いもむし男−第8章


《ギャラリーにて-1》

2009年8月17日月曜日、翔吾は朝早く塩山から電車に乗り、渋谷の『D.I.Y.』ギャラリーを訪ねた。脇にはA2版のポートフォリオを抱え、それ以外にも大きなショルダーバッグを提げている。訪問予約が平日なのは幸いだったが、それでも渋谷を歩くのは一苦労だ。

『D.I.Y.』ギャラリーへはハチ公口を抜け、道玄坂を上らねばならない。ここを通る度に、世界中の哺乳類を全種類集めた数より人類の方が多いという説に納得する。ハチ公口の人波に比べれば、サバンナを行くヌーの大群など物の数ではないのだ。

道玄坂を暫く行き、幾つか角を曲がった細い路地に『D.I.Y.』ギャラリーは在る。ほとんど売れない翔吾の絵を扱ってくれる奇特な画廊である。展示室はこじんまりとしていたが、オーナーの村神春子は業界ではかなりの目利きとして名を知られていた。背は高いが声は低い、細身で快活な初老婦人である。

ギャラリーを訪ねるのは今日で32回目だ。「おはようございます」と言いながらドアを開けると、ウイローグリーンのトレーニングウェアを着た春子とぶち当たりそうになった。

「わぁびっくりしたっ、ああ、未野君か、今日は何だっけ?あ、待って」春子はスイッチを押すみたいに自分の額を人差し指で差した。 「思い出したわ、新作を見せてくれるんだったわね」春子は翔吾を招き入れ、奥から顔を出したアシスタントの山根織美に「出掛けるの止めたから、コーヒー2つ淹れてちょうだい」と告げた。

「お出掛けになるところだったんですか?」と翔吾が問うと、春子は顔の前でパタパタと手を振る。

「違うの違うの、あなたと約束してたのを忘れて代々木までジョギングに出るところだったのよ。全く、『ジェームズ・ボンド危機一髪』ね。忘れっぽくなっちゃって困るわ」

そこへ山根織美がコーヒーを持ってやって来た。「やだぁオーナー、今のギャグにも何にもなってませんよ」織美はそう言うと、打って変わった淑やかな声色で「どうぞ」と翔吾にコーヒーを勧め、自分も彼の隣に腰を下ろした。

「あれ?なんであんたまで座るんだい?」春子は老眼鏡をずらして織美を睨んだ。

「え?だって・・・」織美はちらりと翔吾の方を見る。「わたしも未野さんの新作、見たいもん」

「ふん、このイケメン食いが」春子は老眼鏡を外し、度の異なる別の老眼鏡を掛け、顔をしかめてそれを外すと、バッグから新たな老眼鏡を取り出して掛けた。「で、どんなのを持って来たの?」

「ああ、すぐ出します」翔吾はカップを戻して立ち上がり、脇に置いたポートフォリオを開いた。それから春子の方を振り返り、「あのー、ギャラリーの方に並べてお見せしてもいいですか?」と訊いた。

「いいわよ、もちろん」春子も席を立った。「たくさんあるの?」

「今24枚の連作を描いているんですが、そいつは大きいんでスケッチの方を持って来ました。スケッチも24枚あります。他にそのスケッチのインスピレーション源になった鉛筆デッサンをブックで5冊、これは話の種に・・・」

「まぁー、頑張ったわね、持って来るの重かったでしょ?」春子は景気の良い皺を寄せて顔をほころばせた。「じゃ、上で、早く見せて」

ギャラリーは建物の2階に在る、天井が丸くドーム状の洞窟のような空間だ。ちょうど前回の個展が終わったばかりの入れ替え期間で、室内はがらんとして何も無かった。翔吾はその黒い床の上に、ポートフォリオから1枚ずつ取り出したスケッチを慎重に並べた。スケッチとはいえ、ボードに数種類の和紙を重ね貼りした上に膠で下地を作り、アクリル絵具と鉛筆と木炭を駆使した『作品』だった。イメージの定着に骨身を削った跡が痛々しいほど刻まれている。春子と織美は並べ終えた絵の前に立ったりしゃがんだりしながら、端から順にじっくり見て行った。翔吾は部屋の隅に立ち、感想が述べられるのを息を潜めて待っていた。

やがて、春子が老眼鏡を外して彼の方を向いた。「なかなかいいじゃない、何か、あったの?」

「何か?・・・何か、ですか?」彼は目を瞬かせて問い返した。

「絵が全く違うわね、今までと・・・単刀直入に言えば、やっと、絵になったわ」



「やっと、絵になった・・・」背筋に冷たいものが走る。翔吾は足元に視線を落として考え込んだ。

「気を悪くしないでね、未野君が大事だから言うのよ」春子は腕組みをして微笑んだ。「あなたはとてもセンスが良くて絵が上手なんだけど、上手に描けてるのと絵になってるのとは違う、って前に言ったでしょう?綺麗なだけじゃダメよ、ってね。絵にはイノチが必要なの。そういう意味でね、今回のは絵になってる、って言ったの」

「はい・・・」彼は顔を上げた。「ありがとうございます」

「あのね、悪いけど、私は業界でも10本の指に入るぐらい辛口なのよ」春子は腕組みを解いて肩をすくめた。「まず、滅多に『いいじゃない』とは言わないの。世間様に人気のそこら辺に腐るほど氾濫してる出来損ないのオモチャみたいな偽アートなんか死んだって『いい』とは言わない。その私がスケッチを見て『なかなかいいじゃない』って言ったんだから、あなた、もっと喜びなさいよ」

「・・・はい・・・」翔吾の目からポロポロと涙がこぼれ始めた。「・・・すみません、ちょっと、失礼します」彼は二人にくるりと背を向け通路に出るとそのままトイレに直行し、バタンとドアを閉めた。そして「おうぁわぁーっ」と大声で叫びながら号泣した。

春子と織美は顔を見合わせ、同時にトイレの方を指差して言った。「ちゃんと、喜んでるじゃない」

翔吾はトイレの便器の蓋に座ったまま、およそ30分間激しく泣いていた。30分というのは彼にとっても新記録だ。そんなに泣き続けるつもりは勿論無かったが、胸に込み上げて来るものをどうにも留めることが出来なかったのだ。それぐらい、村神春子の言葉は彼にとっては重かった。しかも彼女が「いいじゃない」と言ったのは、連作の前段階のスケッチなのだ。

彼はトイレットペーパーで鼻を噛み、呼吸を整えてからそっとドアを開けた。やはり少々気恥ずかしい。静かにドアを閉め、足音を忍ばせて通路を歩き、ギャラリーの入り口から中の様子を窺った。

(あれ?誰だろう?)

そこでは春子でも織美でもない人影が、こちらに背を向けてしゃがみ込み、床に置いた翔吾の絵を熱心に眺めていた。二人の姿は無い。人影は横に並べた24枚の絵に沿って、しゃがんだままもぞもぞとカニ歩きして行く。黒い床に溶け込むような黒いコートを着込み、不思議な形の黒い帽子を被っていた。

(黒いコート?)翔吾は瞼を擦った。

すると、彼の視線に気付いたらしい人影が、スッと音も無く立ち上がった。立ち上がると、カニ歩きの体勢からは想像も付かないような長身になった。190センチ、いや2メートル近くありそうだ。

(外国人なんだろうか?)翔吾は声を掛けようとして、少し躊躇った。英語を喋れなかったからだけではない、この真夏に黒いロングコートを着ている相手に、尋常ならざるものを感じたからだ。しかも見たことも無いような妙な形の帽子を被っている。フェルト地で出来ているのだろうか、光沢の全く無い、漆黒の闇をこねて作ったようなその帽子には、まるでウサギの耳を隠してでもいるみたいに、長さ20センチほどの突起が2本、頭の天辺の辺りから左右に伸びているのだった。

「未野君、そこに居るなら、ちょっと降りて来て」

階下から春子の声がした。

翔吾は反射的に階段に目をやり、「あ、はい、すぐ行きます」と返事した。それからもう一度顔をギャラリーに向け、目を疑った。

(・・・居ない)

黒い床の上には、彼の絵が並んでいるだけだった。



《ギャラリーにて-2》

1階では春子と織美がソファーに座り、翔吾が持参した5冊のスケッチブックをテーブルに広げて眺めていた。

「断らなかったけど、なかなか降りて来ないから、勝手に拝見してるわよ」春子は頬の皺を持ち上げて明るく微笑んだ。

「ああ、構いません。見ていただくために持って来たんですから」翔吾はそう言ったものの、座りもせず、両手をだらりと下げたまま、ソファーの横に突っ立っていた。

「どうかしたの?顔色が悪いみたいだけど」

春子の言葉に、織美が振り向いて言う。「あ、ほんとだ。未野さん顔が蒼いですよ。幽霊でも見たみたい」

「幽霊っ!?」翔吾は思わず飛び退る。「で・で・出るんですか?ここ?」

春子と織美は再び顔を見合わせた。織美が春子に目配せする。春子は諦めたような短い溜息をついて言った。

「私の旦那が時々様子を見に来るのよね。若い男でも引っ張り込んでるんじゃないかって、死んでからも気になるらしくってねぇ。全く、ヤキモチ焼きなんだから」

飛び退った翔吾は、受付カウンターの縁にしがみついたまま訊いた。「そ・それは、その、幽霊さんは、割と、頻繁に、いらっしゃる?」

「そんなこと無いわよぉ。前に来たのは・・・そうねぇ、あれは・・・いつだっけ?」春子は額のスイッチを押した。が、答えは出なかった。代わりに織美が答える。「今年の4月1日ですよ。日が日だから、誰も幽霊が出たなんて信じなかったじゃないですかぁ」

「どんな感じなんですか?その、身長とか・・・物凄く高い?」翔吾は悲痛な表情になって問う。

「あーあー、あの人はね」春子は大きく頭を横に振った。「凄いチビよ。私達、ノミの夫婦だから。でもとっても仲良しだったのよぉ」

「ハイ、ごちそうさま」と、織美がうやうやしく頭を下げる。

「じゃ、何?未野君は、旦那じゃない奴を見ちゃったの?やあねぇ、そんなに色々来てくれたんじゃ、商売替えしなくちゃならないわ・・・」春子はコーヒーを一口啜り、織美に言う。「ちょっと、このコーヒー、夏だってのにもう冷めてるわよ。冷房強いんじゃない?」

「そんなことありませんよ、エアコンの設定はいつもと同じです」リモコンを確認した織美は、改めて室内を見回した。「・・・そういえば、なんだか妙に涼しいですね」

「うーむ・・・」翔吾は両手で顔を覆って考え込んでいた。「・・・でも・・・幽霊じゃないかもしれないし・・・幽霊じゃない別の奴かもしれないし・・・幽霊じゃない別の奴でもない奴かもしれないし・・・もしかしたら僕の目の錯覚かも・・・」

そして唐突に顔を上げ、手をポンッと打つ。「そうです、きっと錯覚です。この話は忘れましょう」

「そうよ、幽霊なんて実害はないのよ。この世で一番恐いのは人間の『欲望』で、その次が『絶望』」春子は骨ばった指で額を掻いた。「その二つが天秤棒の右と左に乗ってるところが我々の煩悩ってもんよね。ところでこのデッサンだけど、モデルは、奥様?」

「いいえ・・・」翔吾はなぜか勝手に上気する頬を素早く掌で覆った。「違います・・・友人です」

「あ、そう」春子の視線がデッサンの線を辿って行きつ戻りつする。「とても・・・いい感じね。彼女、あなたの線の中で、生きてるわ」骨ばった指がページを捲る。「モデルから、描かれる喜びが伝わってくる・・・もっと私を見て、私を愛して、って全身で訴えてる。その歓喜をあなたがキャッチして、掴んだままを鉛筆で紙に刻んだ・・・理想的なやりとりじゃない?」

頬を覆う掌から熱い汗が滲み出た。「・・・そんなことまで・・・おわかりになるんですか・・・」

「わかるわよぉ」春子は隣の1冊を手に取り、パラパラとページを捲った。「ほら、この表情なんか、完全にイッちゃってるじゃない」

「イッ・イッちゃって・・・?」

「売れるわね、このデッサンは。売っても良ければ、の話だけど」

翔吾の脳裏に、マンションの寝室でモデルを務める華子の裸身がリアルに蘇った。彼女の体の造形美に潜む官能性の正体を、今改めて知ったような気がした。あらゆる造形は他者へのサインである、という自然科学の話を読んだことがある。サインは「警告」「連帯」「性愛」の3種類に大別される、という説だった。広告など人々の関心を集め積極的に好感を持たれる必要のあるサインを作る場合は、従って「性愛」に関連する造形を取り入れるのが効果的である・・・

「売りたくないのなら、せめて展示会を開かせてちょうだい」沈思黙考する彼の返事を待たずに、春子は織美にスケジュール表を出させた。「それで、24枚の連作の完成は、いつ頃になるのかしら?」

翔吾は掌の汗をハンカチで拭い、上気したままの頬をパシパシ叩きながら宣言した。「今年中には全て仕上げます」

「サイズは?」春子の視線が、次第に鋭くなる。

「あ、はい、そんなに大きくはありません」翔吾は指で矩形を作る。「縦2.5メートルの幅1.5メートルぐらいです」

「それを一箇所に24枚全部、並べたい?横に、ずらっと」

「はい、出来れば、四方の壁を全て埋める感じで・・・」

黙って聞いていた織美が電卓で計算を始めた。だが、計算するまでも無く、2階のギャラリーに全て並ぶわけが無かった。そもそも天井高が低すぎる。縦2.5メートルの絵を展示するなら、最低でも4メートルは欲しいところだ。どうするつもりなのかと春子の方を窺うと、すでにスケジュール表に赤い印を付けていた。

「じゃ、こうしましょう。9月12日の土曜日から10月16日金曜日まで5週間掛けて週替わりで5冊のスケッチブックのデッサン展を開く。11月はお休みして、12月5日から25日までさっき見せて貰った24枚のスケッチ展を開く。その後、年が開けて作品が揃ったらすぐに連作展をやる。デッサン展とスケッチ展はうちでやって先ず世間の関心を集め、フィナーレの連作展は『魔天郎』で開くのよ」

「『魔天郎』?」翔吾と織美が同時に訊く。

「岡鬼藪郎が南青山に持ってるギャラリーよ。ちょっと穴倉ちっくだけど、スペースに余裕があるし、なんと言っても天井高が6メートルあるわ」

「6メートル・・・美術館並みだ」

「岡鬼は偏屈な男だけど、芸術を愛する心は人一倍強いのよ。だから作品を生かすために展示毎にギャラリーの改装までするの。昨年は井上漏水の彫刻を展示するために建物の壁と床に穴を開けたわ。壁・床・天井・扉の色もテクスチャーも変えてくれるし、照明も自由になる。その代わり、準備と復旧に手間が掛かるから1ヶ月単位、隔月でしか貸さないの」

春子は骨ばった指で耳の後ろをポリポリ掻いた。「・・・確か諸費用込みで、1ヶ月、6百万だったと思う」



《春子さん》

「6百万・・・?」巨大な赤鬼が彼の頭上にのしかかる。「6百万、ですか・・・」

うな垂れる翔吾を、春子は強い視線で見つめ、言った。

「このデッサンは、喩えるなら『受精卵』だわね。受精卵を元に細胞分裂して形を成して来た24枚のスケッチが『胎児』。未野君が今描いている本番の連作が、誕生する『子供』よ。24人の、イノチを持った『子供』を世に送り出すために、6百万ぐらいでめげてはダメよ」

「しかし・・・僕にはとても・・・」

翔吾は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。老朽化著しい自宅を直すために亜輝子が始めた定期預金が頭に浮かんだ。毎日朝から夜中まで、休日も無く働く妻の貴重な収入を蓄えたものだ。織田一雅は建築不況にも負けじとあらゆる努力を尽くして仕事を受注し、それに応えるべく亜輝子も業務に全力投球していた。その甲斐あって、この不景気のさなかにありながら、社員中唯一人亜輝子にだけ夏のボーナスが(勿論極秘裏に)支給されたのだった。自分だけ貰うことに抵抗する彼女に織田は言った。「同様に動いているようでも、君の働きと他の者のとでは動きの意味が違う。君の働きは単なる業務の処理ではなく、利益に繋がっているのだ。遠慮することは無い」

要するに彼女は優秀な上に努力家なのだ。その妻がコツコツ貯めている金を、どうして自分が6百万も使うことが出来るだろう?

しゃがみ込んでいる翔吾の向かいに、いつの間にか春子が骨ばった長身を折り曲げてしゃがみ込んでいた。

「未野君、大丈夫よ」春子はハスキーヴォイスで囁いた。「私が貸してあげるわ・・・無期限、無利子で」

「ええっ!?」彼は驚いてしゃがんだまま仰け反りながら後ろにすっ飛び、カウンターの縁にしたたか頭をぶつけて目を白黒させた。その彼を追って床に手をつき身を乗り出した春子が、念を押すように言う。

「うちでやるデッサン展とスケッチ展の費用は宣伝費も含めて全額私が持つ。『魔天郎』での連作展の費用も全て私が立て替える。代わりに岡鬼への交渉と展示室のデザイン、設置方法、演出、宣伝を全て、この村神春子にやらせてちょうだい。未野君は連作の制作に専念して、面倒な対外交渉には出て来なくていいから」

「ど・どうして、そこまでしていただけるんですか?」だんだん迫って来る春子の額の皺を数えながら、翔吾はカウンターに背中を押し付けた。「まだ、本番の連作をお見せしてもいないのに・・・」

「勿論、連作は近い内に見に行くわ。でも、見なくてもわかるのよ。『受精卵』と『胎児』から、どんな『子供』になるかはね。私があなたを支援するのは、私も24人の『子供』を見たいからよ。私には子供も孫も居ないけれど、もしかしたら未野君の『子供』を、ずっと待っていたのかもしれないわね」春子はそう言って、さらに顔を近づけた。

「僕の『子供』を・・・ですか?」彼は目と鼻の先にある初老婦人の顔の薄い瞼にかすかに浮かぶ血管を数えた。

「あなたとモデルの彼女の『子供』かもしれないけれど。いずれにしても、このバアサンにも出産を手伝わせて欲しいのよ」

「・・・わかりました」翔吾はそう言うと、さっと脇へ身を引き、床に額を擦りつけた。「ありがとうございます。御支援心より感謝します。ずうずうしくもあっさり御好意に甘えさせていただきます」

それから顔を上げ、春子の両手を強く握って続けた。「村神さん、僕は必ず、立派な『子供』を生んでみせますっ」

それまで黙って二人を注視していた織美が、ふいに身を二つに折って肩を震わせ始める。どうしたのかと思ったら、クックックッと押し殺した笑い声が聞こえた。



《彼女に電話する》

スケッチブック5冊とスケッチ24枚を預け、空のポートフォリオと軽くなったショルダーバッグを提げて道玄坂を下る。足取りが軽いのは荷物が減ったせいだけではない。ゴミゴミ煩い街並みも、ヌーの群を凌ぐ人波も、来る時とはまるで見え方が違う。

(渋谷って、こんなに美しい街だったろうか?)

翔吾は不思議な気分で歩きながら辺りを眺めた。西に傾き始めた夏の日差しの中で、なにもかもが、キラキラ輝いて見える。

(いよいよ、個展かぁ・・・)

春子からの夢のような提案を、彼は胸の中にしっかりと握り締めた。宙を歩くような、どこかへ昇るような心地である。世界が自分の人生を祝福しているように感じ、顔が自然とほころんでしまう。彼が微笑んでいるせいか、すれ違う人々も笑顔を返して来るようだった。

(そうだ、華子さんに報告しなくっちゃ)

何気なくそう考え、慌てて頭を振った。(いや、まず、亜輝子に報告すべきなんだ、俺は)

自分に言い聞かせ、電話ボックスを探す。彼は携帯電話を持っていない。「東京に出る時ぐらい、持って行って」と何度か亜輝子に言われたが、「失くすから」と逃げて来た。本当は大嫌いな電話を持ち歩く気になれなかっただけだ。しかしいざ連絡を取りたい時には自分の頑なさを後悔したりもする。この後悔は用が済めばたちまち消去されるので、事態の改善には繋がらなかった。

やっと見つけた電話ボックスで亜輝子の仕事場の番号を押した。事態の改善もさることながら、電話の方もなかなか繋がらない。

「はい、織田一雅建築設計事務所甲府支所です」

若い男の声だった。翔吾は滅多に仕事場へ掛けないので、それが誰かはわからない。

「未野です。多加亜輝子は居ますか?」

「あ・・・少し、お待ちください」相手は電話口を押さえて「支所長、未野さんという男性から電話です」と言った。その後、受話器の向こうにガヤガヤと数人の声が混じり、奇妙な間を置いてから亜輝子が電話口に出た。

「お待たせしました、多加です」

「亜輝子?忙しかったのかな?ごめんね」

「ううん、大丈夫よ。ちょっと新人が出たから、あなたが私の夫だってわからなかっただけ・・・で、反応はどうだった?」

「うん」翔吾は息を吸い込んだ。「9月から個展を開くことになった」

「ほんとっ?」受話器の向こうで亜輝子がガッツポーズをする気配がした。「やったーっ!きゃっほーいっ!」と彼女が叫ぶと周囲から「多加さんどうしたんですかっ」というどよめきが起こり、「あっ、支所長が発狂したぁ」という女性の声が混じる。ずいぶん感度の良い電話である。

わずかな間を置いて、思い出したように「・・・でも、あなた、連作はまだ描き掛けなんじゃないの?」と亜輝子が問う。

「うん、それがね・・・」翔吾は『D.I.Y.』ギャラリーでの経緯を手短に説明した。記念すべき初めての個展が華子をモデルにしたデッサンであることを知ると、亜輝子の反応は複雑なものになった。千葉から帰った夜、5冊のスケッチブックを見せた時も彼女は唇を噛み締めて感情を抑えていたのだ。「画家として、モデルを描いただけだ」と、彼は説明した。長い沈黙の後、彼女はその言葉を無理矢理頭に叩き込み、上から漬物石で蓋をするように唇を結んで頷き、「私はあなたを信じているから。今までも、これからも、ずっと」と宣言した。

そして今回も、亜輝子は自分の感情より翔吾の道が開けることを優先した。

「あのデッサンが村神さんの心を掴んだのね・・・確かに、素人の私が見ても『凄いなぁ』って思ったもんね」

『凄いなぁ』に封印した筈の感情がわずかに透けて、受話器の小さな穴から彼の耳をチクリと刺した。


「・・・すまない」

「イヤだ、なに謝ってんのよ」彼女は努めて明るい声音で言い、そして訊く。「華子さんには、もう話したんでしょう?」

「いや、まだだよ。だって、先ず、君に報告しなくちゃ」

「あら、そう?」受話器の向こうに微妙な間がある。「・・・どうして?」

「どうして、って、当たり前じゃないか」

「そう?当たり前なんだ・・・」感度の良い電話は彼女の声にならない満足を伝える。「じゃ、続きは家でね」

受話器を置いた翔吾は、思わず深く息を吐いた。

(あ・・・危なかった・・・)やはり、ポイントは「順番」にあったのだ。料理と同じだ。

続いて彼は手帳のページを捲り、華子の電話番号を探した。メモには彼女が教えてくれた3つの番号が並んでいる。『Le'z』と七尾家と華子の携帯だ。『Le'z』と七尾家に掛けると八百樹が出る危険があったので、彼は迷わず携帯の番号を押した。

8秒ほど、呼び出し音が続いた後、音が途切れ、電話の繋がる気配がした。が、何も応答は無い。

「・・・もしもし?」と、翔吾が呼び掛けると、聞き取りにくいざらついた小声が「どなたですか?」と問う。

(間違えたのかな?)と思い、「すみません、七尾華子さんに掛けたんですが、違いますか?」と訊ねると、相手はさらに小さな声で「・・・華子です」と応え、「どなたですか?」と同じことを訊いた。

(なんか変だな)

翔吾は耳から受話器を離し、一端切ろうかとも考えたが、思い直してもう一度確認した。「もしもし、華子さんなんですね?」

「・・・ハイ・・・」声がどんどん小さくなる。

「もしもし、未野です・・・」と、彼が名乗った後、5秒間の沈黙の幕が下りた。

そしていきなり、幕を蹴破る野太い声が返って来る。「やっぱりお前か、華子に何の用だ?」

「八百樹っ!?」翔吾は咄嗟に受話器を投げ捨て電話ボックスごとワニに食わせたいと考えたがそうもいかない。第一、ワニは電話ボックスを食わないのだ。

だが、何の用かと訊かれても個展の話をするわけにはいかなかった。華子のヌードデッサンを描いたことは八百樹には話していない。画家としてモデルを描いただけというのが嘘偽りの無い真実でも、真実が誰をも説得出来るわけではないのだ。八百樹がすんなり納得するとは到底思えなかった。あの男を相手に、我ながら大胆なことをしてしまったものだ、と今さら気付いてももう遅い。

「・・・おい、黙ってねぇで、なんとか言え。用があるから電話したんだろが?え?」

「う・・・うん、でも、君の声にびっくりして忘れちゃったよ。また思い出したら掛けるから、じゃあね」

「あ、待て、オイ切るな、この野郎コラッ俺を何だとキサマッ・・・」八百樹の声が機関銃みたいに飛び出る受話器を無理矢理戻して電話を切る。こうなると電話もなんだか気の毒に思えて来る。

(うーむ、やはり少々まずかったか・・・)

翔吾は気の毒な電話を置き去りにして気の毒な電話ボックスを出た。道玄坂の人波が無表情なヌーの群れに見えた。ハチ公口まで戻ると、ハチ公像はさっき通った時より老け込んでいた。




《何かを得れば-1》

渋谷から新宿へ向かった翔吾は5時30分発の特急『あずさ27号』に乗り、窓際の座席に落ち着いた。これで7時には塩山に着く。亜輝子が帰るまでに冷蔵庫と相談しながら夕飯の支度も出来る。

(今日は前祝いだからちょっと豪勢に行こう)

彼は手帳を取り出してレシピの吟味を始めた。料理本と首っ引きで作ると味に「勢い」が無くなるので、覚えたばかりのメニューを作る時は予め手順を復習して置くのだ。平行して冷蔵庫の中身を思い浮かべ、作れそうな組み合わせをアレンジする。素材が足りない時は、代役を立てる。こうして試行錯誤する内に、いつの間にかオリジナルディナーが出来上がるのだった。

熱心に手帳と向き合っていると、通路に立ち止まる人の気配がした。立川から乗車した客が空席を探しているらしい。彼は手帳から目を上げずに、隣の座席に置いていたポートフォリオとショルダーバッグを自分と窓の間に押し込んだ。

「・・・失礼します」と言う嗄れた低い声がして、彼の隣に長身の男が腰掛けた。視界の端に相手の下半身が映る。黒いスラックスを履いた足はよほど長いらしく、膝小僧が前席の背もたれにつかえていた。案の定、肘掛からも持て余した肘が彼の方へはみ出て来る。それでも隣の男は、黒いロングコートに包んだ長身を、なんとか『あずさ』普通車自由席の限られたスペースに収めようと努力していた・・・

(黒いロングコート・・・!?)

翔吾は手に持った手帳に向き合ったまま硬直した。『D.I.Y.』ギャラリーでカニ歩きしていた人影と同じだ。春子に呼ばれて目を逸らした一瞬の隙に姿を消した長身のロングコート。横目で左を見て、あの奇妙な帽子を確認すれば、隣に居るのがそいつかどうかはすぐにわかる、が。

彼が躊躇していると、隣の男が窮屈な座席の中で苦労して彼の方へ身を捩り、低い声で囁いた。「さきほどは、どうも」

(うわっ)と、思わず手帳を持つ手に力が入る。何か言わねばと思ったが、言葉は咽の奥に退却を決め込んでしまったようだ。

「無理に喋らなくても結構です」男は抑えた声で言葉を続けた。「言葉にしなくても、あなたの考えていることはわかります」

翔吾はじっと手帳を睨んだまま、ロスコの壁画達の事を思い出していた。心を読まれるのはこれが初めてではなかった。

「そうです。だから私が何者でも、恐がらないで話を聞いてください」

(だけど二度目ぐらいじゃ・・・しかも壁画じゃなくて新手だし・・・変な帽子を被ってるし・・・)

男は彼の動揺を無視して先を続けた。「今日、あそこであなたの絵を見つけて、少しばかり心配になり、ここへ来ました」

(・・・心配?俺の絵が?)

「いえ、あなたが思うような心配ではありません。あなたの絵は、イノチの萌芽を含む、たいへん素晴らしい出来です。むしろ、素晴らしすぎる・・・そこが問題なのです」男がそこで帽子を持ち上げて頭を掻く気配がした。さすがに暑いようだ。しかし持ち上げられた帽子は、何か特別な物でも隠しているみたいに素早く元に戻された。

「この世界は揺れ動きながら平衡を保っています。つまり、何かが増えれば、何かが減ります。何かを得れば、何かを失うのです。多くを得ている者は、多くを失っています」

翔吾は黙って男の言葉を聞いていた。相手の言うことは、普段から彼が考えていることと同じだった。少なくとも、そこまでは。

男は嗄れ声を一層低くして続けた。

「・・・そして、あなた方芸術家は、イノチを創造するという神業と引き換えに、自らを滅ぼしてしまうのです」

男は黒い手袋を嵌めた長い指をやにわに伸ばし、手帳を持つ翔吾の左手首をグイと掴んだ。

「悪いことは言いません。適当なところで引き返した方が身のためです。上手く折り合いをつけて長生きした巨匠はたくさん居ます。一度評価を勝ち得てしまえば、手抜きだろうがマンネリだろうが世間は大目に見てくれるものです」

男の指に力が篭る。

「・・・ああ、しかし、あなたは今、こう考えている。折り合いをつけるなどとんでもない、それで滅びるなら本望だ、と。あなたはそれでいいかもしれないが、あなたが滅びてしまったら、あなたを大切に思う人々を悲しませることになります。あなたを愛する人、あなたが愛する人を悲しませる。それでもいいのですか?」

男は手を放して前を向き、「まだ猶予はあります。良く考えることです。イノチの創造は神の領域です。神は寛容ですが、越境はほどほどにしなければなりません」と言って立ち去ろうとした。

「あ、ちょっと待って」翔吾は咄嗟に男の腕を掴もうとしたが、手は虚しく空振りした。目の前に立つ男に実体は無かった。翔吾は空振りした掌を見て反射的に男の顔を見上げ、ショックの余りに心臓が止まりそうになった。

(俺だ・・・)

背は遙かに高いが、男の顔は翔吾にそっくりだった。男はしばらく黙って彼を見下ろしていた。悲しんでいるような、困ったような表情だ。やがて、もう一度、口を開いた。

「私はあなたに似ているが、あなたではありません。あなたと私は違うモノです・・・あなたは、私になっては、いけません」

男はそれだけ言うと、空気の粒子に分け入るように消えて行った。



《何かを得れば-2》

ふいにゴーッという騒音が身を包んだ。いつの間にか電車は笹子トンネルを抜けようとしている。翔吾は座席からずり落ち掛かりながらも、手にはしっかりと手帳を握っていた。隣の席には見知らぬ女性が腰掛け、まるで石器時代からずっとそこにそうしていたかのような風情で紀伊国屋書店のカバーを掛けた文庫本に熱中していた。彼は座席に座り直し、手帳をショルダーバッグにしまった

(夢を見ていたのか・・・?)

隣の女性を横目で眺め、いつからそこに座っているのか訊こうかとも考えたが止めた。およそ声を掛けられる雰囲気ではない。片手で文庫を持ち、もう一方の手は口元に当て、青舌トカゲの舌みたいな色のマニキュアに染まった爪を一心不乱に噛んでいる。

「間もなく、塩山に到着いたします・・・」

車内アナウンスに促され、乗客の数名が席を立って出口へ向かった。翔吾もポートフォリオとショルダーバッグを抱えて立ち上がる。隣の女性は面倒臭そうに足をずらして彼を通したが、目は本に向けられたままだった。



駅から家までは8分ほどの距離である。以前は通りに面したチャウチャウ犬の居る大きな家の大きな植栽の陰になっていた彼の家が、今は通りから見えるようになった。大きな家と大きな植栽とチャウチャウ犬は道路拡張で移転したのだ。風景が変わってしまうと、途端に前の様子を思い出せなくなる。記憶は絶え間なく上書きされる。細胞が毎日生まれ変わるのと同じだ。

(あれ?)何気なく通りから家の方を見ると明かりが見えた。(亜輝子、帰って来てるんだ)

そう思った途端に、黒いコートの男は奇妙な夢として彼の中で上書きされた。



「ただいま」と扉を開けると料理の匂いが屋内に充満していた。

「おかえりっ!」と言いながらキッチンから飛んで来た亜輝子がそのまま玄関の土間に立っている翔吾に抱きついて熱烈なキスをした。彼女に押されて外へ倒れそうになった彼は、グッと堪えて踏み止まり、その場に荷物を置いて後ろ手で扉の鍵を掛ける。それから、抱きついたままの彼女の上から両腕を廻して抱きしめ返し、唇を重ねたままそっと玄関の上り框に横たわらせた・・・

やがて、「チンッ」という音がした。第一ラウンド終了のゴングが鳴ったのではない。電子レンジがバジルソースまみれの鶏肉を焼き上げたのだった。

翔吾は起き上がって彼女を立たせ、乱れた髪を指で梳いてやった。「・・・今さらだけど、僕達、ちょっとどうかしてるかもしれないな」

「どうして?」亜輝子は捲くれ上がったTシャツを引っ張り下ろし、どうした弾みかドアノブに引っ掛かっているパンティを回収して身に着けた。「玄関だって鍵を閉めれば家の中だもの。夫婦が愛し合うのに誰に遠慮が要るの?」

「その理屈には一理あるけれど・・・」彼はチノパンツの上から足を擦った。「膝が・・・痛いし」

彼女はカラカラと高らかに笑い、それから急に真剣な顔になって翔吾の手を握った。

「改めて、おめでとう。私、いつかきっとあなたの時代が来ると思ってた」

「まだ、認められたわけじゃないよ」

「ううん、私にはわかるの。水清伯父さんが言ってた『UFO堂』の星占いは本当だったのよ。夏に予兆あり、秋に大きな転換期来たる。冬にあなたは新しいあなたになり、春に旅立つ・・・きっと、個展は大成功するんだわ」亜輝子の目が珍しく潤んでいた。自分と違い、彼女が泣くのを翔吾はまだ一度も見たことが無かった。胸に切ないものが込み上げて、耐え切れず瞼にキスをする。

「・・・あ、ダメよ。また欲しくなっちゃう・・・ゴハン食べなくっちゃ・・・」

「僕はゴハンよりもう一度君を食べたい・・・」

しばらくすると、今度は電話が鳴った。翔吾はチノパンツを引き上げながら電話機の前まで這って行った。背後でくしゃくしゃになった亜輝子が寝返りを打ってあちらを向く。まるで電話から見られるのを恥じるみたいに。

「・・・はい・・・未野です・・・」

「もしもし、翔吾さん?華子です。今日はお電話いただいて・・・」

「・・・あ・・・ああ、どうも、こんばんは」彼は振り向いて亜輝子の様子を窺った。彼女は床に横たわったままだった。

「・・・翔吾さん、具合でも悪いんですか?」華子が口調を曇らせた。「なんか、息苦しそう。掛け直した方がいいかな?」

「ん・・・いや、もう大丈夫。なんでもないです。わざわざ掛けて貰ってすみません」

自分が電話したことを良く八百樹が知らせたもんだ、と思ったが、何はともあれ華子に個展の話を伝えることが出来て安堵した。華子は役に立ったことを喜び、ヌードデッサンが公開されることを快く承諾した。

「モデルがわたしだって知らなければ、誰もあれがわたしだなんてわからないから平気だよ」と、笑いながら華子は電話を切った。

(そりゃそうだ、似顔絵を描いたわけじゃないからな)翔吾も笑いながら受話器を置いた。振り向くと、亜輝子が床に寝転んだままこちらを見ていた。

「大丈夫?」

彼が声を掛けると、彼女はゆっくり頷き、「・・・あなたって、晴れ、時々クレージーよね」と感想を述べた。それからだるそうに腕を上げて指差した。

「今、気が付いたけど・・・その、左手首、どうかしたの?」

「左手首?」言われて見て、彼も初めて気が付いた。皮膚の上に赤く、誰かに強く握られたような痕が残っていた。

翔吾はゴシゴシと手首を擦り、「なんだろうね?さっき、夢中でどこかにぶつけたのかもしれないな」と照れ笑いした。





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