いもむし男−第7章


《ナマの状態で》

創りたいものをナマの状態で抽出する、ナマの状態で、ナマの、状態で、抽出、する・・・壁画の与えてくれたヒントを、呪文のように何度も呟く。彼は両手を閉じたり開いたりして、目の前の空気を捕まえる動作を繰り返した。

(俺は今、真理を掴みかけているんだ。生きている絵画を、生み出すための真理を)

知覚の、ぎりぎりの、極限まで行かねばならない。それがどんな状態で、その時どんなことが起こるのかわからないけれど、恐れてはならないのだ。そこまで行って、描きたいものをナマの状態でカンヴァスに抽出するワザを掴めば、自分が求める絵画を生み出すことがきっと出来るのだ。

(なかなか誰にでも出来ることじゃないけどな)

確かにそうだろう。だからロスコの絵画を超えた者が居ないのだ。現代人は自らの内に深く沈潜することを好まない。思考を外部へ拡散させ、個を群の中に溶け込ませることで精神の安定を得ようとする。それは別に悪いことじゃない。誰もが芸術家や哲学者になる必要は無いのだから・・・

(お前が絵描きになれるわけがない、だいたい絵描きなんてものは千人に一人も居れば多すぎるぐらいだ、お前までなる必要はない)

ふいに父親の言葉が耳に響いた。翔吾は今になって、絵描きになれるわけがないと言われた意味がわかった気がした。臆病で泣き虫だった息子の精神の脆弱さを父親は見抜いていたのだろう。(いや、)と彼は頭を振った。

(それは子供の頃の話なんだ。俺はいつまでも臆病で泣き虫なんかじゃない。そりゃ、華子さんの車は正直恐かったし、さっきは泣く壁画達に貰い泣きしたけど、それとこれは話が違う。俺はもう恐れない。ロスコのように、知覚のぎりぎりの極限まで行ってみせる)

「お待たせいたしました。レアレア・ステーキでございます」

突然、目の前にたった今焼かれたばかりのジュージュー音を立てるビーフステーキが出現した。翔吾は驚いて、辺りをきょろきょろ見回した。カラシ色の塗り壁に囲まれた落ち着いた雰囲気の小部屋である。彼はワインレッドのクロスの敷かれたテーブルに着き、レアレア・ステーキを前にしていた。向かいの席には華子が腰掛け、珍しい動物でも観察するみたいな顔で自分を見ている。川村記念美術館の企画展示室を出た後の記憶が全く無いが、どうやら自分はレストランで食事をしようとしているらしい。

彼はまだ音を立てているステーキを眺め、皿の両側に並んだナイフとフォークを適当に掴んで、とりあえず刻んでみた。ステーキは食欲をそそる匂いを放ちながら真っ二つになった。切り口から、(ああ、やれやれ)といった感じに真っ赤な血が染み出す。

「・・・ずいぶん、レアな焼き加減だな」と呟きながら、ステーキをさらに何片かに刻んだ。皿の上は染み出した牛の血で一層ナマナマしい光景となった。

「焼き加減を訊いた時、翔吾さんが、出来るだけナマの状態で、って言ったんじゃない」見ている華子が可笑しそうに言った。

(・・・あ)

しまった、と思ったがもう遅い。彼は血の染み出るような肉は苦手だった。山梨の住人となって初めて馬刺しを食べた時も決死の覚悟だったのだ。彼は皿の上の肉片を、しばし見つめて考え込んだ。

(いや、俺はもう、恐れないと決めたんだ)

意を決してレアレアの肉片をフォークに突き刺し、口の中に放り込む。咀嚼するたびに肉汁と牛の血が口の中に放出された。ごくりと飲み込むと、咽を通る時に牛がこう言ったような気がした。(美味かったかい?)

「ああ・・・」彼はホッと息を吐いた。「意外と、イケルもんだね。なんだか、だんだん、牛になりそうだけど」




華子は笑いを堪えながら言った。「ここのステーキはお薦めだよ。お昼が軽かったからね、ちょっとディナータイムには早いけど、しっかり食べてもいいかなと思って」

翔吾は頷きながら次の肉片をフォークに突き刺し、ポイッと口に放り込んだ。(なんだ、慣れてしまえばどうってこと無いや)ワインレッドのテーブルクロスの上には他に、サラダ、スープ、パン、水の入ったグラスが並んでいた。彼は思い出したようにグラスを手に取ってゴクゴクと水を飲み干し、元の位置にグラスを戻して訊ねた。

「ところで、ここは、どこ?」

プーッと華子が吹き出した。彼女は、もうダメ、といった態で一通り気が済むまで笑い転げ、涙を拭きながら答えた。「六本木の『ゴーギャン』っていう洋食屋だよ。気取りが無くて、だけど味は一流だから気に入ってるんだ」

「六本木、だったのか」いつの間に千葉の佐倉からワープしたんだろう?と、考えて、彼はふと心配になった。「あの、ちょっと変なこと訊くようだけど・・・」

「なぁに?」華子は笑いすぎて痛む腹筋を擦っている。

「・・・僕は、変だった?」

「変、って?」彼女は片手でテーブルの端を掴んだ。自分の笑い声で吹き飛ばないように構えているのかもしれない。

「つまり、何か、変なことを口走ったり、やったりしなかっただろうか?」

華子は大きな目をさらに見開いて息を呑んだ後、「ひーっ」という声を発しながらテーブルの下に消えた。彼女が声を殺して爆笑しているのがテーブルの揺れでわかる。笑いが収まるまで、彼は揺れるテーブルで黙々と食事を続けた。

ややあって、華子がテーブルの下から復活した。「ホントになんにも覚えてないんだ?なんっにも?」

「実は・・・」彼はレアレア・ステーキの最後の切片を飲み込んだ。「企画展示室を出た後から記憶が無いんだ。僕は何か君に失礼なこととかしなかっただろうか?」

「・・・うん、それは大丈夫だよ、ボーッとしてただけだから」彼女はグラスの水を飲み、呼吸を整えた。「ただ、ちょっと・・・」

「ただ、ちょっと?」

「車に乗ってから、膝の上で寝ているグロピウスの尻尾を掴んで、三つ編みにしようとしてね・・・」

「尻尾を三つ編みに?そりゃひどい、なんでそんなことしたんだろう?可哀想に」

「わたしが言っても、どうしても止めないから、こりゃダメだと思って車を路肩に停めて・・・」

「路肩に停めて、僕をブン殴った?」

「ううん」彼女は首を振って肩をすくめた。「翔吾さんの顔を無理矢理こっちに向けて、ディープキスしちゃった」

驚いた彼が「ディープキ・・・」と言った時、ウェイトレスが空のグラスに水を注ぎに来た。「あ、どうも」と注がれたばかりの冷たい水を飲み干す。グラスを置き、人差し指を1本立てる。「華子さん、それは、エチケット違反だ」

「エチケット?・・・それはもしかして、マナーとかルールとかのことかな?」

「どれだっていいよ、要するにだいたいそんな奴だよ」

「ごめんなさい。でも、なにも覚えてないんでしょ?」彼女はスプーンでスープをぐるぐるかき混ぜた。「あんなに、気持ち良かったのになぁ」

「気持ちが良くても日持ちが良くても、そういうことをされちゃ困るんだ。僕には妻が居るんだから」

「つま・・・んなーい」

「シャレ言ってる場合じゃないの。今度からそういう時はキスしないでブン殴るようにね。頼むから。お願いします」

「はーい」華子はスープをすくって口に運ぶ。そして小さな声でフフフッと笑った。



《ヌードデッサン-1》

食事を終えると、「お昼をごちそうになったから」と、勘定は翔吾が払った。妻から貰った小遣いで他の女性と食事をするというのも何やら面妖な話ではあったが、自分に稼ぎが無いのだから仕方が無い。もっとも亜輝子の性格を考えれば、全て華子持ちにすることの方こそ避けるべきと思われた。彼は、(よし、この件は深く考えないことにしよう)と決めた。

表に出ると、すでに夜の帳が下りていた。時刻は7時25分。華子は有料駐車場に車を停めたまま、荷物とグロピウスだけを降ろす。

「グロピウス、さっきはごめんな」と翔吾が謝ると、猫は「にゃあ」と一声鳴いて、彼の体を駆け上がり、頭の天辺まで登り、思い直して背中にしがみついた。ヒマラヤンは根に持たないタイプらしい。忘れっぽい、とも言える。

彼等はそこから3分ほど歩き、濃紺のタイル張りの建物の前で立ち止まった。華子が目配せする。

「このマンションの一室を持ってるの。東京に出た時はひとりで泊まったりするんだ。そこを使えばいいかなと思って」

「良かった。本当にラブホに行くのかと思ってた」

彼は猫を背負ったまま、彼女の後をついて行き、深紅の扉のエレベーターに乗った。

華子の部屋は12階に在った。マンションと言っても、翔吾が亜輝子と共に暮らしたワンルームマンションとは随分趣が違う。外国人向けなのか、入り口に靴脱ぎが無く、床は廊下から段差が無い。廊下も厚い絨毯敷きだったが、それがそのまま室内へ続き、まるでホテルのようだった。室内は50人が並んで阿波踊り出来るぐらいだだっ広く、リビングの壁紙はウィリアム・モリス風の深緑色の唐草模様、床には深紅の絨毯の上にペルシャ絨毯とギャッベが敷かれ、そこここに李朝家具やら出所不明アンティーク家具やらが混在していた。家具の上にはアフリカ彫刻と仏像と金ぴかの布袋が並び、左側の壁にはこちらを向いて舌を出すイグアナの大きな写真が掛けられ、反対側には背中を掻くカンガルーの写真が張り付いている。

翔吾は適切な感想を見失ったまま、気持ち良さそうに目を細め背中を掻いているカンガルーと向き合っていた。

「雑然としてるでしょ?パパの趣味だから」華子は言い訳をするように肩をすくめた。「ここはごちゃごちゃしてるから、デッサン会は奥の部屋の方がいいよね?」

差し示した部屋の扉を開けると、そこは20畳ほどもある寝室だった。一転して壁は白く、天井も白く、絨毯も白く、巨大なベッドの寝具も白く、衣類や本などは全て白い壁の白い扉の中に隠されている。(この部屋で眠ったら南極で遭難する夢を見るに違いない)と彼は思った。(・・・いや、タカナシ低温殺菌牛乳の中で溺れる夢かもしれないな)

しかし彼の背中から降りたグロピウスはこの部屋に来慣れているらしく、早速ベッドに飛び乗って身繕いを始める。

「わたし、シャワーを浴びて来るから、適当にくつろいでいてね」

華子が行ってしまうと、白い部屋には、猫と彼とアートショップで買って来た月光荘の黄色い表紙のスケッチブックが5冊と、鉛筆が数本、そして消しゴムとカッターだけになった。

翔吾は気を取り直して壁際の白い椅子に腰掛け、鉛筆を削ろうとカッターを手に持ち、「そういえば、ゴミ箱はどこだろう?」と呟いた。するとベッドの上で丸くなり掛けていたグロピウスがムクリと起き上がり、白い壁の前に行って扉のひとつに体当たりした。どこか気の抜けた音を立てて扉が開き、中から白いゴミ箱が転がり出て来る。

「へぇー」彼は心底感心した。「おまえ、もしかすると、本当に人間の言葉がわかるんじゃないのか?」

しかしベッドに戻ったグロピウスは、(そんなこといちいち気にするなよ)と言うように、背中を向けて眠り始めた。



《ヌードデッサン-2》

素描をする時は、なるべく途中で削らずに済むように幾本かの鉛筆を準備しておく。削り出す芯の長さは3センチから4センチ。紙に当てる向きを変えれば良いので、必ずしも先端は尖らせなくても良い。こうして全ての鉛筆を美しく削り終えた翔吾は、スケッチブックを1冊開き、手始めに眠るグロピウスを素描した。尻尾が3本もある猫は、眠る姿からも妖気を発しているようだ。

3ページに7匹のグロピウスを描いたところで扉が開き、白いバスローブに身を包んだ華子が部屋に入って来た。彼女はガラスのティーポットとグラスを白いサイドテーブルに置き、アイスティーを注いで彼に勧め、自分も一口飲んだ。

「わたし、どうすればいい?ベッドに横になる?」彼女はバスローブのベルトを解きながら訊いた。

「いや、まず、そこに立って」と、翔吾は白い絨毯の敷かれた部屋の中央を指差した。

華子は指示された場所に立ち、バスローブの前を開け、素早くそれを脱ぐと部屋の隅に放り投げた。バスローブの下には何も着ていない。「・・・どうかな?」彼女は緊張しながら腰を捻ったポーズをしてみせる。

「うん、凄くいいよ、想像以上に」翔吾は彼女の周囲をぐるぐると歩き回る。「何かスポーツをしてるんだね?」

「主にヘビーなダンスを。他にも水泳とか、いろいろね・・・わかる?」

「まるで野生動物みたいだ」

翔吾は華子の裸身の造形美にしばし見惚れた。骨格のバランス、皮膚の張り、筋肉の付き方、乳房と臀部の完璧な曲線、後頭部からうなじを経て背骨と肩甲骨に至る繊細な凹凸・・・どの部分を見ても非の打ち所が無い。しかもその体は内側から強烈な命のオーラを発しているのだ。彼は思わずゴクリと咽を鳴らし、深く息を吸い込んだ。

「どうする?」華子が悪戯っぽく微笑む。「押し倒す?」

彼は首を45度、右に傾ける。「・・・後でね」

それからスケッチブックを手に取って言った。「冗談だよ」

彼は新しいページを開いて鉛筆を握る。「今からは僕がいいと言うまで喋らないように。休憩したい時は人差し指を上げること。ポーズは僕が指示するから、出来る限り従って欲しい。でも、どうしても嫌な場合は指でエンガチョサインを示して」

(エンガチョサイン?)彼女が不可解な顔をしたので、彼はエンガチョサインを作ってみせた。

「いい?じゃ、早速始めるよ。まずそのまま、両手を真っ直ぐ上げて」彼に言われて彼女が両手を上げる。「もっと・・・そうじゃなくて、こんな感じに」彼はスケッチブックを置き、彼女の背後に廻って両手首を引っ張り上げ、手首を互いに交叉するように合わせて指を組ませた。「はい、そのまま動かないで・・・って、レントゲン撮ってるんじゃないから息はしていいよ。あ、笑わないで、ちょっと我慢してね」床に置いたスケッチブックを拾い上げ、しゃがんだ位置から彼女を見上げ、紙に鉛筆を走らせる。と、思う間もなく、見上げる位置を変え、前から横、後ろ、とせわしなく移動しながらどんどんページを捲って描き続けた。

「次は腕を横に広げて、足を一歩分横に開いて、そう・・・いや、もう少し・・・」彼は言いながら彼女の足を掴んでヨイショと引っ張る。華子は思わず(あっ)と声を上げそうになった。

「足を開くのは、嫌?」彼女の足の間から顔を上げた翔吾が問う。

華子は頬を赤らめながら、急いで首を横に振った。

彼は頷いて、鉛筆を握った。「モデルを承諾してくれた以上、今は羞恥心は忘れて欲しい。申し訳ないけど、今の君は僕にとっては女性ではなく、造形の素材だ。」

それから彼は彼女をひざまずかせ、横たわらせ、あるいは四つん這いにさせて描き続けた。異なるポーズを取る度に、肉体は異なる表情を見せる。そこに表れる造形の官能性を掴む度に、翔吾の中で何かが形を成そうとしていた。

(ナマの状態で抽出するんだ)

彼が握る鉛筆は、白い紙に無数の線を刻んで行った。





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