小さい鈴みたいに笑った。「ねぇ、あなた、画家なんだってね。子供の時から凄く絵が上手かったって、八百樹が言ってた」

「え?そう?なんて、洒落言ってる場合じゃないか」と彼が言うと、また華子はコロコロと笑った。

「ふふふっ、実はね、わたしも絵を描くんだ」彼女はそう言って少し真面目な表情になった。「こう見えても芸大出なの。といってもデザインの方だけど。家業がジュエリー屋だから、わたしもそっちのデザインやろうかと思って・・・だって、ファイン・アートは、難しいじゃない?例えばさ、翔吾さんは、バーネット・ニューマンとマーク・ロスコの作品の一番の違いは何だと思う?」

(ニューマンとロスコ・・・)二人は共にアメリカ抽象表現主義の画家だ。どちらも色面構成の極めてシンプルな作風だ。まさか一方が横長に縦線でもう一方が縦長に横線、という違いじゃあるまいし・・・翔吾は目を瞬かせて思わず八百樹の顔を見る。八百樹は(俺にそんなことわかるかっ)というように眉根を寄せた。

華子は、今度は悪戯猫のような目付きになって続けた。「八百樹はアートには興味ナシだもんね・・・わたしはファイン・アートに生きるのは諦めたけど、個人的にロスコの絵が大好きだから、彼の死の謎には今でも興味があるんだ。もし、翔吾さんが迷惑でなかったら、こういう話をいつか、二人で、じっくり、したい、と思うんだけど・・・いかが?」

翔吾はギクリとした。彼のすぐ横に、30年間嵐に晒されたマストのように黙って立っている八百樹が居る。

「それは・・・その、彼が許可をくれるなら、僕としては別に迷惑じゃないけれど・・・」

すると華子は八百樹の厚い胸板を人差し指でチョンと突付き、「八百樹は、わたしがすることに何も反対なんかしないよね?」と訊くのだった。

問われた八百樹は、口髭をごにょごにょ動かしてようやく返答する。「・・・うん、まぁ、そりゃ、だいたい、そうだ」

「じゃあ、オーケーね。すぐじゃなくてもいいから、いつかきっと、お願いね」彼女はそう言って爪先立ちになり、翔吾の唇に素早くキスをし、くるりと背を向けて去って行った。

(キ・・キス?)

彼は驚き、呆然として馬鹿のように突っ立っていた。しかし彼女の柔らかい唇の余韻を台無しにするかのように、次の瞬間、バシッという無慈悲な音と共に彼は床に張り倒されていた。八百樹の平手打ちが後頭部を襲ったのだ。

「痛ってぇ・・・」頭をさすりながら後ろを振り向くと、口をへの字に曲げて自分を見下ろす八百樹が、スーツの内側に手を入れゆっくりとピストルを取り出すのが目に入った。まさかと思ったが、それは確かにピストルに見える。かなり小型だが、黒光りする精巧な工芸品のような殺しの道具だ。

「待て・・・」床に倒れたまま、翔吾はゴクリと唾を飲み込んで言った。「僕は、まだ、何も、今のは彼女が」

八百樹は右手にピストルを持ったまま、今度は左手を反対側に突っ込み、煙草の箱を取り出して器用に片手で1本だけ口にくわえ、「心配するな」と言った。

「俺はピストルで撃つなんて手抜きはしねぇ男だ。お前を殺す時はな、時間を掛けて、ゆっくり、丁寧に、心を込めて殺してやる。勝沼に華子の伯父さんから譲り受けた『闇光園』という古いワイナリーがあるんだが、つい先月、そこで錆び付いてギイギイ言う骨董品の葡萄絞り器を見つけたんだ。そいつの中にお前を放り込んで少しずつ絞ってグチャグチャにして泡がボコボコ出るまで発酵させて、それから3年ぐらい地下蔵で寝かせてな、出来た酒を税込み1本1,300円で『道の駅』で売ってやるっ」

八百樹はそれだけ言うと、ピストルの引き金を引き、銃口に灯った小さな炎で煙草に点火した。そして鼻と口から勢い良く煙を吹き出し、踵を返して向こうへ行った。

(あー、びっくりした)

翔吾は八百樹の気迫に満ちた後姿を見送りながら溜息をついた。結婚式で新婦以外の女性にキスされる新郎も珍しいが、張り倒される新郎というのもまた珍しい。いや、進んで自慢の妻を連れて来て見せびらかし、勝手に嫉妬の炎を燃やす男はもっと珍しいだろう。(これじゃ新郎じゃなくて心労だ)などと考えながらも気を取り直して立ち上がろうとすると、「大丈夫ですか?」と手を貸してくれる初老の紳士が居た。

「大丈夫です、ありがとうございます・・・えーと、あなたは・・・?」彼は立ち上がり、相手の顔と名前を一致させようと努力した。確か、亜輝子の親戚の内の誰かだったハズだと記憶を探りながら、猟友会の叔父さんではないことを密かに祈る。

相手はハッとして懐に手を入れ、名刺を取り出した。「改めまして、私、南水清(みなみみずきよ)と申します。亜輝子の亡き母、輝子の兄です」

受け取った名刺を見ると、流れ星のマークの下に『星空の会・正会員 UFO研究家』という肩書きが付いていた。

「しかし、七尾氏は相変わらずですな」翔吾が名刺を見て固まっていると、それには構わず水清は、ホッホッホッとフクロウみたいに笑った。「あの方は確か、神奈川からこちらへ来られたのですよね。北鎌倉にお住まいだったとか・・・翔吾さんも御出身は鎌倉ですか?」

「いいえ、僕は高知県生まれです。生まれただけですけど」と答えながら、彼はようやく名刺から顔を上げた。

「生まれただけ、とおっしゃいますと?」水清はニコニコしながら訊ねた。

「親父、いや、父が、引越し魔だったもので、あちこち移動しまくって・・・八百樹とは中学校で一緒になったんです。転校ばかりしていましたから、友達らしい友達は彼ぐらいしか居なくて、それで式に呼んだんですけど・・・まさか殴られるとは」

水清は、また、ホッホッホッと笑う。「あなたに久し振りに逢えて嬉しかったんでしょう。七尾氏はユニークな方だから・・・いや、彼の評判はなかなかのものです。勿論、私立探偵としての、です。と言ってもこの辺りじゃさほど大掛かりな事件は起きませんが、少なくとも迷い猫探しに関しては彼の右に出る者は居りません」

「迷い猫探し?」

「そうです。私もウチのジュピターが・・・ジュピターというのが猫の名前なんですが、ちょっと目を離した隙にコルビュジェ・・・コルビュジェというのは屋根裏に居候しているカラスでして、亜輝子が名前を付けてくれたのですが、そのコルビュジェと一緒に夕涼みに出掛けて迷子になった時も、七尾氏がたちまち見つけて無事、保護してくれたのです。なんでも彼は愛猫のグロピウスに教わって猫語を解するようになったのだそうで、それで方々の猫から情報を集めて迅速に発見することが出来るということです」

(猫語・・・)翔吾は強面の八百樹が猫を相手にニャアニャア喋っている様子を想像し、次第にめまいがして来た。

「もっとも、猫語を解するというのも、この辺りじゃさほど突飛なことではありません。山梨は人口は少ないのですが、対人口当たりの変人率はかなり高いという統計が出ております。そのお陰で宇宙人も比較的溶け込み易いのでしょうね。現在、山梨に居る宇宙人は42人になりました。このところ年に一人のペースで増えて来ています」

「はぁ・・・」翔吾はひどくなるめまいの中で水清の目を深々と覗き込んだ。八百樹に殴られた後頭部が痛かった。




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