いもむし男−第9章


《パルティータ-1》

左手首の握られたような痕は、なかなか消えなかった。それはまるで翔吾に「忘れるな」と警告しているかのようだった。勿論、彼はその痕が付いた経緯を忘れたわけではない。だが黒いコートの男が言った「自らを滅ぼしてしまう」ということの意味するものが今ひとつピンと来なかった。

(滅ぼすというのは、死ぬということか?)

極論を言えばそうなるのだろうが、絵を描いているだけで死ぬとはとても思えなかったのだ。別の要因で精神を病んでいるのならともかく、今のところ鬱になったことも無く、亜輝子には「晴れ、時々クレージーだ」と言われてもなんせ「晴れ」だから自覚は無い。従って自殺する恐れも理由も全く無く、どうやったら「自ら滅びる」のかさっぱりわからないのだった。

(今考えてもわからないことは、考えるのを止めよう)というのが、こういう場合に彼が出す結論だ。そして壁画に話し掛けられたことに始まる一連の超常現象に関しては、着地点が明らかになるまで、亜輝子には一切話さないことにした。

それからの日々、翔吾は猛然と連作に取り組み、洗濯物を干す時以外は外にも出ずに制作に没頭した。個展が決まった以上は今年中などと悠長に構えず、もっと早く完成させるべきだと考えたのだ。「見なくてもわかる」と村神春子は言ってくれたが、彼としては一刻も早く春子に見て貰いたかった。

杉作が亡くなった後、亜輝子は家の平屋部分を改造しアトリエを広くしてくれた。天井板を剥がし、床を下げ、木造家屋の骨組みはそのままに3.5メートルの天井高を確保したのだ。隣の仏間との壁も取り除いて仏壇は2階へ引越しさせた。こうして出来たスペースも、24枚の大判の連作でたちまち埋まってしまった。

「いずれアトリエを建てなきゃいけないわね」彼女は腕組みをして言った。「いっそ、家ごと設計するか・・・」

亜輝子は相変わらず忙しかったが、翔吾のために買出しを引き受けると申し出てくれた。幸い、近所のマーケットは午後9時45分まで営業していたので、仕事帰りに滑り込みでレジに並ぶことが出来た。

「知らなかったわ、閉店間際って、カツオのたたきまで半額になるのね」と、彼女は感慨深げにグラスを傾ける。

「それで、君がいつもより余計にワインを買ったらチャラだけどね」と、翔吾は苦笑した。

そうこうする内に9月の半ばになり、彼にとって初めての個展が始まった。事前に電話をくれた春子が、「未野君は何もしなくていいから。全部、任せてくれて大丈夫よ」と言うので、彼は本当に何もしなかった。春子には何か作戦があるのかもしれない。オープニングの挨拶も要らず、ギャラリーに来るのなら客のふりをしなさいとまで言われた。さすがに彼のクエスチョンマークが電話越しに届いたらしい。春子の低い声が含みを持って響いて来た。

「あなたは全く無名なんだから、自分からメディアに出て行って売り込んでも無駄。先ず作品で注目されることが大事なの。顔を出すのはそれからよ。メディアがあなたに逢いたがるまで、その男前は隠して置いてね」

(そういうもんかな?)と彼は半信半疑だった。が、なんせ初めての経験である。ここは春子の指示に従うのが一番だろう。彼は最初の1週間が過ぎる頃、彼女の言う通りに客のふりをしてギャラリーに行ってみた。

「こんにちは」

翔吾がドアを開けると、山根織美の声が出迎えた。織美はハッとして微笑んだが、春子に言われているらしく余計な口は利かなかった。彼は手渡されたパンフレットをしげしげ眺めた。『描線のパルティータ・未野翔吾 デッサン展』と書いてある。印刷された自分の名前を見るのは初めてなのでかなり気恥ずかしい。その下の紹介文もとても読む気になれない。そのまま回れ右をして帰ろうかと思ったぐらいだ。が、このタイトルはちょっと気になる。(パルティータ?)首を傾げながら展示室への階段に足を掛け、2階からかすかにこぼれて来るヴァイオリンの音に気付いた。

(バッハのパルティータだ)

それはヘンリック・シェリングが弾くハスキーなストラディヴァリウスの音色だった。その狂おしいかすれ音は聞き間違えようもない。でも、なぜそれが流れているのだろう?バッハが大好きだなんて話をここでしただろうか?

階段を昇り、通路から展示室の方を見る。客は一人も居ない。壁に隠されたスピーカーから、ごく控えめな音量でバッハが流れているだけだ。彼は黒い床に足を踏み入れ、壁に掲げられた自分の絵を眺めた。わざわざ額装されガラスの中に閉じ込められたデッサンを観るのは奇異な感じがした。確かに自分が描いた線なのに、嘘みたいによそよそしい。何か裏切られたような気分になり、踵を返して帰ろうとした時、皺くちゃの枯葉みたいに小さな老人が杖を突いて昇って来た。



《パルティータ-2》

老人は翔吾と目が合うと、黙って会釈し、コツコツ音を立てながら絵を眺め始めた。流れるパルティータはシャコンヌに差し掛かる。老人の杖の音と、無伴奏ヴァイオリンの刻む拍が奇妙に調和して展示室に響く。

と、唐突に「ウォッホン、ホン」と老人は咳払いをして振り向き、白い髭を動かしてニヤッと笑った。「・・・これは、あんたが描いたのかね?」

(え?ええっ?)彼は返答に窮し、咄嗟に、「違います」と言ってしまった。

「そうか、違うか」老人は顔を戻し、「そうじゃろな、あんたみたいな優しそーな青年が、こんな激しい線を描くわけがない」と言った。

「激しい・・・線ですか?」彼は小さな老人の横に並び、一緒にデッサンを眺めた。

「そうだとも・・・この線は繊細だが激しい。怒りにも似た情念がこもっとる。で、このモデルの女体をな、描きながら犯しとるんじゃ」

老人は節だらけの指を蠢かし、女の体を愛撫する仕草をした。そしてやや湾曲した背骨を精一杯伸ばして翔吾に囁いた。

「ワシが思うに・・・この画家はこの後、このオンナと一発やっとるな」

翔吾は声にならない叫び声を上げて一歩飛び退いた。「ぼ・ぼ・僕は、やってませんっ!」思わずそう言い、慌てて口を押さえる。

「ほぉー、やっぱりあんたが作者か」と老人は顎を擦り、それからフッフッフッと楽しげに笑った。「お若いの、修行が足りんのぉ」

「修行?・・・それはどういう意味ですか?」翔吾は真っ赤な顔で、憮然として訊いた。老人はしばらく笑っていたが、やがて展示されているデッサンをぐるりと指差して言った。

「あんたは意識しとらんかもしれんが、客観的に観るとな、この絵はどれもとんでもなくエロチックなんじゃ。だから悪いと言っとるんじゃないよ。エロチックっつぅーことは、魅力的ってことじゃからな。ただな、エロチックを世の中に出す時は、ちーと気をつけにゃあならん。世間は格好つけたがる奴ばっかりじゃからの。格好つけたがる奴はエロチックに手厳しいもんじゃ。そいで、さっきワシが言うたようなくだらん批評をしてな、あんたをいたぶろうとするわけじゃ。」

老人にそう言われ、彼はますます赤くなった。「・・・それじゃ、あなたはわざと、僕に?」

フッフッフッと小さな老人は小さな体を揺すって笑う。「まぁな。あんたが描いたのは知っとったんじゃが、この絵の強さの割りにあんたがずいぶん優男なんでちと気になってなぁ・・・老婆心じゃな、ワシは爺じゃが」老人はまた笑う。

「そんなに・・・笑わないでくださいよ」翔吾は恥ずかしくなり、髪をグシャグシャかき混ぜた。

「いや、笑われることには慣れた方がええぞ。笑われても、いたぶられても、いちいち気にするな。言いたい奴には言わせておけ。的外れな批評も、悪意に満ち満ちた中傷も、客一人来ん展覧会も、ぜーんぶ乗り越えんといかん。ひたすら己を信じての。いいかねお若いの、作品を世の中に出すっつぅーのは、つまるところそういうことなんじゃ」

老人は絵の方に向き直り、目を細めた。「あんたの絵を観ると、ワシの若い頃を思い出すよ。ワシも昔は絵を描いとったんじゃが・・・」それから老人は節だらけの指と皺だらけの掌に目を落とした。「やっと個展を開いた時、ワシの絵を破いた奴がおっての」

「絵を破いた?」翔吾は眉根を寄せた。その時の衝撃を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。「・・・なんてひどいことを・・・なんでまた?」

「ワシの描いたオンナの顔が、たまたまそいつの別れた女房にそっくりだったんじゃ」

「そんな・・・」

「それでワシは・・・ワシもその時は若かったからの、逆上してしもうて・・・その場でそいつを、殴り殺してしまった」

翔吾は両手で顔を覆った。

老人は言葉を続けた。「馬鹿げた話なんじゃ。それでワシは人生の貴重な時間を何十年も無駄にしてしまった。女房にも迷惑を掛けた。絵は画家にとっては子供みたいなもんじゃ。殺されれば逆上もする。じゃがな、破かれたらまた描けばいいと、殺されたらまた生めばいいと考えるべきなんじゃよ。あんたもこれから色々あるかもしれんが、繊細さは絵を描く時だけに取って置いて、他の時は図太くならにゃならんよ。ワシが言いたいのは要するにそういうことじゃ。じゃあな、未野君、達者での」

「・・・あ、あの、あなたは、もしかすると」彼が顔を上げると、老人の姿はもうどこにも無かった。



翌日、春子に電話で小さな老人の話をすると、彼女は間髪を入れず「また、来たのね、あの人」と言った。

「まったく自分が死んでるって自覚あるのかしら?幽霊のくせに穿った意見までして・・・」

「でも、凄くありがたかったです」翔吾は本心からそう思っていた。「お陰で、あの後、一人もお客さんが来なかったけど、そんなに落ち込まないで済みました・・・今日は、どうでしたか?」

「うーん、そうね、まぁぼちぼちってとこね」春子は曖昧な返事をした。「それより連作はどう?進んでる?」

「はい、11月半ばには大方仕上がると思います」

「早いじゃない。無理して体壊しちゃダメよ」

「あ、はいそれは大丈夫です。スポーツは苦手ですけど体力には自信があります。ただ・・・」

「何か問題でも?」

「ええ、僕のアトリエには24枚全部を並べて最終チェックをするだけのスペースが無いんで・・・どうしようかな、と思ってるところです・・・初めからわかっていたことですけど・・・」彼が言葉尻を濁すと、電話の向こうで春子が膝を叩いて笑い転げる気配がした。

「あーダメ、あんまり笑うと節々に響いて骨がバラバラになっちゃうわ・・・私の旦那もねぇ、チビのくせに大きな絵を描いて、アトリエから出せなくなったことがあったわよ。まぁ絵じゃ枠から外せば何とかなるけど・・・彫刻家でなくてホントに良かったと思ったわ」春子はそこでフッと口を閉ざし、束の間の回想シーン巡りをしてから帰って来た。「・・・それで、スペースだけど、あてはあるの?」

問われた翔吾は『闇光園』のワインセラーの話をした。華子が伯父さんから譲り受けた勝沼の古いワイナリーにある、半分地下に埋もれたレンガ蔵である。使われなくなって久しいためあちこち傷んではいたが、絵を並べて見るぐらいのことは出来る。天井高も奥行きも充分な余裕があった。華子に相談すると、いつものように「いいよ」と簡潔な返事が来た。彼女は、必要であれば電気工事を入れて照明を増やすとも言ってくれた。ただ一つ問題があった。八百樹だ。

「でも、まぁ、なんとかなると思います」春子に心配を掛けたくなかったので、八百樹の件は伏せておいた。

「それじゃ、そのワインセラーに絵が並んだ頃、観に行こうかしら?楽しみねぇ」

「勿論です。お待ちしてます」

受話器を置いた翔吾は、すぐにアトリエに戻って制作を再開した。2.5メートル×1.5メートルの絵は、ロスコの作品に比べれば小さいが彼にとってはこれまでで最大のサイズだった。しかもそれを一気に24枚描こうというのだ。なぜ24枚なのかといえば、彼が考えている「場」を創り上げるにはそれぐらい必要な勘定になったからである。彼はロスコに習ってカンヴァスの下地作りから独自の工夫を加え、狙ったテクスチャーが出るまであれこれ試し、その上で1本1本の線を刻んで行った。ロスコは面を塗る手法を取ったが、素描が得意な翔吾にとっては線を使う方が自然だったのだ。それは輪郭でもなく、陰影でもない、それ自体が生きているように身を捩る、官能の造形なのだった。華子をデッサンすることで掴み取ったそれらの線を、彼はロスコの壁画達に教えられた通り、「知覚のぎりぎりの極限まで行き、出来るだけナマの状態で」カンヴァスに抽出した。

体力に自信がある、と言ったのは嘘ではなかった。そうでなければこんな作業を毎日12時間以上も続けられるわけがない。「知覚のぎりぎりの極限」というのは即ち全身の全機能と神経が1点に集中するような状態なのだ。その時彼は、自分が手も足も無い1本の太い神経になったような感覚に陥った。何時間もぶっ通しで集中した後などは、緊張をほぐして普通の感覚に戻ることの方が困難だった。無理に戻ろうとすると、空間がグニャリと曲がるような、体が外側に膨らむような奇妙な感じがし、吐き気がしたりひどい耳鳴りがすることもあった。そんな時はさすがに食欲も落ちる。

「ねぇ、あんまり無理しないでね」

彼の体を気遣って、亜輝子が優しく髪を撫でる。しかし翔吾の体がアトリエでどういう状態になっているのか、彼女には見当も付かなかった。仕事でほとんど家に居なかったし、制作中はアトリエに入らないルールになっていたからだ。

「まるで、ツルの機織りね」と、彼女は肩をすくめたが、ツルに逃げられては困るので覗き見する気は毛頭無かった。

「正体がツルなら許せるけど」翔吾はわざと深刻な顔をしてみせた。

「もっと、ろくでもない化け物かもしれないよ」



《キッチンの穴》

『D.I.Y.』ギャラリーでの個展が3週間目に差し掛かる頃になると、様子を伝える春子からの電話はパッタリ来なくなった。これは気掛かりではあったが、反面ありがたくもあった。知覚のぎりぎり状態の時に電話が鳴ると、核戦争が勃発したのかと思うぐらいびっくりさせられるからだ。亜輝子に「なんとかならないかな?」と相談すると、「留守電にしとけばいいじゃない」とあっさり返された。なるほど。

ある日、ふと思い立ってギャラリーに電話を掛けると山根織美が出た。織美の説明では、春子は岡鬼との打ち合わせで留守がちにしているが個展は順調だ、心配ないとのことだった。

「この間の連休なんて凄かったんですよぉ」と織美は興奮気味に伝えた。「ウチ、狭いじゃないですかぁ。お客さんが階段にはみ出て順番待ちになっちゃって、もうたいへん」

「それ、本当ですか?」翔吾には信じられない光景だった。「僕が先週行った時は、御爺さんの幽霊しか来なかったのに」

「やだぁ、幽霊じゃなくて、ちゃんと足の生えたお客さんですよぉ。足が無くてどうやって階段昇るんですか?」

「うーん、それだと階段じゃなくて怪談か・・・」と彼が言うと、織美はカエルみたいにケラケラ笑った。

「・・・それでわたし、お客さんの一人に、作者の未野さんって、どんな人ですか?って訊かれて、ものすっごい美形だ、って、言っちゃった」

「あ・・・それ、困るなぁ。実物を見たら、がっかりされちゃうよ」

「そんなこと無い無い。未野さん、美形ですよぉ。でも、勝手なこと言うなって、後でオーナーに叱られましたけど」

織美は客が増えたのは雑誌が取り上げ始めたからだと言った。鉛筆デッサンは地味なテーマだが、5週連続週替わりというのが珍しがられたらしい。

雑誌に出たのがどんな記事なのか、興味はあったが知るのは怖くもあった。小さな老人の幽霊は「図太くならにゃならんよ」と言ったが、そう簡単にスルリと脱皮するみたいに図太くなれるわけもない。超常現象には慣れて来ても生きている人間の言葉は怖いのだった。翔吾は連作を描き終えるまで、記事のこともデッサン展の客足のことも忘れようと決めた。一喜一憂しても始まらない。今はとにかく前へ進むのだ。一刻も早く連作を仕上げ、『闇光園』のワインセラーにずらりと並べて春子に観て貰わねばならないのだ。

彼は受話器を置き、いつものようにすぐにアトリエに戻ろうと踵を返した。その時、かつて経験したことの無いような激しい目眩に襲われた。床が大きくへこみ、両足がその中へめり込んで行く。彼はあっという間に床下へ嵌り込んで、咄嗟にテーブルの脚にしがみついた。幾ら老朽化著しい我が家とはいえ、これはあんまりだ。第一、床下がこんなに深いわけが無い。

(落ち着け、これはただの幻覚だ・・・)

そう自分に言い聞かせて固く目を閉じ、暫くして目を開ける。と、やはり床にめり込んだままだった。

(やっぱり、床に穴が開いたのかな?)

翔吾は這い出ようとして腕に力を込めた。足の方は不思議なことにどこにも足掛かりが無い。地面も一緒に陥没したのかもしれない。こうなると地盤からやり直す必要があるわけだ。これは金が掛かるな、と考えていると、冷蔵庫の陰から鶏が現れた。



いや、鶏ではない、胴体は鶏だが頭は目のギョロリとした男だ。黒々した髪がトサカのように突っ立っている。

鶏男はひょこひょこと飛ぶような歩き方で翔吾の前まで来てくるりとこちらを向き、這い出ようと奮闘中の彼を興味深げに眺め始めた。

(やれやれ、また変なのが出やがった)

翔吾は溜息をついて首を振り、「黙って見てないで助けてくれよ」と言ってみる。

すると鶏男は目を丸くして嘴を尖らせた。「こいつぁまいったね、我輩を見て怖がりもしない」

「怖がりもしないって言うけど、君は僕が怖がらなきゃならないような恐ろしいモノなのかい?」と、翔吾は鶏男に訊いた。

「ボクが怖がらなきゃならないような恐ろしいモノなのかい?」鶏男は彼の口調を真似てコッコッコッと笑った。

「助けてくれる気が無いならいいよ。邪魔だからちょっとどいててくれ」彼はそう言って腕に力を込め、弾みを付けた。「せーのっ」

「どいててくれどいててくれ」と騒がしい鶏男がハッと殺気を感じた次の瞬間、床から下半身を引き抜いた翔吾が勢い余って転がって来た。

「痛て痛て痛て痛て痛てっ!なにしやがるっ!」鶏男は彼の尻の下で悲鳴を上げて暴れていた。(へぇー、こいつは実体があるんだ)と思いながら尻を浮かすと、泣きそうな顔になって逃げ出した。羽が何本か折れている。ちょっと気の毒だったかもしれない。

部屋の隅まで走って行った鶏男は傷んだ羽を繕いながら恨めしそうに翔吾を睨んだ。「見掛けによらず乱暴な奴だ。ゴーショがお前を怖がりだって言ってたのは何かの間違いだな、うん」

「ゴーショ?ゴーショってのは、誰なんだ?」翔吾は床の穴を覗きながら訊いた。驚いたことに穴は底が見えないぐらい深かった。

「ゴーショはゴーショさ。お前であってお前でないモノだ」

「僕であって僕でないモノ?」彼は左手首の感触を思い出した。「・・・黒いロングコートののっぽか?」

「そうそう、なかなか察しがよろしい」羽繕いを終えると、鶏男はまたひょこひょこと近づいて来た。「お前であってお前でないモノだから、名前が逆さまになってるんだ。お前はショーゴだから、あいつはゴーショ。お前がキヨシロウならあいつはウロシヨキ。そうやって区別する決まりになってる」

「ふーん」翔吾は3秒ほど考え、再び訊ねた。「じゃあ逆さまになっても同じ名前の場合はどうなるんだ?モモとかナナとか」

「う・・・」と鶏男は答えに窮する。「そ・・・そういう奴はもうひとりとの境が曖昧なんだ。あっちの世界とこっちの世界を勝手に行き来しやがる節操の無い困った輩なのさ」そして顔を赤くし、羽をぶわっと膨らませた。「わ・我輩にあんまり難しいことを訊くなっ!」

「悪かったよ」彼は謝り、穴の横にあぐらをかいて頭を掻いた。「で、君は僕に何の用があるんだい?」

「ボクに何の用があるんだい?」と、鶏男はまた繰り返した。「ボク」を強調した言い方が厭味だ。翔吾はだんだん苛立って来た。彼は「おい・・・」と言うなり、素早く手を伸ばし、鶏男の足をムンズと掴んで逆さまに吊るし上げる。あっさり捕まった鶏男は突然の出来事に何が何だかわからず呆然としている。

「おい、『俺』は忙しいんだ。用が無いならとっとと消えな」

鶏男は不思議そうな表情で逆さまから翔吾をしげしげ見つめた。「どうも話が違いすぎる。ちっとも怖がらないし、『ボク』が『俺』になった。その上、我輩に向かってとっとと消えなと来たもんだ。こいつぁたまげたな」

「ゴーショが何を言ったか知らないが、とにかく俺は忙しいんだ」と言いながら、翔吾は鶏男を床の穴の上に翳した。

「ま・待てっ、我輩を穴に放り込んで殺す気かっ?」鶏男は吊るされたままジタバタ暴れだした。

「君はこの穴に落ちたら死ぬのか?鳥なんだから飛べばいいじゃないか。第一あっちの世界のモノなのにこっちの世界で死ぬのかい?」

「い・一度に二つ以上の質問をするなっ!我輩は飛ぶのは苦手だっ。あっちの世界のモノでもこっちの世界で死ぬことはあるっ。それからそれから、えーと、この穴は墓穴だから落ちたら当然、死ぬっ!」

「墓穴?」翔吾はもう一度床の深い穴を覗き込んだ。「なんでキッチンの床にいきなり墓穴が開いたんだ?」

「それは、さっきお前が掘ったからだっ」鶏男は横目で穴を覗いて身震いした。「自分で墓穴を掘ることを墓穴を掘るって言うんだっ。お前がゴーショの忠告を無視して神の領域に越境し続けていれば、近い内に自分からこの穴に入って死ぬことになるぞっ。我輩はそれを伝えに・・・キャーッ!」

鶏男は悲鳴を上げながら穴に落ちて行った。彼の言葉に驚いた翔吾が、うっかり手を放してしまったのだった。

「あっ・・・ごめん」



床の穴は鶏男を飲み込んだ後も、なんの劇的な反応も見せずにぽっかり開いたままだった。翔吾はしばらく呆然として穴を見つめていた。鶏男は戻って来なかった。本当に死んでしまったのかもしれない。そう思うと煩い奴でもさすがに胸が痛んだ。これは本当に墓穴なのかもしれないのだ。

(近い内に自分からこの穴に入って死ぬことになるぞ)

そんな馬鹿な、と彼は首を振った。身を乗り出して、穴の縁を観察してみる。断面には土台や基礎が見える筈だが、床板のすぐ下から黒い靄が掛かったように何も把握出来なくなっていた。左腕を穴に入れてみた。ヒンヤリとした空漠が感じられるだけだ。

彼は立ち上がり、穴を覆う位置にテーブルを動かし、それからアトリエに戻った。

やがて夜になり、10時5分前に亜輝子が帰宅した。物音に気付いた翔吾は急いで筆を置いてアトリエから出る。

と、「キャーッ」という亜輝子の悲鳴が聞こえた。彼は飛び跳ねるような勢いでキッチンに駆け込み、テーブルの下に這いつくばり、穴に向かって声を限りに妻の名を叫んだ。

しかし、返答は意外な方向から返って来た。「・・・いったいどうしたの?私はここよ」

顔を上げると、テーブルの向こうにしゃがんだ彼女が床に散らばった野菜を拾い集めていた。

「このマイバッグ、もうダメね。穴が開いちゃってたのよ。バラ売り野菜が安かったからあれこれ買い込んだ時に限ってこのザマよ」亜輝子はテーブルの下に手を伸ばし、穴の上に浮いているジャガイモをひょいと掴んだ。

「穴が・・・マイバッグに?」翔吾は床に這いつくばったまま、彼女が見ていない隙に穴に手を入れてみる。

「ねぇ、どうしてテーブルの位置を変えたの?」

「あ?ああ、それは・・・」彼は立ち上がり、壁際に転がっていたニンジンを拾った。「床に穴が・・・」

「床に?どこに?」亜輝子は辺りを見回し、テーブルの下を覗き、「穴なんて開いてないじゃない」と言った。

「いや・・・だから・・・」翔吾はニンジンで頭を掻いた。「テーブルが、同じ位置にずっとあると床に穴が開くんじゃないかと思ってさ」

「大丈夫よ、そんなに重くないから、このテーブル」彼女はそう言いながら、一方の端を持ち上げてみせる。「ほら、私だって持てるもの。さ、元の位置に戻しましょう。ここじゃ使いにくいから」

「・・・うん」彼女に促されてテーブルを動かすと、床の穴は照明の下に黒々とした闇を曝け出した。なにもかも吸い込んでしまいそうな闇だ。だが、ジャガイモは落ちなかったし、亜輝子には見えないらしい。彼女が穴の近くを歩く度に落ちるのではないかと気が気ではなかったが、結局、彼女は穴の上に立っても落ちはしないということが判明した。ジャガイモと同じだったのだ。

(亜輝子には見えない穴が俺には見える。彼女が落ちない穴に、俺は落ちる)

翔吾は眉間に皺を寄せ、鼻柱を指で摘んでゴシゴシ擦った。

(近い内に、自分から穴に入るだと・・・?)

そして、深い溜息をついた。気が狂うというのは、こういうことなのかもしれないな、と思った。

数日後、今度はしつこく呼び鈴が鳴った。

たいていは居留守を使ってやり過ごすのだが、この相手は彼が家に居るのを知っているみたいに諦めが悪かった。諦めて筆を置いたのは翔吾の方だ。仕方が無い。アトリエを出て、穴の開いたキッチンを通り、玄関の鍵を開け、扉を開ける。

が、そこに立っていた相手を見て、翔吾は絶句した。

(ミノタウロス・・・!?)

ミノタウロスというのはギリシャ神話に出て来る頭が野牛で胴体が人間の魔物である。その異形からかつてしばしば絵画のネタにもなった化け物だ。そいつが黒い毛のもじゃもじゃ生えた大きな野牛頭はそのままに、紳士服売り場のバーゲンで3着まとめ買いしたみたいなありふれた紺色のスーツを着て、灰色と茶色のストライプのひどく地味とも微妙にお洒落とも言えるネクタイを締め、かなり使い込んだ革鞄を抱えて玄関ポーチに立っていた。



《ミノタウロス》

「あー、お忙しいところ誠に恐れ入ります。私、こういう者でございます」と言って、ミノタウロスは名刺を差し出した。

名刺を見ると、「神殿生命保険株式会社 営業第ニ課 美濃田 卯絽簾」と書いてある。翔吾が呆然としていると、相手は名刺を指差しながら付け加えた。「あー、すみません。名前が読み難いって良く言われるんですがぁ、これは・・・」

「ミノタ、ウロス・・・」と、相手が言う前に翔吾が呟く。

「おっ、さすがですねぇ、未野さん、教養がお有りだ。私の名前を読める方なんて、この界隈じゃ未野さんぐらいしかいらっしゃいませんよ」美濃田は嬉しそうに大きく広がった鼻の穴から生暖かい息を吐き、それから慌てて口を押さえた。「あー、ご近所さんの悪口言っちゃいけませんやね、失敬失敬。ところで本日お伺いしましたのは、こちらの商品の御案内でございまして・・・」

美濃田は使い込んだ革鞄を開けてごそごそとパンフレットを取り出し、有無をも言わさず翔吾に手渡した。

「あー、この度、私どもではたいへんお得な生命保険プランを御提案させていただいております。その名も美しく『ザ・エーゲ海3』と申しまして、この生命保険の特徴を手短に申し上げますと、御契約者様がたとえ契約日の3日後に自らお命を絶たれても保険金が全額支払われる、という点にございます。御遺族様にはなんと3億円の保険金が、御契約者様がお亡くなりになった直後に御指定口座へ振り込まれる、というたいへんお得な・・・」

「間に合ってますっ」と翔吾は言い、素早くドアを閉めて鍵を掛けた。

(まったく、どいつもこいつも俺の邪魔をしやがって)彼はドアにチェーンロックを掛け、土間の隅で首をかしげて笑っている信楽焼きの大きなタヌキを運んでドアの前に置いた。そしてやれやれと思いながら振り向くと、キッチンに美濃田がしゃがみ込んで穴を覗いていた。翔吾は舌打ちをし、わざと大きな足音を立てて美濃田に近づき、ドスを効かせた声を使って言った。「おいっ、勝手に俺の家に上がるなっ」

「あー、これは失礼しました。まだ話が途中だったもので・・・」美濃田はちらりと彼を一瞥し、スーツのポケットから巻尺を取り出して穴の径を測る。「いやー、これはまた見事な穴ですなぁ。底がまったく見えませんよ。正真正銘の墓穴ですな、ははは」

「何が可笑しいっ」翔吾は美濃田を蹴飛ばそうとした。が、相手はヒラリと身をかわす。図体に似合わず身の軽い奴である。

「おっと、ご冗談を」美濃田は笑いながら巻尺をポケットにしまった。「私を穴へ落とそうなんて、そりゃ無理ってもんですよ。この穴は私には小さいし、第一これはあなたの穴です。それで、さっきの話の続きですが・・・」そしてまた革鞄をごそごそやって今度は書類を取り出した。

「ほら、これをご覧ください。御契約要項です。ここにちゃんと書いてあるでしょう?神殿協会の保証もあります。私どもは親切モットー準備万端整えてお客様宅へお伺いしておりますので、御契約者様のご住所ご氏名まで印字済みなんです。あとはここに今日の日付を書いて、未野さんのサインか印鑑をいただければ契約完了です。これで3日後にあなたがこの穴へ入られても3億円の保険金が奥様の口座へ振り込まれるのです。いかがです?素晴らしいでしょう!」

美濃田はキッチンの床に書類を並べ、自慢げにバンッと叩く。一瞬、新しい穴が開くのではないかと危ぶまれるほど家が揺れた。

翔吾は美濃田の毛むくじゃらな頭の両脇に生えた短い角を交互に見つめ、相手の左右に離れた小さい目を眺め、横に広がった大きな鼻に視線を移し、それから床の書類を見た。書類には自分の名前が印字されている。その下に小さな字で「契約者『甲』が契約後3日以降に自然死・病死・事故死・他殺・自殺した場合、当社『乙』は保険金受け取り指定人『丙』に即日3億円を支払うものとする。この時、『乙』は『甲』との契約に基づき、『甲』のキーマの正当な受託者となり、これ以降の『甲』のキーマの扱いに関して全ての権利を有するものとする。このキーマの受託に於いて本契約に関わる『甲』並びに『丙』の『乙』への掛け金支払いその他の債務は全て終了し、以後一切の請求は発生しないものとする」と書いてあった。

翔吾は顔を上げ、美濃田の離れた小さい目を交互に見つめた。「・・・この、キーマってのは、何だい?」

「あー、それはですね」質問を受けた美濃田は嬉しそうに大きな手をゴシゴシ擦り合わせた。「タマ、です」

「タマ?」翔吾は思わず自分の股間を見た。

「あ、いや、このタマじゃなくって」美濃田は翔吾の股間を指差し、それから彼の胸を指差した。

「こっちの、タマシイ、の方です。私どもの業界用語では、これを略してタマと呼びます。正式にはキーマと言います」



美濃田は床から書類を拾い上げ、テーブルの上に置き、鞄からボールペンと朱肉を取り出して横に並べた。

「あなたが亡くなると同時に、当然のことながらあなたのキーマ、つまりタマシイはあなたの体を離れます」と、言いながら、美濃田は大きな手の太い指を器用に揺らめかせた。その指の動きにつられて、タマシイが宙に漂うかのようだった。

「体を離れたタマシイは宇宙エネルギーに吸収された後、新しい体に宿って生まれ変わります。自然死や病死、不慮の事故死、他殺などの場合は放って置いても新しい体に宿ることが出来ます。生まれ変わると言っても、勿論前の体の時の記憶などは一切残っておりません。タマシイの中の生命エネルギーの核となる部分のみが受け継がれるからです。喩えて言うなら、リユースではなく、リサイクル、ですな。しかし」美濃田はもう一度指を翔吾の胸に戻した。「自殺の場合はリサイクルされません」

翔吾はゆっくり息を吸い込んだ。「・・・それで?」

美濃田は大きく頭を振って続けた。「暗黒の宇宙を、ゴミとして永遠に漂います」

「暗黒の宇宙を、ゴミとして」と、翔吾は繰り返した。

「そうです、永遠に漂うのです」美濃田は真剣な眼差しで生暖かい息を吐きながら身を乗り出した。「何故なら命を自ら絶つことはイキモノとしての摂理に反し、従って宇宙エネルギーのリサイクルシステムからの離脱を選択することになるからです。しかし考えてもみてください。自殺する者はその最期を迎えるまで充分過ぎるほど苦しんだ筈なのです。苦しんだ挙句が果てしない暗黒の宇宙旅行だなんて、あんまり酷いじゃありませんか。しかも、タマシイはどのタマシイも貴重で尊いものです。その人がどういう人か何をしたかということとは関係無く、タマシイはそれだけでたいへん価値ある、何億個ものダイヤモンドにも勝る、キラキラ輝く美しいものなのです」

美濃田はそう言って小さな目玉を精一杯キラキラ輝かせてみせた。

「・・・で、私どもは以上2つの見地から保険契約に依るタマシイの受託事業を開始したのです。貴重なタマシイを暗黒の宇宙旅行へ出さず、私どもがしっかりお預かりして新しい体へ移植するのです。限りある資源の有効利用とでも申しましょうか・・・」

「ふーん」翔吾はテーブルの上の書類をもう一度読んだ。

「いかがです?いい話でしょう?」美濃田は鼻の穴を思いっ切り膨らませた。口の周りの短い毛が一緒に持ち上がる。「もちろん、本契約は自殺以外のいかなる死にも対応しております。未野さんが仮にこの穴へ入られる前にうっかりホームから落ちて『あずさ』に撥ねられお亡くなりになっても、私どもはしっかりタマシイをお預かりして新しい体へ移植いたします。そして、あなたが愛する奥様には3億円が・・・」

「でもさ」と、翔吾は言葉を挟んだ。「あんたらはタマシイを預るだけでどうして3億円も払えるわけ?」

「あー、それはですね・・・」美濃田の小さな目玉がクルッと上を向いて白目になった。「競売で、値段が競り上がるからです」

「競売!?」翔吾は思わず甲高い声を上げた。「・・・オークション?タマシイを?」

「そうです、ネットオークションとか・・・相場では最低価格5億円から始まりますから・・・あ、これはオフレコですよ」

「5億円?じゃ、最低価格で落札しても保険金3億円払った残りの2億円は丸儲けってわけか」

翔吾が腕組みをして上体を反らせると、美濃田は大きな体を丸めてなんとなく卑屈な表情になった。



「丸儲けって・・・そんな人聞きの悪いことおっしゃらないでくださいよ。タマシイ移植のための手数料が掛かるんですから」

「でも結局は2億円でタマシイを売るんだろ?しっかり預るなんてウソじゃないか」

「ウソじゃありませんってば」美濃田はポケットから皺くちゃになったピンク地に赤いチューリップ柄のハンカチを取り出して額の汗を拭いた。ハンカチはペラペラの安物だったが、むしろミノタウロスがチューリップ柄のハンカチを持っていることの方が恐ろしく不似合いである。額の汗を拭いた後、首筋の汗もついでに拭きながら、美濃田は熱心に説明する。

「オークションでタマシイを買うのは仲介業者なんですが、彼等は移植先指定の権利を買うだけなんです。彼等が移植先を指定した後、移植はあくまで私どもが責任を持って確実に行います。本当はどこへ宿るか決めてはいけないタマシイのリサイクル先を指定するわけですから、そのための手数料、つまり指定席料みたいなのが2億必要になるのです。私どもはタマシイを預けてくださった方に保険金をお支払いし、一方で仲介業者はタマシイを求めている方々からはビタ一文いただいておりません。完全なボランティア、慈善事業です。ぶっちゃけた話、儲けなんてほとんどありません。誓って本当の話ですよ」

美濃田は皺くちゃのハンカチをおざなりに畳んでポケットに戻し、軽く咳払いをして気合いを入れる。

「ねぇ、未野さん、ここはひとつ論理的に考えてくださいよ。死んでしまったらどっちみっちあなたのタマシイはあなたのものじゃ無くなるんですよ。あなたは一端、『無』になるんです。だからそのタマシイを有効利用して移植に廻し、愛する奥様には3億円残す、この話は絶対にお得です。途中で私どもがいただく手数料だって、別にあなたが払うわけじゃないんですから。あなたは一円たりとも損はしません。何か問題がありますか?」

確かに論理的には問題は無い、と翔吾は思った。美濃田は畳み掛けるように続けた。

「あー、立ち入ったお話をして失礼かもしれませんが、あなたはご自身に収入が無いのをずっと気に病んでいらっしゃったでしょう?そりゃ立派に家事をこなしてはいるが、それ以外の時間のほとんど全てをご自身の芸術探求という欲望のために使って来られた。勿論、奥様はそれについてとやかく文句を言ったりはしていません。たいへん立派な、素晴らしい、優秀で、心優しく、そして美しい奥様です。あなたのことを心から愛し、応援してくださる。しかしだからこそ、あなたは心の奥の深ーいところで、いつも負い目を感じていた。申し訳ないと思っていた。あなただって奥様を心から愛している。愛している妻の応援に応えたい、そう思って頑張って来た。そして、ゴールはもうすぐそこまで来ている・・・が、あなたはこの夏、重大な間違いを犯してしまった」

いつの間にか目を閉じて美濃田の言葉に耳を傾けていた彼は、ゆっくり時間を掛けて瞼を開けた。

「あなたが華子さんと実際のコトに及んでいないのは私も存じております。あなたは芸術探求のために無我夢中で彼女を描いただけです。あなたの中の創造への欲求がそうさせたんです。それ自体は素晴らしいことだと私も思います。創造への欲求は単純な性欲と断じて混同されるべきではありません。あなたが華子さんを描き、それを元に新しい創作への突破口を開いた。お陰でゴールに近づいた。これはメデタイ。しかし・・・同時に、奥様の心をひどく傷つけてしまった」

翔吾は椅子を引き、よろめくようにそこへ腰掛けた。目の前には保険契約の書類とボールペンと朱肉があった。

「あなたがご自分でおっしゃっていたじゃありませんか。何かを得れば、何かを失う、と」

翔吾は眉根を指で摘み、しばらく揉んでから、ボールペンを手に取った。美濃田は続ける。

「あなたがモデルに選んだのが奥様ではなく華子さんだったという、その辺りの事情までは門外漢の私の理解するところではありませんが、ハッキリしていることは、あなたの理屈の正当性はどうあれ奥様が深く傷ついたということなんです。この点だけは釈明のしようがありません。あなたは償うべきなんです。3億円の保険金は、奥様の心の傷に比べれば微々たるものですが、少しはその足しになると思いませんか?」

「わかったよ」翔吾は険しい目付きで美濃田を睨んだ。「契約するから、それ以上言わないでくれ」



《一度だけの》

「あー、良かった、ご理解いただけて私もホッとしました」美濃田は満面の笑みを浮かべて何度も頷いた。そして書類の署名欄を指差し、「ここと、ここに、本名でお願いします」と言った。

翔吾は右手に持ったボールペンで、指示された場所に「未野」の最初の横棒を引く。美濃田が口の両端を持ち上げ、ニヤリと笑った。

その時、玄関のドアを叩く音がした。何か急ぎの届け物でもあるみたいに忙しない叩き方で。

美濃田は舌打ちをし、「誰かいらっしゃいましたね。私は行かねばなりませんから、早くサインなさってくださいっ」と急かした。

「あ?ああ」と言いながら、翔吾はもう1本、横棒を引いた。

「未野君!居るんでしょう?」

ドアを叩きながら、彼を呼ぶ声がした。春子の声だ。翔吾は反射的に立ち上がり、玄関の土間に下りてドアを塞ぐ信楽焼きのタヌキを持ち上げ片付けた。背後で美濃田が「仕方が無い、出直します。でも穴へお入りになる3日前にはサインしてくださいね。そうしないと3億円がフイになりますよ。ではまた」と言うのが聞こえ、その後すっかり気配が消えた。

チェーンロックと鍵を外し、ドアを開けると村神春子が立っていた。「突然お邪魔してごめんなさい」と彼女は言った。

「邪魔だなんてとんでもないです。どうぞ、お上りください」翔吾は春子を招き入れ、再びドアを閉めて鍵を掛けた。春子は上がり框に腰掛けてジョギングシューズを脱ぎ、キッチンに上がる。その後姿を見て、翔吾は首を傾げた。

(何か、変だな)

だが疑問はさて置きキッチンカウンターへ向かい、ヤカンを火に掛け、ドリップコーヒーを淹れる準備をする。棚からコーヒーの缶を出し、食器棚からカップを出す。春子の好きなモカが切れてなくて良かった。春子の方を振り返ると、穴の前で立ち止まり、しゃがみ込んだところだった。

「その・・・ジョギングウェアのままで、いらっしゃたんですか?電車で?」穴の前の春子に、彼は声を掛けた。

「そう、ちょっと、色々あってね」春子は穴の縁に手を掛け、身を乗り出して底を窺い、そして言った。

「深いわね、この穴」

「見える・・・んですか?」ヤカンが湯気を噴出した。翔吾はペンギンの鍋掴みを手に嵌めてヤカンを持ち、コーヒーを淹れる。

「見えるわよぉ、こんなに大きな穴、見過ごすわけがないじゃない」春子は肩をすくめ、立ち上がって穴から一番遠い位置の椅子に腰掛けた。「怖い穴ね。墓穴みたい」

翔吾はコーヒーを二つのカップに注ぎ、テーブルに運んだ。「墓穴だそうです・・・俺の」テーブルの上には保険契約の書類が置かれたままだった。慌てて片付けようとすると、一瞬早く、春子に押さえられた。

「これは、何?」と言いながら、彼女は書類を手に取りざっと見てすぐにテーブルに戻した。「ダメ、老眼鏡忘れちゃったから全然読めないわ。何かの契約書みたいだけど・・・」

「ええ、生命保険の契約書です。俺は今まで何も保険を掛けて無かったもんですから」彼は書類をキャビネットの引き出しにしまった。

「生命保険?気をつけたほうがいいわよぉ、インチキ臭いのもあるから」春子は横目で床の穴をちらりと見る。「取るものだけ取って、保険金は払わない、なんてね。保険を掛けるより、まずこの穴を塞いだ方が安全だわ」

「それはおっしゃる通りなんですけど・・・」翔吾はコーヒーカップを両手で包むように持った。「物理的な穴じゃないんで、どうやったら塞ぐことが出来るのかわからないんです」カップから、コーヒーの熱が両掌に伝わって来る。まだ9月の末だというのに、室内が妙に冷え込んでいることに気付いた。いや、美濃田が居た時は暑いぐらいだったのだ。

「そうね、一度開いた穴を塞ぐことは出来ないかもしれないわね」春子は目の前のカップをじっと見つめた。が、コーヒーを飲もうとはしなかった。「人生は危険な穴ぼこだらけなのよね。それに落ちないように気を付けることが、生きるってことなのかもしれない」

そして、彼女は手を伸ばし、翔吾の手にそっと触れて言った。「あなたは、穴に落ちないでね、絶対に」



彼の手に触れた春子の指は、あまりにか細く、実在感に乏しかった。第一、体温というものがまるで感じられない。翔吾はギクリとして、思わず彼女の手を両手でしっかり握った。すると春子はフフッと笑った。「暖かい手ねぇ。未野君に手を握られると、私、ドキドキしちゃうな」

翔吾は春子の冷たい手を温めようと掌で擦った。(なぜ、こんなに冷たい手なんですか?)と問おうとしたが、言葉にならない。

「・・・未野君、さっき、いつもみたいに『僕』じゃなくて『俺』って言ったでしょう?」

「ああ、それは・・・」翔吾は咳払いした。「最近、変なのばっかり来るんで、負けちゃいけないと思ってたら癖になっちゃって、すみません。直します」

「いいのよ、『俺』で」春子は目を細めて微笑んだ。「何だか、たくましくなって来たみたいで嬉しいわ。あなたはとってもナイーブだから、ちょっと心配だったのよね。その調子で強くなってくれれば、私も・・・」

春子はそこで急に切実な表情になって彼の目を見つめた。「未野君、お願いがあるの」

「なんですか?」

「・・・一度だけ、キスしてくれない?」春子はそう言って、目を閉じた。

翔吾は春子の手を握ったまま、テーブルの上に身を乗り出し、彼女の薄く、乾いた、冷たい唇に優しくキスをした。少々時間を掛けて、丁寧に、心を込めて。

「・・・ありがとう」彼が椅子に戻ると、春子はゆっくり目を開けた。「素敵なキスだった。私、こんなお婆さんだけど、あなたのこと、ずっと好きだったのよ。あ、あの人には内緒にしといてね」

春子はもう一度フフッと笑い、それからフト視線を落とし、低い声で告げた。

「ごめんなさいね・・・実は私、今朝、ジョギング中に、信号無視した車に撥ねられて・・・さっき、死んじゃったのよ」

(ああ、やっぱり・・・!)翔吾は両手の中の春子の手を力の限りに握り締めた。

「ごめんなさい」と春子は続けた。「それで、あなたのことが気になって、とにかくここへ来てみたの。個展のことは何も心配無いのよ。週替わりのデッサン展が終わったら、『魔天郎』で100枚をセレクトしたデッサン展を引き続き開催して、同時にスケッチ展もやることになっているわ。その後、24枚の連作展に突入するの。岡鬼の提案で、その方が纏まりがあってインパクトも強くなるだろうってことになったのよ。あなたのデッサンを気に入って、彼が自分でポスターもデザインするって、凄く張り切っているの。だから私はすっかり安心しちゃって・・・ちょっと油断したかもしれないわね」

翔吾は手を握ったまま、俯いて肩を震わせていた。

「ま、仕方が無いわよ。私もトシだから、いつかはお迎えが来るんだもの。あっちであの人もいい加減待ちくたびれてるみたいだし・・・」春子は翔吾に握られた手を静かに上下させた。「・・・ね、泣かないで、未野君。岡鬼は私が出した6百万を要らないって言ったのよ。あなたのデッサンが彼の心を掴んだの。私の心を掴んだようにね。芸術は、わからない人には理解されなかったり誤解されることもあるけど、伝わる人間には必ず伝わるものなのよ。本物は人の魂を揺さぶるの。人間にとって、芸術に触れて魂を揺さぶられることがどんなに大切なことか、本物に触れる機会の減って来た現代の有様を見れば明らかだわ。芸術を高尚だ、難解だ、と言って遠ざけるのではなく、その高みへ精神を押し上げることこそ、人類にとって必要急務なことなのよ。世界平和と地球上の全てのイキモノ達のためにもね・・・私の言ってること、大袈裟だと思う?」

「・・・い・・・いいえ・・・」翔吾はテーブルに涙の池を作りつつあった。「・・・春子さんの・・・言うとおり・・」

「じゃ、そろそろ行くわね。コーヒー、せっかく淹れてくれたけど、飲めなくってごめんなさいね」

「・・・そ・・・そんなことは・・・俺は・・・」

「いいこと、絶対に穴に落ちてはダメよ。強く生きるのよ。それから、『D.I.Y.』ギャラリーのことも心配しないでね。織美はあれでなかなかしっかりしてるから。私にもしものことがあったらこうしろって、いつも言い聞かせてあるし。あなたは何も心配しないで、連作を仕上げてちょうだい。私は死んじゃったけど、根性で観に行くから、約束よ」春子はそう言って彼の手の間から消えて行った。

「あ、待ってくださいっ!春子さんっ!春子さんーっ!」

翔吾はテーブルにかすかに残るかに見えた春子の残像を掻き抱こうと腕を伸ばし、コーヒーカップを二つともひっくり返した。こぼれた液体はテーブルの上を流れ、タラタラ音を立てて床に落ちる。それは穴に向かって広がり、黒々した空漠の上を覆うように留まった。その不思議な輪郭を、彼は涙に曇る瞳で長い間見つめていた。

数時間後、何気なく電話機を見ると、留守電の着信ランプが点滅していた。再生音を押すまでも無い、織美の携帯からである。番号を押すと、すぐに彼女の高い声が返って来た。

「あ、未野さんっ、わたし電話したんですよぉっ、オーナーが事故に遭われて、ついさっき、息を・・・」

「うん・・・」翔吾は壁にもたれて頷いた。「・・・うん、知ってる」



《サングラスの男》

春子は毎年遺言を更新し、弁護士を通じて財産整理から葬式の方法まで事細かに決めていた。葬儀は血縁者のみによる無宗教の献花式、お経も戒名も不要、という指示だった。しかし蓋を開けて見ると、誰が呼んだのか立派な袈裟を着た僧侶が3人も現れてお経を上げていた。献花台もあるにはあったが、それだけじゃなんだか雰囲気が出ないということでお焼香台が隣に出現し、開店祝いと間違うほど華やかな花輪がずらりと並んだ。そして血縁者のみの筈の斎場は、春子を知る美術関係者でごったがえした。「話が違う」と異議を唱えようにも当人は故人である。なかなか人生ままならないものだ。

翔吾は血縁者ではないことに加えて、なぜか名指しで「葬儀には来るな」という遺言だったが、彼としては行かないわけにはいかなかった。亜輝子の提案で真っ黒いサングラスが用意された。喪服に黒いネクタイをして黒いサングラスを掛けた自分は、見知らぬ他人のようだった。

「返って目立つんじゃない?」洗面所の鏡を見て、翔吾は疑問符を飛ばした。

「大丈夫よ」亜輝子は喪服に付いた小さい埃を払ってやった。「絶対に、ジョン・ベルーシには見えないから。ダン・エイクロイドでも困るけど」

「ジョン・・・?誰それ?」

「いいのよ、あなたは知らなくても」それから彼にハンカチを渡した。「あんまり泣いちゃダメよ。春子さん、心配になって出て来ちゃうから」

(もう、出て来ちゃったんだよ)と心の中で呟き、彼女に見送られて家を出る。

葬儀は青山の閑静な通りに在る斎場で行われていた。焼香に集まった参列者はおよそ千人。翔吾はなるべく目立たないように列の端に加わり、春子の遺影を見つめる時だけサングラスをずらし、花を置き、手を合わせ、焼香を済ませてその場を去ろうとした。

「あれ?もしかして、未野さん?」

花輪の横辺りで、誰かに喪服の袖を掴まれた。真っ暗なので良く見えない。サングラスをずらして見ると、織美だった。

「あっ、やっぱりそうじゃないですかぁ。サングラスなんか掛けてるから、浜田省吾かと思いましたよぉ」

「浜田省吾って・・・誰?」翔吾はサングラスを戻して首を傾げる。

「やだぁ、いいですよぉ、未野さんは知らなくっても」織美は思ったより元気そうだった。勿論ショックは相当なものだったと思われるが、元来明るい性格なので立ち直りも早いらしい。彼女は参列者の邪魔にならないように翔吾を会場の外のロビーの隅まで引っ張って行き、そこで事故の様子や今後のことを話した。デッサン展後、しばらくは事務的な整理もあるので彼女がギャラリーを引き継ぐが、切りを見て閉めるつもりだ、と織美は言った。

「そしたらイタリアに行こうと思ってるんですよぉ」

「へぇー、イタリアに行って、何をしたいの?」

「何をしたいってわけじゃないんですけどぉ」織美は喪服の襟を指で伸ばした。「わたしみたいな性格だと日本よりイタリアの方が合うかなって思って」

二人が話していると、傍に立ち止まった若い男が少し間を置いて話し掛けて来た。

「あのー、失礼ですが、もしかすると、未野先生、でしょうか?」

「え?・・・ええ、まぁ・・・そんなもんかもしれません」いきなり先生と呼ばれ、戸惑った彼は曖昧な返事をした。織美は肩をすくめ、ウィンクをして立ち去る。

「ああ、やっぱりそうでしたか。山根さんとお話しだったのでそうかな?と思いまして」男は内ポケットから名刺を取り出した。「初めまして、わたくし、『21世紀アート』の槍杉一平と申します」

「はぁ・・ヤリスギさん、ですか」翔吾は名刺を読むためにサングラスをちょっとだけずらした。いちいち面倒である。

「はい、ヤリスギです。あんまりやり過ぎるなっていつも上司にはたしなめられてますけど、ははは」と槍杉は自分で笑ってみせたが、翔吾が笑わないのでバツが悪そうに小さく咳払いをした。「で、先月号の『21世紀アート』に未野先生のデッサン展の取材記事を書きましたのが、この、私です。記事はいかがだったでしょうか?」

「記事?・・・何のこと?」翔吾は考えまいとする内に、雑誌の記事のことを完全に忘れていた。

「あ、ご存じ無い?いやぁ、これはショックだなぁ」槍杉はまいったまいったと呟きながら脇に抱えたファイルから『21世紀アート』を取り出した。「これです、我ながら秀逸な出来だと自負しとるんですが・・・」

翔吾は手渡された雑誌をしばらく見つめ、「ダメですね。暗くって、読めません」と言って返そうとした。

「あのー」槍杉は刈り上げた頭をポリポリと掻いた。「差し出がましいようですが、もう夜ですし、サングラスを外されてはいかがでしょうか?」

しかし翔吾は返事をせず、サングラスを外す気配も見せなかった。記事を読みたくなかったからだ。

「あ、外したくない?うーん、困ったな。私としては是非、未野先生に記事のご感想を伺いたかったのですが・・・」

「あのさ」と翔吾は口を開いた。

「はい?」と槍杉は耳を傾けた。きっと根は生真面目な青年なのだろう。

「その、先生、って呼ぶの、止めてくれない?俺、人にモノ教えたこと無いから」

「あ、いや」槍杉はドギマギして顔を赤くした。「すみません、作家の方をお呼びする時は先生を付けるのが慣わしみたいになっているもんで・・・ご気分を害されるようでしたらもう申しません。未野さん、でよろしいでしょうか?」

翔吾は黙って頷いた。

「それで、未野さん」槍杉は次第に冷や汗を掻き出した。「私の記事を、どうしても読んでいただけないのでしょうか?」

翔吾は少し首を傾げ、口をへの字に曲げ、頭をちょっと掻いてから、相手に言った。「あんたさ、今日がどういう日だか、わかってるの?」

「は?」槍杉は一瞬不審な顔をしたが、すぐにハッとして口を押さえた。

「あんたの記事を読まないとは言って無い」翔吾はゆっくりと、ややドスを効かせた声を使って言った。「ただ、今日は読みたくないんだ。悪いけどね、俺は春子さんが亡くなったショックで、実のところここに立ってるだけで精一杯なんだよ。その上、俺の絵をあーだこーだと評した記事なんか読んだら、本当にまいっちまって、帰りの電車でホームから落ちて死んじまうかもしれない。あんたは俺を殺す気か?」

「そ・そんな、滅相もありませんっ」槍杉は蒼い顔になり、慌てて雑誌をファイルにしまった。「そ・それに、先生、あ、いや、未野さんの作品をあーだこーだと評したりはしておりません。私は先生、じゃなくって、未野さんの裸婦デッサンのたぐい稀な美しさに心底感動して、自分の感じたままを率直に記事にしたまでです。いつか、いつかお気の向いた時にでもご一読いただければ、それだけで・・・とにかく今日はこれで失礼します。若輩者故のご無礼、どうかお許しください。そして、貴重なお時間をありがとうございましたっ」

槍杉はペコリと頭を下げると逃げるように去ろうとした。翔吾はその後姿に声を掛ける。「おい、ちょっと待ちなっ」

「きゃっ!」と、槍杉は飛び上がるように立ち止まった。「な・・・なんでしょうか?」と泣きそうな顔で振り返る。

翔吾は相手の抱えたファイルを指差し、「後で読むから、さっきの、1冊くれない?」と訊いた後、突然耐え切れなくなって吹き出した。槍杉は何が何だかわからず、戸惑いながら雑誌を取り出し、お供えでもするみたいに両手で掲げる。爆笑する翔吾はそれを見てもはや立っていられなくなり、腹を抱えてしゃがみ込み、床に倒れ、仰向けに寝転んでヒーヒー笑い続けた。

「・・・あのー、未野さん、大丈夫ですか?」

槍杉は本当に心配になって彼の傍らにしゃがみ、顔を覗き込んだ。サングラスの端から、頬に幾筋もの涙が流れている。「未野さん、泣いてるんですか?笑ってるんですか?」

「・・・りょ・・・両方」翔吾は全身を痙攣させながらやっと答えた。

(ダメだ・・・俺、壊れたみたい・・・止まらない・・・亜輝子ーっ助けてくれーっ)





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