いもむし男−第6章


《アンナの光》

川村記念美術館には広大な美しい庭園が在る。くの字型をした大きな池を中心に散策路が巡り、自然の植生を活かした雑木林が施設を囲む。別棟にはレストランも在るが、混雑を予測して手弁当を持参する来館者も多い。実際、気候の良い季節には池の周りでピクニック気分を味わいながら食事する方が得策かもしれない。華子もそれを知っていて準備して来たのだ。

二人は池のほとりの小さな木陰に腰を下ろし、簡単な昼食を取った。池には白鳥がのんびりと浮かび、のたのたと水から上がって来たガチョウに人々は微笑み、子供が尻込みしながらもちょっかいを出している。親子連れ、熟年夫婦、若いカップル、学生など、さまざまな年代の人々が爽やかな日差しに包まれ休日のゆったりとした時間を楽しんでいた。

心地良い空気と眺めの中で、翔吾は久し振りに他人が作ったサンドイッチを食べて感慨に耽った。

「・・・美味い。サンドイッチがこんなに美味いなんて、僕は34年間もどうして知らなかったんだろう?」

「良かった」華子は水筒から冷たい麦茶をラッパ飲みした。「わたし、料理はあんまり得意じゃないから、ドキドキだった」

彼女は水筒を彼に渡し、バスケットを片付けた。彼も水筒から残りの麦茶を飲み干した。「麦茶も格別だね」

華子はフフフッと笑い、彼の手を掴んで立ち上がらせる。

美術館の入り口前にはフランク・ステラの巨大な野外彫刻が番頭みたいに鎮座していた。高さ7メートルほどもあるカオスの集積は、観る者を例外無く仰け反らせる。いや、例外もあった。フランク・ステラの健闘に敬意を表しつつも、二人は顔を見合わせただけで先を急いだ。入場券を買いながら、「それにしても、こんなに混んでる現代美術館は初めて来たよ」と彼が感想を漏らした。

華子は(何を今さら)と言いたげに口を尖らせる。

「マーク・ロスコが、途中で嫌になって契約そのものをブン投げた大スキャンダル壁画だからね」

1958年、壁画は多額の前金と共に依頼された。ニューヨークのパークアベニューに新築したシーグラムビルの高級レストラン『フォーシーズンズ』の壁を飾るためにだ。もちろんロスコは壁画を描くことが嫌になったわけではない。一端請け負ったものの、自分の作品がスノッブなレストランの単なる装飾になることにどうしても耐えられなくなったのだ。ロスコは自作だけが空間を占め、独自の「場を創る」ことを願っていたが、レストランは開放的で雑多な広間だった。採光などの設置条件も彼の意図と合致しないものだった。ロスコは貰った前金を全て返し、既に完成していたおよそ40点の巨大な絵は自分の手元に残した。作品を子供のように思っていた彼にとっては当然の選択だったが、画家が大口の注文を断るという行為は世間にとっては理解し難いスキャンダルだったのだ。

その後壁画は世界各地に散逸し(内10点ほどは消息不明になったらしい)、現在はロンドンのテート・ギャラリーとワシントンDCのナショナルギャラリー・オブ・アート、ロスコの子供達の個人コレクション、そして川村記念美術館に所蔵されている。今回の展覧会ではテート・ギャラリーと川村記念美術館が共同企画を行い、制作から半世紀を経て初めて、現存する壁画30点の半数に当たる15点が一堂に会する歴史的な機会となったのだった。


華子がロッカーに手荷物を預けている間、翔吾は井戸の底のようなホールと壁面のステンドグラスを眺めていた。陽光の溢れる庭園とは打って変わって薄暗くひんやりとしたホールだ。展示室への導入部として、かなり効果的な溜まりとなっている。ホールから展示室へはなだらかな廻り階段を昇るが、意図してか階段の幅は狭く、その先に待つ空間への期待を弥が上にも増すしつらえとなっていた。2階へ上がると小ホールが在って各展示室への通路が伸びており、右側がメイン展示室だ。

翔吾は何気なく壁の案内表示を見て、通路の先に『ニューマン・ルーム』が在るのに気付いた。

(知らなかった、バーネット・ニューマンの部屋が在るのか)足はすでに取り憑かれたようにそちらへ向かっている。

(あらあら、そっちが先?)と思いながら、華子も後を追った。

彼は細い通路に導かれ、やがて左に開けた空間を感じて体の向きを変えた。

「ああ・・・」

特別な部屋の真ん中で、オレンジ色の途方も無く大きな『アンナ』が、手を広げて彼を待っていた。



思わず感嘆の声を漏らした翔吾は、絵に向かって2歩近づいたところで止まり、そのまま呆けたように立ち尽くした。目の前に広がる朱赤に近い濃いオレンジ色は陽光に透かした鮮血のようだった。横7.1メートル縦2.3メートルの血の壁だ。『アンナの光』は亡き母の名を冠して1968年に制作され、その2年後、バーネット・ニューマンは自殺した。だが鮮やかな色が幾層にも塗り重ねられた輝く幕のような画面はエネルギッシュで、死の予感はどこにも見当たらず、鮮血を想起させながらも不気味さは無い。むしろ胎内で自らを育んだ母親の血潮を想わせ、懐かしさと生命の賛歌に満ちて感じられた。

「ねぇ・・・」華子が彼の横にぴったり寄り添い、小声で囁いた。「今の、翔吾さんの声、とても色っぽかったな」

彼は華子の言葉に我に返り、思い出したように展示室を見回した。しかし見回すも何も、『ニューマン・ルーム』には、『アンナの光』以外の作品は無いのだった。絵の両側には薄い水色のカーテンが引かれたFIXの窓が天井まで伸びてぐるりと半円形に囲み、窓の向こうには庭園が見える。壁も床も天井も白い。絵は部屋の突き当たりの白い壁のやや低い位置に掛けられ、上からの柔らかい照明を浴びて静かに佇んでいた。他には、この部屋には何も無い。正に『アンナの光』のためだけの部屋なのだ。

もう一度絵に目を向けると、背後の薄い水色のカーテンが絵のオレンジを優しく引き立てているのに気が付いた。彼は胸の中でこの美術館のコーディネーターに拍手を送り、素晴らしい「終の棲家」を得た作品を心から羨ましく思った。(ニューマンに観せたかったな)しかしほとんどの画家は作品より短命なのだ。

隣に立つ華子が彼のシャツの袖を軽く引っ張った。翔吾がいつまでも絵の正面に突っ立っているので、他の鑑賞者の邪魔になっていたのだ。彼が脇へどくと、後ろで観ていた若いカップルが絵の方へ身を乗り出した。派手なモヒカン刈りの青年が、目を輝かせ、胸いっぱいの感動を持て余したように「かっちょえー」と呟く。年配の夫婦は、じっと絵を見つめ手を口で覆ったまま、言葉を失っていた。

「ロスコ、観ようよ」

華子に促されてようやく部屋を出た時も、翔吾の顔は絵の方を向いたままだった。

「ニューマンが好きなんだねぇ」彼女は虚ろな表情になっている連れを横目で窺った。小ホールまで戻ると、彼は大きな溜息をついた。

「あんなに大きい実物は初めて観たんだ。やっぱり図版から想像するのとは迫力が違うな」

「なんせ、『アンナ』の光だもんね」華子が珍しくダジャレを言ったが、彼は笑わなかった。

「ニューマンは凄いよ・・・凄すぎる。あんなに簡潔な画面で、あれだけのインパクトを与えることが出来るんだ。彼の絵には打ちのめされる・・・とても、かなわない」

「大丈夫?」彼の顔を覗き込んで、彼女は真剣に心配した。「ロスコの部屋へ、行ける?」

翔吾はハッとして2・3度首を振り、「ああ、ごめん、平気だよ。観に行こう」と歩き出した。




《シーグラム壁画-1》

小ホールから右手にある企画展示室の白い壁には、控えめな大きさの深紅の字で「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」と書かれていた。良く見ると文字は一文字ずつ切り抜かれたプレートになっていて、白い壁に浮かび上がるように貼り付いていた。展示室内のキャプションも同じ手法で表示され、主催者のセンスと作品への愛情を感じさせる。何気ないことだからこそ、絵画を愛する者にとってはこうした配慮は感動的だ。

白い壁の左端に在る入り口から中に入ると、最初の部屋には赤と黒だけの横長の絵が1点、ロスコに代わって来場者に挨拶するように掛けられていた。画集でも観たことのある作品だ。絵の前に長椅子が置かれ、広い空間なのに他には何も無い。

(理想的な展示だな)翔吾は嬉しくなって、次の部屋へ進もうと通路へ出た。が、その時、突き当たりの展示室に掛かる『シーグラム壁画』が目に入った。第二の部屋には壁画の習作とロスコルームの模型、ロスコの手紙が展示されていたが、彼の足は第三の壁画展示室を目指して吸い寄せられるように突き進んだ。

(わぁおっ)と、彼は心の中で叫ぶ。

一歩中に入ると、そこは完全なロスコ・ルーム、マーク・ロスコの世界である。ここには窓も無い。長方形の展示室は、長い辺が20メートルはあるのだろうか、だだっ広く、中央に背もたれの無い低い椅子が点在するのみ。視界を遮るもの、鑑賞を邪魔する余計なものは何も無い。四方の白い壁のかなり高い位置に、数点ずつ寄り添うように隙間を空けずに掛けられた15点の巨大な壁画達が、観る者を取り囲み親しげに見つめ返している。それはおそらくロスコがそうあることを願ったであろう(しかし遂に実現を観ることが無かった)、絵画と観る者だけの、親密な対話空間だった。

「テート・ギャラリーでの展示では、壁画は1点ずつ離して掛けられました」

背後でトーンを押さえた声がした。振り向くと、髪の長いすらりとした女性学芸員が他の鑑賞者の団体に解説していた。「当館ではロスコの展示案を再現するため、間隔を開けずに、床からの高さもロスコの考えに沿って展示しています。設置予定だった『フォーシーズンズ』はレストランでしたから、通常のロスコ作品の展示のように低い位置ですと絵がテーブルや椅子に半分埋もれてしまいます。ロスコはレストランで食事する人々の頭の上に全ての絵を見渡せるようにするため絵を高い位置に上げ、バランスを取るために横長の組み作品にしました。ロスコの作品に初めて登場した窓のようなイメージも、シーグラムビルの柱や窓と呼応することを考慮したものと伝えられています」

なるほどな、と思いながら彼は展示室を歩き回った。15点の壁画はいずれも深紅あるいはワインレッドとオレンジ、黒などの限られた色数に絞られ、地の色にもやもやと侵食するような筆遣いで四角い枠のようなものが描かれている。あるものは枠がカンヴァスの縁近くまで広げられ、またあるものは地の色に溶け込み掛かっていた。確かに窓枠だと言われれば窓枠にも見える。しかしその輪郭がもやもやと曖昧な表情を見せているために、窓というよりは何かのイキモノの体の一部のような、奇妙に生物的な印象をもたらしていた。

(やぁ、兄弟、気分はどうだい?)

ふいに耳元で声がした。翔吾がびくりとして立ち止まると、今度は頭の中に声が響いた。

(そんなに驚くこたぁないだろ?聴こえる奴には聴こえるってことさ)

思わず振り向く。だが、その場に居る鑑賞者の内の誰かが彼に話し掛けたわけではなさそうだった。(まさか)と思いながら、壁に掛かる巨大な絵を見上げる。

すると、(きょろきょろすんなよ。俺はここだよ)と、絵は言った。




(これは・・・どういうことなんだ?)翔吾は心の中で自問した。だが彼が自分で考える前に、絵が返事した。

(俺達は全員でひとつだったんだ。親父がそのつもりで創ったからな。長い間にだいぶ欠けちまったようだけど、まぁ15体も揃えば、言葉ぐらいは取り戻せるさ)

彼はゴシゴシと顔を擦り、目を瞬かせた。(絵が喋るなんて、俺は気が変になったんだろうか?)

(おっと、兄弟、そりゃないぜ)一番大きな絵が、一瞬、表情を歪めたように見えた。(あんたも親父と同じ絵描きなんだろ?だったら俺達の声が聴こえたって不思議はないさ。ま、絵描きだったら誰でも聴こえるってわけでもないみたいだがね)

(でもここはいいねぇ。みんなちゃんと傍にくっついてるし)と、反対側の壁画からも声がした。

(ほんと、久し振りだよな。いつまでもこうして一緒に居たいもんだが・・・)一番横長の絵がそう言いながら伸びをした。(そうもいかないのが売られた身の辛いところだ)

(仕方が無いよ。子供は親から巣立つ運命なんだから)入り口に近い壁の正方形の絵が肩をすくめる。(そういえば、親父は今、どうしてるんだろう?息子のクリストファーは来たけど、なんで親父は俺達に逢いに来ないんだ?)

そこで壁画達は一斉に黙り、じっと翔吾を見つめて答えを待った。彼の掌にじっとりと汗が滲む。彼を取り囲む壁画は、ゆっくり伸び縮みしながら、あたかもイキモノのように呼吸していた。彼等は正しくロスコから「生まれた」のだった。そして、バラバラにされていた間、時間の感覚を失い、父の死をまだ知らないでいたのだ。

(君達は、今年が何年だかわかるかい?)と、彼は壁画に向けて話し掛けた。(2009年だ。君達が生まれたのが1958年から59年の間で、ロスコが・・・親父さんが55歳の頃だよ。親父さんが今生きていたら106歳だ。でも人間の寿命は君達のより遙かに短いんだ)

(じゃあ、親父は死んじまったってことかい?)と一番大きな絵が眉を寄せて訊いた。

(まぁ、そういうことだね)

(それは、いつ?もう、だいぶ前になるの?寿命が来て死んだのかい?それとも事故かい?病気かい?)正方形の絵が必死の形相になって畳み掛けるように問う。

翔吾は一瞬躊躇した。だが心の声を聴く相手に何を隠せるというのだろう?(・・・1970年2月の寒い朝にマンハッタンのアトリエで)彼は足元に視線を落として先を続ける、(両手首を切って自殺したんだよ)。

(ええっ!?)という大きなどよめきが起こった。一瞬、展示室が揺れたかと思われた。が、他の鑑賞者が全く平然としているところを見ると、壁画の動揺を感じているのは彼だけのようだった。

(自殺だなんて、ウソだろっ?信じられない、あの親父がっ)壁画は一斉に騒ぎ始めた。(アイツだ、きっとアイツが殺したんだっ)(そうだ、アイツだっ。俺達が生まれる時に、親父を脅していたアイツだっ)そして彼等は大声を上げて泣き始めた。

(ちょっと、待って、泣かないで、お願いだから)翔吾は必死に彼等をなだめた。(ロスコを脅していたって、誰が?そいつが親父さんを死に追いやったと言うのかい?)

しかし壁画達はオイオイと泣くばかりでまともな言葉を発せなくなってしまった。彼は耳を塞ぎ、その場に崩れるようにひざまづいた。

「どうしたのっ?」華子が驚いて駆け寄り、震える肩を抱きかかえるように両腕で包んだ。

「絵が・・・」翔吾はうめき声を上げた。「壁画が、泣いているんだ」

彼女はポケットからハンカチを取り出し、彼の頬を伝う涙をそっと拭いた。

「・・・泣いてるのは絵じゃなくて、あなただよ」



《シーグラム壁画-2》

「大丈夫ですか?」

先ほどの学芸員が心配して声を掛けて来た。周りに居た数人の鑑賞者もこちらの様子を見守っている。

「すみません、大丈夫です」翔吾は急いで立ち上がったが、拭いても拭いても涙が止まらない。

「僕はどうしたんだろう?何が何だか、良くわからない」

「珍しいことではありません」と、女性解説者は穏やかな口調で言った。「ロスコの絵を前にすると、人の心にはさまざまな感情が湧き上がるのです。それで、あなたのように泣いてしまわれる方もいらっしゃます」

「はぁ・・・そうなんでしょうか?」

「もし、気分がお悪いようでしたら、常設展示室の通路の方に気持ちの良い休憩所がありますから、そちらで休まれてはいかがでしょう?」

二人は彼女に礼を言って勧めに従った。案内表示を辿って1階に下りると、展示室の間に中庭を望む休憩所が在った。二人は長椅子に並んで腰掛け、良く手入れされた芝生の広がる中庭をしばらくぼんやり見つめていた。

やがて呼吸を整えた翔吾が口を開いた。「あ、ハンカチ、ありがとう・・・びしょびしょだけど」

「もう、大丈夫?」

「うん、ごめん。自分でも驚いた」

「急に、悲しくなっちゃったの?」

「いや・・・わからないんだ」彼は両手で顔をゴシゴシと乱暴に擦り、それから頭をグシャグシャと掻き毟った。「絵が、僕に話し掛けて来た」

「ふーん」華子は自分の膝に頬杖をついてニヤニヤし始める。「それで?」

「ロスコが死んだことを知らなかったから、自殺したんだよって教えたら、彼等は一斉に騒ぎ始めて・・・アイツが殺したんだ、って」

「やっぱりね」彼女はパシッと自分の太腿を叩く。「わたしが思った通りだな。ロスコの自殺にはやっぱりナゾがあるんだ」

「でも、彼等はそいつが誰のことかは教えてくれなかった。泣き喚いて収拾が付かなくなっちゃって」

「じゃあ、後でもう一度行って、訊いてみよう」彼女は楽しそうにフフフと笑う。「ロスコ・チャペルの時は、黒い絵がわたしを抱いてくれた・・・さっきの展示室は広すぎて、そういう共鳴は起こらなかったけど・・・」彼女は肘で彼の脇腹を小突いた。「ちゃっかり、翔吾さんとお話ししてたんだね」

「うーん、実は僕はまだ信じられないんだけどな」彼は自分の頬を摘んで左右に引っ張った。「もし、本当にロスコの絵が話し掛けて来たんだとしたら・・・つまり僕の頭がオカシイんでなければだよ、華子さんが前に言ってた、ニューマンとロスコの絵の一番の違いが何か、わかったような気がするけどね。ニューマンの『アンナ』は話し掛けては来なかったから。つまり・・・」

華子が人差し指をピンと立てて言葉を挟んだ。

「バーネット・ニューマンの絵は何かを表現したもので、マーク・ロスコの絵はそれ自体が新たに生み出されたモノとして自立している」

翔吾はゆっくり頷いた。「それ自体がモノとして・・・それも、イキモノとして、だ」

「ヒントはロスコの残した言葉の中にあったんだよ」彼女は人差し指をジャケットのポケットに片付けた。「俺は呼吸する絵画を描きたい、って言ってたんだから。つまり彼は、その目標を達成した、ってわけだね」

「確かに、さっき、あの壁画達は息をしていた・・・いや、待てよ」彼は今度は耳たぶを思い切り引っ張った。

「彼等はこう言ったんだ。俺達が生まれる時に、親父を脅していたアイツだ、って・・・」

「生まれる時?」華子は片付けたばかりの人差し指をもう一度出してその先を見つめた。

翔吾は耳たぶを引っ張るのを止めて立ち上がった。「もしかすると、呼吸する絵画の誕生と、ロスコの自殺は何か関係があるのかもしれない」



二人は再び企画展示室に戻り、15点の壁画を眺めて行きつ戻りつした。

「ダメだ・・・もう、話し掛けては来ない」翔吾は絵の前で手を胸に当てて目を閉じた。「きっと、喪に服してるんだ」

「残念だね。今日が最終日で無かったら、喪が明ける頃に出直すんだけど」と言いながら、華子も十字を切った。

彼は友人を確認するように、壁画の1点1点を改めて目に刻んだ。「この企画展が終わったら、彼等はまた、日本とイギリスに分けられてしまうんだな・・・揃ったことをあんなに喜んでいたのに」

「そうなったら、二度と喋らないのかなぁ?」

「15体集まって言葉を取り戻したと言っていたから、おそらくはね・・・最後に知ったのが生みの親の自殺だなんて、ずいぶん可哀想なことをしてしまった。凄く悲しそうだった。子供達にあんなに愛され慕われていたのを、ロスコは知っていたんだろうか?」

「子供はみんな、親を愛しているもんだよ。表に出る形が違うことはあっても」華子はそう言って、もう一度ぐるりと壁画を見回した。

展示室を後にする時、翔吾は心の中で(ありがとう、君達に逢えて良かった、さようなら)と別れを告げた。

(またな、兄弟)と、かすかな声が返った気がした。

二人はその後、他の展示室を巡り、ひととおり常設展示を眺めてホールに戻った。さまざまな作家のさまざまな作品があったけれど、彼に話し掛けて来たものは、ロスコの壁画達の他には一つも無かった。

(俺にも、呼吸する絵画を描くことは出来るだろうか?)

メインホールのアートショップで華子が月光荘のスケッチブックを物色している間、翔吾の頭の中は、耳に残った壁画達の声と呼吸音で一杯だった。イキモノのような絵画に出逢ったショックで、彼は自分が何か大きな間違いを犯していたことに気付き始めていたのだ。そして何かを掴み掛けていることにも。

「うーん、やっぱり黄色い表紙のが綺麗だなぁ。これにしようか?」と、華子が問う。彼は上の空で頷き、スケッチブックを5冊と鉛筆と消しゴムを買い込む彼女を黙って見ていた。

(よぉ、兄弟、何を考え込んでるんだい?)頭の中に、壁画の声が蘇る。

(何をって・・・どうしたら俺も君達みたいな絵を描くことが出来るんだろうって、考えてるんだよ)彼は自分の頭に答える。

(なぁんだ、そんなことか。じゃあ、ひとつ、あんたにヒントをやろう)

(ヒント?)

(そうさ、わざわざ逢いに来てくれたからな、出血大サービスだぜ・・・あんた、本当は抽象じゃなくて、細密な素描を描きたいんだろう?)

(うん、まぁ・・・実は、そうなんだけど・・・)

(だけど抽象をやらなけりゃと思ってる。それで、抽象はなんだかわからない図形のコンポジションだから、綺麗な絵に纏めることは出来てもどうしてもこれがベストだと自分で確信出来る手ごたえが得られなくて困ってる、そうだな?)

(・・・御指摘の通りです)

(そこが間違ってるんだなぁ。いいかい、良く聞けよ。まず、抽象は図形じゃないんだ)

(抽象は図形じゃない)

(自分が描きたいもの、生み出したいもののイメージを強引に図形に置き換えようとしているところに、あんたの初歩的な間違いがある)

(・・・・・・なるほど)

(一番大事なことは、創りたいものを出来るだけナマの状態で抽出することだ。下手な制御は一切するな。もう一度言うぞ、抽象は図形に置き換えることじゃない、創りたいものをナマの状態で抽出することなんだ、わかったか?)

(・・・は・はい、すみません)

(何も俺に謝ることはないよ。あんたはロスコ親父に憧れてるだろう?親父の絵が、つまり俺達が呼吸してるのはな、親父が知覚のぎりぎりの極限まで行って、俺達をナマで抽出することに高いレベルで成功したからなんだ。なかなか誰にでも出来ることじゃないけどな。ま、健闘を祈るよ)




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