いもむし男−第5章


《2009年夏の誘い》

2009年6月7日、良く晴れた日曜日の朝7時13分に、未野家のキッチンで電話がけたたましく鳴り響いた。

翔吾は電話が嫌いだった。大きな音で突然自己主張して驚かせる。さりとて小さな音では聞こえない。在ればウルサイけれど、無ければ不便だ。何より厄介なのは、いつもこちらの都合などお構いなしに一方的に呼び立てるというところだ。

「はい、未野です」朝食の支度に忙しい彼に代わって、受話器を取るのは亜輝子である。

「あ、亜輝子さん?」電話の向こうの声に、明らかな落胆の色が漂った。「お久し振りの華子でーす。翔吾さん、いらっしゃる?」

「ええ、居ますけど・・・」亜輝子はシンクに向かう翔吾をちらりと見る。「彼は今、手が離せませんの」

「え?こんなに朝早くから、制作中ですか?」

「いいえ、今は玉ネギを刻んでいます」

「あら、そう・・・」華子は3秒ほど沈黙した。だが、簡単には諦めない。「亜輝子さん、実はわたし、一生のお願いがあるんだけど」

「一生のお願い?」(大きく出たな)と亜輝子は身構える。「何でしょう?」

受話器の向こうで、華子が息を吸い込む音がした。「・・・今日一日、翔吾さんを、貸してください」

「へ?」亜輝子は自分の眉毛が勝手に吊り上がるのを感じた。「意味が、おっしゃる意味が今一つわかりかねるんですが」

「どうしたんだい?誰から?」翔吾が手を拭きながら傍に来た。来てしまったからには仕方が無い。「華子さんよ」と告げて受話器を渡し、彼女はドッカと椅子に腰掛ける。

翔吾は咳払いを一つして、意味も無く受話器の小さな穴を見つめ、それからそこへ声を掛けた。「もしもし?」

「わぁ、翔吾さんっ?良かった、華子です」華子は打って変わって嬉しそうな声を上げる。「突然で申し訳ないんだけど、今日、今からちょっとおつきあい願えないかなぁ?」

「今から?今、どこに居るんですか?」

「もっちろん日本よ。山梨市のわたしの家から掛けてる」

「あー」彼は曖昧な返事をしながら亜輝子の方を窺った。「帰って来てたんですね・・・」

「先月末にね。でね、うかつにも千葉の川村記念美術館でロスコのシーグラム壁画の展覧会をやってたのを昨日まで知らなくて・・・翔吾さんは、もう、観に行ったのかな?」

「ロスコのシーグラム壁画・・・いや、僕はまだ・・・展覧会のことも知らなかったな、情報源に乏しいから・・・」

「それがねぇ、なんと今日までだったんだ。だからさ、今からバビューンと車かっ飛ばして観に行こうと思うんだけど、一緒に行ってくださいません?」

「僕と?」翔吾は頭を掻き、背中を掻き、ズボンのポケットに手を入れたり出したりする。「・・・八百樹は?」

「八百樹なんか・・・彼はアートはダメ。興味無い人と一緒じゃシラケちゃう」

「でも・・・その、許可は?僕と出掛けることを八百樹は知ってるの?」

「知ってる。わたしが翔吾さんに電話して誘ってるのも知ってるよ。今、目の前のソファに座ってこっち見ながら鼻クソほじってるから」

(うひゃー)翔吾はいつの間にかじっとりと汗を掻いていた。

「行ってくれば?」と横から亜輝子が声を掛けた。「あなただって、ロスコの展覧会なら観たいんでしょ?私は今日は北杜市と八王子で打ち合わせがあって遅くなるし、別に構わないわよ、ゆっくりしてらしても」

「う・・・うん・・・そうだね・・・」受話器を持つ手が汗で滑る。(何で俺はこれしきのことにこんなに焦ってるんだ)と情けなくも思うが、臆病なのは生まれつきなのだから仕方が無い。5歳の時、遊園地で親に無理矢理メリーゴーランドに放り込まれ、一番動きの少ないカメの乗り物にしがみついて泣き叫んだ記憶は今でも生々しい。しかし道端で動物が死んでいると、どうしてもひっくり返してみたくなるという妙な好奇心も併せ持っていた。

「・・・うーん、じゃ、亜輝子も了解してくれたから・・・うちで待ってればいいのかな?」

「ホントッ!?やったぁー!じゃ、支度して、30分後にお迎えにあがりますっ!ではではっ」華子は歓声を上げながら電話を切った。

翔吾は呼吸を整え、気を取り直して素早く食事の支度を仕上げた。亜輝子は何を思ったのかウォーキングクローゼットに行き、緑色の細かいチェック柄のコットンシャツと新しいチノパンツを持って来た。「はい、これに着替えて。あなたは緑が似合うから」

「なんだい?デートに行くわけじゃないんだよ、そんなお洒落しなくたって・・・」

「デートみたいなもんでしょ?」彼女はニッと笑ってシャツを押し付ける。「妻としては複雑な心境だけど、夫が絵の具の付いたシャツで女性と歩くのは許し難いわ。私の夫はイイ男なんだって、彼女に自慢してやるのよ」

「ふーん、そういうもんかな?・・・まぁ、なんでもいいけど・・・」

複雑なのは彼も同じだった。確かにロスコの展覧会は観たい。しかしよりによって、なぜ華子と行く羽目になるのか?彼女が車で行き、自分は電車で行っても構わない筈だ。その方があらゆる意味で安全なんじゃないか?・・・だが人生は後ろ向きには進まない。どうやら八百樹の言ったことは本当らしい。気迫のある者が人生を思い通りに運ぶのだ。そしてそう言った当の八百樹より、華子の気迫の方が勝っているようだった。華子のご指名を逃れることは土砂降りの雨粒の間を濡れずにすり抜けるより難しいに違いない。

翔吾は手っ取り早く食事を済ませ、洗面所の鏡の前で身支度を整えた。歯を磨き、髭を剃り、ふと目に入った棚の上のプラスチックの櫛で髪を梳かしてみたが、売れないフォーク歌手みたいに見えたので慌てて手で元通りにグシャグシャにする。

(やれやれ、こんな俺のいったいどこがイイ男なんだか)彼が溜息をついたと同時に、表にスポーツカーの爆音が轟いた。

「おはようございまっす!」と、にこやかに現れた華子はマリンブルーのツーピースに黒いジャケットという珍しくシックな色合わせではあるが、スカートの丈は超ミニだった。マリンブルーが彼女の白い肌と脚線美を際立たせている。アメリカに行っている間に26歳になった彼女は、以前にも増して妖しい美しさに輝いていた。亜輝子は一瞬、許可を出したことを後悔したが、今さら抵抗するのもプライドが許さない。ここは余裕の微笑みを浮かべ、手を振って翔吾を送り出すことにした。後は彼を信じるしかないのだ。


華子が運転するマンダリンオレンジのスポーツカーのピッタリとした黒いバケットシートは、新鮮な果物の果肉のように翔吾の体を包んだ。彼は免許を持っていなかったので、家には亜輝子が運転する旧型のホンダ・シビックが1台あるだけだ。具体的に乗り心地を知っている車というのは、従ってシビックしかなかった。乗せられたスポーツカーとシビックの乗り心地とスピード感のあまりの差に、彼は暫く口をきくことも出来ず、背骨に力を入れて座席にしがみ付いていた。勝沼インターチェンジから中央自動車道に入った車は、華子の体の一部のように滑らかにシフトチェンジしながら、6月の眩い朝の光の中を疾走して行った。




《恐怖のドライブ》

5歳の時、メリーゴーランドが恐かった翔吾は、12歳になるまで自転車にも乗れなかった。それじゃあんまりだろうと心配した兄の特訓を受けてなんとか乗れるようになった矢先に、坂道の上でブレーキが外れるというアクシデントに見舞われる。家から学校へ向かう途中の、『キリン坂』と呼ばれる長くて急な坂道だ。猛スピードで目の前を下って行く自転車と悲鳴を上げる彼を見送る級友達は、坂の下の三叉路に現れた大型トラックに気付いて目を覆った。彼は自転車ごとトラックに撥ねられ、12メートルほど宙を舞った。が、道路沿いの小池さんの家の池に落ちたために奇跡的に無傷で済んだ。(やはりこういう場合も考えて池にワニを飼うべきではないな)、と彼は思った。

翔吾が黙っているので、華子も暫く無言で運転していた。(緊張してるのかなぁ)と横目でちらりと窺うが、相手が座席にしがみついている本当の事情などわかるわけもない。

「今・・・」と、笹子トンネルを抜け15分ほど走った辺りでようやく翔吾が口を開いた。「何キロぐらい?」

「え?」華子は一瞬、自分の体重を答えそうになり、思い直して「えっと、平均時速130キロってとこ」と言った。「この車なら180キロ出してもブレ無いけど、これぐらいにしとかないと、この辺はカーヴが多いから。覆面も走ってるしね、用心用心」

130キロと聞いて彼は全身の血の気が引いた。(俺は前の交通事故で無傷だったから、今度事故に遭ったら致命的に違いない・・・何と言ってもここには小池さんの池が無いんだ。)そう、池は無い。オープンカーだから屋根も無い。

しかし華子は方向違いに気を廻す。「やっぱり、亜輝子さんに・・・悪かったかなぁ?」

「・・・どうして?」カラカラに乾いた咽に唾液を送り込み、ようやく翔吾は返事する。

「せっかくの日曜日なのに、翔吾さんを横取りして」

「日曜日だけど・・・彼女は今から仕事だよ」

「働き者なんだ」

「建築バカなんだ、って、彼女が言ってた。一日24時間、建築のことばかり考えてる、建築病なんだ」翔吾はそう言いながら、喋っている方が恐怖が紛れるということを発見した。彼は言葉を続ける。「一級建築士に於けるこの病の罹患率はおよそ73パーセントだけど、建築家と呼ばれるぐらいになると98パーセントもが発症する。そうなると例えばポットを見てもアイロンを見てもフジツボを見ても建築に見えるようになるんだそうだ。実際そういったものから建築のフォルムを思い付く建築家もいるらしい」

「フジツボから?・・・そういえばそんな建物を観たような気もする」彼が話し始めたことに喜んだ華子は真剣な顔で頷いた。

「それで、一級建築士を受験すると答案の最後に建築バカ度を測るグラフがあって、自己測定で75パーセントはクリアしないと合格出来ないんだ」

「ほんとぉ?」

「・・・ウソ」

翔吾は前方を凝視したまま表情を変えずにボソリと言った。華子は大きな目をさらに見開いて長い睫毛をぱさつかせる。そしてやや間を置いてから、「バカッ」と言い放つと同時に彼の太腿を思いっ切りひっぱたいた。

「い・・・痛ってぇ・・・」夏物のチノパンツは薄い。弾力のある小さな掌は想像を絶する破壊力を秘めていた。

「おっと、ゴメンね、強く叩き過ぎちゃった」彼女は慌てて彼の太腿を撫でさする。その手は気のせいかだんだん上の方に移動する。だがくどいようだが夏物のチノパンツは薄いのだ。

「あ、ちょっと、ストップ」と言って、翔吾は華子の手をそっと掴み、彼女の太腿の上に置いた。しかし素早くすり抜けた小さな手は、逆に自分の剥き出しの太腿に彼の手を押さえ込んだ。

(・・・ムムムムム)掌の下に暖かく柔らかく滑らかな素肌を感じて思わず息を止める翔吾の脳裏で、目を吊り上げる亜輝子とピストルをちらつかせる八百樹がメリーゴーランドのカメに乗ってグルグル廻っていた。

華子の手は獲物を捕らえたアリジゴクのように、押さえ込んだ翔吾の手をじりじりと足の付け根の方へ運んで行った。その到着地点が意味するものの魅惑的且つ危険な気配を察知した彼はなんとか手を引っ込めようと努力していたが、どういうわけか金縛りに遭ったように力が入らない。息を止めているのも限界に達し、切実で深刻な呼気を吐いた後、今度は次第に呼吸が荒くなるのを押さえようも無かった。

「・・・は・華子さんっ」

「ん?」

「・・・あの、その、僕の手を・・・いったいどうする気・・・」彼がそこまで言った時、片手でハンドルを握る華子が「ちっ!」と舌打ちをした。彼女は翔吾の手をあっさり解放して、前方で蛇行するBMWに向けてパッシングしながら激しくクラクションを鳴らし、チタン合金のシフトノブを握ってギアを落とし、アクセルを踏み込む。車は唸り声を上げて一気に加速し、彼は伸しイカみたいに声も無くシートにめり込んだ。

BMWを蹴散らしてしまうと、彼女は隣で蒼ざめている男に向かって、「へへへっ」と笑ってみせた。それから思い出したようにドリンクホルダーからジンジャエールの瓶を引っ張り出して彼に渡した。

「蓋、開けて」

彼は座席にしがみつくのを止め、指図されるままに蓋を開けて瓶を差し出した。彼女はそれをゴクリと一口飲み、それから当たり前のように瓶を彼に渡し、「どうぞ」と言う。

「これ、飲んでいいの?」と問うと、華子は肩をすくめて短く何度も頷く。翔吾はすぐ間近で息をしている完璧な輪郭の奇跡のような横顔と、紅い花のような唇と、深いスリットのあるブラウスのダイビングを誘うような胸の谷間をちらりと見てから、瓶に口をつけて液体を流し込んだ。

冷たい液体はサハラ砂漠でやっと見つけた井戸から汲み上げたみたいに咽に沁みた。(頭を冷やせ)咽を通る液体はそう告げていた。(彼女は退屈してるだけだ。俺に何か期待しているのか、なんてことは考えるなよ)うんうん、と彼は頷いた。(ついでに自分が本当はどうしたいか、なんてことも考えるんじゃないぞ)わかってる、と彼は自分に返事した。頭の中でぐるぐる廻る亜輝子と八百樹とメリーゴーランドは、彼にとって核兵器にも勝る抑止力となっていた(この場合、メリーゴーランドは関係ないけどな)。

華子は度々ウィンカーを出し、頻繁に車線変更して車列を追い越して行った。首都高速が混むのはわかっていたから、中央道でなるべく時間を稼いでおきたかったのだ。彼女の運転は確実で無駄が無かった。車は獲物を追う猛獣のように走り続け、幾つかゲートを抜けてほどなく首都高速に入った。

「ちっ、やっぱり渋滞かぁ」彼女は顔をしかめて彼の手からジンジャーエールの瓶をひったくり、残りをゴクゴクと飲み干し、空き瓶をゴミ箱に放り込んだ。新宿副都心が見える頃にはたいてい身動きが取れなくなる。これじゃ高速道路じゃなくて縦列駐車場だ。

「ねぇ、翔吾さんってさぁ、なんて言うか・・・」車が完全に停まってしまったので、華子は彼の方に顔を向けて訊いた。「こう言っちゃなんだけど、意外と、クソ真面目なんだね」

「クソ・・・」そんな風に言われると、急に自分が冬枯れの河原に取り残された野糞のような気がしてくる。哀愁だ。



《芸術家はドスケベか?》

「わたし、芸術家って、みんなドスケベなんだと思ってた」華子はそう言って、月夜の猫みたいに意味深な微笑を浮かべた。そしてのろのろと流れ出した車列に従って、面倒臭そうに少しずつ車を前へ進める。

翔吾は自分の掌を見つめ、野糞状態からの脱出を図ろうと思案していた。彼は咳払いを一つして、額に掛かる前髪を掻き上げ、シャツの袖口を引っ張る。それから彼女の方を見ないで、「グスタフ・クリムトの絵を、どう思う?」と訊ねた。

「クリムト?」華子は小まめにシフトチェンジしながら口の端をちょっと持ち上げる。「大好きだよ。凄い綺麗で、ゴージャスで、エロチックだもんね」

「うん」彼は人差し指で鼻の頭を掻いて、言葉を続けた。「クリムトの絵は、一般に官能的でエロチックだという印象がある。特に彼が残した何千枚もの素晴らしいデッサンの一部は、明らかにエロチックだという理由で滅多に公開されないぐらいだ。クリムトは生涯独身で、いつもアトリエの横の部屋に何人かの美しい女性モデルを待機させていて、必要に応じてヌードのポーズを取らせた。彼の作品は『大いなる覗き見趣味』と評されたこともあった。だけど実際は、彼が愛した女性はエミーリエ・フレーゲ唯一人だったと言われている。事の真偽はわからないけれど、もしクリムトがドスケベだから官能的な絵を描いたり、ヌードモデルを侍らせていたんだとしたら、彼はあれだけの作品を残せなかっただろう、と僕は思う」

華子はハンドルを握ったまま黙って頷き、先を促した。

「画家は『美』を探求する。『美』は官能性の中にある。女性の体に限らず、動物や植物の姿形や色に、あるいは大地の起伏や川の流れや波のうねり、空の色、雲の形、太陽の輝き、それらの自然物全ての中に造形的な『美』がある。それを一般の人が感じる以上に確実に見出せる画家という人種は、同時に『美』を成り立たせている造形の官能性を掴み取っているんだ。その行為自体が画家の喜びであるだけでなく、それを掴み取り充分に理解することが出来なければ、感じた『美』を絵にして他人に伝えることが出来ないからだ。そういう修練を積む内に、もしくは生まれ付きの画家ゆえに、自ずと官能性に敏感になる。そこを世間はドスケベだと感じるんだろうね。だけど画家は官能性の従者ではあっても、それをコントロールする力を合わせ持たなければ、作品を完成させることは出来ない、と僕は思う」

車列は外苑前を過ぎる辺りから少しずつ流れ出した。華子は車を繰りながら、かすかに微笑を浮かべ、「もっと、話して」と言った。

翔吾は続けた。

「画家だって、画家である前に人間だし、クリムトも僕も男だ。官能性に敏感な男は、そうでない男より女性の魅力に刺激を受け易いのは確かだと思う。特に造形的に心惹かれる女性を前にした時は、全身を目にしてそこにある『美』と官能性を読み取ろうとしてしまう。問題はその後だ。彼がスケッチブックと鉛筆を手に彼女を描こうとするか、そんなものは放り出して彼女をベッドに押し倒そうとするか・・・」

「描いてから押し倒すか、押し倒してから描いてもいいんじゃない?」と、彼女が口を挟んだ。

「いや、僕が言いたいのはそういうことじゃなくて」彼は自分の髪をぐしゃぐしゃと手で掻き混ぜる。

「つまり、欲望を創造のエネルギーに昇華出来なければ、作品のレベルには限界が見えて、画家としては二流で終わってしまうんじゃないか、ってことだよ」

「んじゃ、わたしが知ってるドスケベな芸術家はみんな二流ってことか・・・」華子は妙に納得した態で頷いた。

「そこまでは言えないけど・・・中には『何でも有り』の物凄くエネルギッシュな人も居るから。画家じゃないけど、建築家のルイス・カーンは、崇高な、現代の神殿みたいな巨大建築を幾つも実現させたけど、同時に3つの家庭を持っていてそれぞれに奥さんと子供が居たらしいからね。まぁ、例外中の例外だと思うけどさ。そんな凄い人はともかく、少なくとも今の僕は的を絞らなければならないんだ」

「わかった」彼女はちらりと彼を見てウィンクした。「クソ真面目呼ばわりは取り消す」

彼は肩の力を抜いて息を吐いた。「ありがとう。これで野糞から復活出来た」

「でもさ」華子は片方の眉毛を悪戯っぽく持ち上げる。「造形的に心惹かれる女性を見ると、描きたくなる、っていうのはどうなるの?」

「どうなる、って・・・?」

「わたしは、どう?描きたい?」彼女はそう言うと、前方を注視したまま片手を腰に当てて彼の方へ上体を捻り、胸を突き出したポーズを決めてみせた。捻ったブラウスの胸元から片方の乳房が5分の2ほど覗く。彼の目はそのゲレンデのような素肌の上を途方に暮れて行ったり来たりした後、バランスを崩してクレバスに落ちた。

「・・・そりゃあ・・・正直なところを白状すれば」

「白状すれば?」

「・・・描きたい・・・物凄く」クレバスは深くて暗いが恐くは無かった。「君を描きたい。着ているものを全部剥ぎ取って、君の『美』を成り立たせている造形の官能性を、しっかり掴み取って僕の右脳に刻みたい」

遂に本音を言ってしまうと、彼は目を閉じて深い溜息をついた。(正気か、俺は?)白状してしまったことを一瞬後悔したが、反面、自分を曝け出したことで気が楽にもなった。華子は15秒ほど瞬きもせずに固まっていたが、一端口を真一文字に結んだ後、「いいよ」と言った。

「じゃあさ、美術館のアートショップでスケッチブックを買って、帰りにちょっとラブホに寄り道して、そこでデッサン会やろうよ」

「ええっ!?」と、彼は目を見開いた。「ラブホは、いくらなんでもマズイんじゃないか?」

「じゃあどこで描くの?オープンカーの中じゃ、公然ワイセツ罪で捕まっちゃうよ。近頃じゃ有名な写真家がヌード撮影するんだって、ちょっと場所を間違うとすぐに公然ワイセツ容疑で挙げられちゃうんだから気を付けないと。自分の家以外でオンナが素っ裸になっても問題無いのは銭湯と風俗営業店とラブホぐらいしか無いじゃん。ラブホに行ったって、わたしを『描くだけ』なんだから何も問題無いと思うけどな」

「う・・・確かに、そりゃそうだけど」

「じゃあ決まりだね。嬉しいなぁ、翔吾さんに描いて貰えるなんて、なんだかゾクゾクして来ちゃった」

華子は心から楽しそうに笑った。やはり気迫のある者が勝負を握っているらしい、と彼は思い、何度か頭を振った。




《グロピウス?》

渋滞を抜けた車はいつの間にか首都高速を降り、京葉自動車道を経て国道51号線を佐倉に向かい、11時36分に美術館に到着した。

「やれやれ、いつもながらひどい渋滞だったな」

車を降りた華子は伸びをし、さまざまな方向へ体を捻ってストレッチした。「きっとレストランは満員だと思って、わたし、サンドイッチを作って来たんだ。お庭でお昼にして、それからゆっくり観ようね」

翔吾もつられ、車の横に並んでストレッチを始めた。「そういえば、腹が減ったな。僕は座ってただけで走ったのは車なのに」

彼女は大きな声で「アハハッ」と笑い、跳ねるような足取りで車の後部に廻ってトランクを開けた。そして、「ゲッ」と踏んづけられたヒキガエルみたいな声を発する。

「グロピウス・・・なんで、アンタが乗ってるんだっ!?」

「グロピウス?」翔吾は体の動きを止めた。勿論バウハウスのワルター・グロピウスがトランクに入っているわけはなく、怒鳴られて飛び出して来たのは別のイキモノだ。それはあっという間に彼の体を駆け上がり、はっしと頭にしがみ付く。何かと思えば猫である。巨大な、太った、毛皮で出来たフットボールみたいなオスのヒマラヤンだ。洗車機になりそうなぐらい太い尻尾が、どうしたわけか3本もある。

華子は毒づきながらカバーを除け、クーラーボックスを開けて中から赤いギンガムチェックのリボンの付いた可愛いバスケットと水筒を取り出した。「ああ良かった。全部、グロピウスが食べちゃったかと思った」それからまだ翔吾の頭にしがみ付いている猫に向かって、「グロピウス!シート!」と命令した。

グロピウスはハッとして彼の頭を離れ、胸の辺りからジャンプして助手席に飛び込んだ。

「凄い・・・お利口さんな猫なんだね」翔吾は感心して拍手をした。すると猫は眠たそうな顔をこちらに向けて、(どうも)とでも言うように一声、「にゃあ」と鳴く。

「まぁね。八百樹の訓練が厳しいから、猫も命懸けなんだよ」

彼女の言葉に彼は思わず深く頷き、心密かに猫に同情した。「それにしても、4時間もトランクの中で寝ててよく平気だったな」彼が手を伸ばして頭を掻いてやると、グロピウスは気持ち良さそうに咽を鳴らし、3本の尻尾を扇子のようにパタパタ動かした。

「尻尾が3本あるでしょ?ちょっと『もののけ』入ってるんだよね。冷蔵庫の中で寝てる時もあるよ」

彼女の解説に、猫は聞こえないふりをしてシートの上に丸くなった。彼女はハンドル脇のスイッチを押して天蓋を閉め、窓を半分開けて鍵を掛ける。

「彼はゴハンはいいの?」

「うん、ダイエット中だから。どうせ寝てばかりだし。さ、美術館はあっちよ」華子はまだ猫を見ている翔吾の腕にさり気なく腕を絡ませて先を促した。彼はさほど長身ではなかったが、それでも小柄な彼女の頭は彼の肩の下にあり、地面から立ち昇る6月の大気は艶やかな髪の香りを鼻腔に届けるのに充分だった。

(そういえば、亜輝子と腕を組んで歩いたことは一度しか無いな)

すらりとした肢体の亜輝子は翔吾との身長差が8センチしか無い。ヒールを履けば頭は完全に並んでしまう。結婚した翌年に武田神社へ初詣に行った帰り、珍しく亜輝子が腕を絡ませたことがあった。が、彼にもたれようとした時タイミング悪く頭突きを食らわす羽目になり(あの時は二人とも頭を抱えて道端にしゃがみこんだ)、それ以後、腕組歩行を試みることは二度と無かったのだった。




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